三十二着目の三針
行商の男は、原型を買わずに帰った。
翌朝、私は表戸を開ける前に、そのことを職人たちへ伝えた。侯爵家が金貨二百枚で売ろうとした麻の原型は、動作試験の前の線しか持たない未完成品で、あれから三十二着を仕立てることはできない。行商はそれを自分の目で確かめ、油紙を包み直して出ていった。
袖担当の職人が、小さく息を吐いた。安堵というより、当たり前のことが当たり前に終わった、という顔だった。誰も侯爵家の名を口にしなかった。この工房で、あの名前に割く時間はもう残っていない。
「では、今日のうちに三十二着目を組みます」
仕立台の上には、昨日までに裁ち終えた布が布目を揃えて重ねてある。麻は朝の冷えを含んで、指先にひやりと張りついた。着る方は、誓いの品を運ぶ役目とは別に、祭壇の脇でそれを受け取って捧げ持つ役目の老婦人だ。採寸のとき、腕を胸の高さまで上げると右の肘がわずかに震えた。本人は年のせいだと笑って隠そうとしたが、隠す必要はない。震えを止めるのではなく、震えても布が引かないように袖ぐりを取る。それがこの一着で、私が一番大事にしたい線だ。
身頃を合わせ、肩の線を指で押さえ、三針で仮留めする。縫い代の印はまだ決めない。着る方に歩き、座り、品を捧げ持ってもらってから、その動きの分だけ線を引く。私が侯爵家にいたころから変えていない順番だ。変えなかったから、三十一着が掛け棒に並んでいる。
昼前に、袖が付いた。
右袖だけ、袖山を左よりわずかに深く取ってある。肘が震えても、袖口が誓いの品に触れないための深さだ。裾を落とし、襟を据え、肩の三針はそのまま残す。まだ試験を終えていない印だ。本縫いに替わるのは、老婦人が動いてからになる。
針を針山へ戻して顔を上げると、並んだ仕立台の職人たちが手を止めていた。いつから止めていたのか、私は気づかなかった。
「三十二着目、組み上がりました」
誰も歓声は上げなかった。代わりに、袖担当の職人が壁の掛け棒を数え始めた。一列に十六着。二列で三十二着。王家用の十二着は肩の本縫いを終え、参列者用の二十着のうち、まだ着る方に動いてもらっていない分は、今日の一着まで肩に三針の仮留めを残したまま並んでいる。数え終えた職人は、もう一度、最初から数え直した。
「あとは、着る方ごとの最終調整だけですね」
「はい。参列者用のうち、まだ動いていただいていない方の分は、線を決めていない縫い代が残っています。ここから先は、私一人では引けません」
着る方が動いてくれなければ引けない線だ。だからその分は、組み上がった今も完成とは呼ばない。それでも、三十二着分の布が布目どおりに揃って掛かっている光景を、私は少しの間だけ眺めた。指先に残った麻の感触が、朝より軽い。針を持ち始めてから、この重さの違いを覚えたのは初めてだった。
午後、布商が絹の残りを納めに来た。荷を下ろしながら、声を落とす。
「侯爵家の件、耳に入れておいたほうがよろしいかと。融資元が、借入枠を三百枚へ縮めるだけでは済ませなかったそうです」
「止まったのですか」
「全面停止です。新しい貸し付けは一切なし。そのうえ、すでに貸してある金貨八百枚を、まとめて返すよう求めたと」
八百枚。比較した貴族の撤回三着が六百枚、年間契約五件が四百八十枚。旧工房が失った注文の額を、私はこれまで一つずつ聞いてきた。返せと言われた八百枚を、いまの侯爵家がどこから出すのか、私には分からない。布商の声には、噂を運ぶ者の少し浮ついた調子と、それを恥じる調子とが半々に混じっていた。
「そうですか」
それだけ答えて、私は絹の反物を受け取った。布商は続きを待っていたようだったが、私が布目を確かめ始めると、黙って荷札に印を付けた。絹は掌の下で、麻とは違う冷たさで滑った。
侯爵家を気の毒に思う気持ちは、やはり湧いてこない。それを隠す必要もないと思った。私が守るのは、掛け棒に並んだ三十二着と、この工房で針を持つ人たちの約束だけだ。それ以外のものに割く手は、私にはない。
夕刻、公爵が来た。
表戸を入ってすぐ、公爵は掛け棒を見た。私を見るより先だった。それを、私は嫌だとは思わなかった。
「三十二着目の完成時刻を、先に伺ってもよいでしょうか」
約束どおりの問いだった。
「組み上がりは昼前でした。完成と呼べるのは、着る方が動いてからです」
「では、まだ三十二着すべては完成していない、と」
「はい。ですが、私の手で組める分は、今日で終わりました」
公爵は掛け棒の前に立ち、肩の縫い目を端から順に見ていった。数えるというより、一着ずつ覚えているようだった。王太子妃の一着の前で、ほんの少しだけ長く足が止まった。
「エレノア様」
振り返った公爵の声は、いつもより少しだけ低かった。
「婚礼が終わったあとのことを、一つだけ、今日お伝えしてよいでしょうか。答えは今日でなくて構いません」
胸の奥が、朝から続いていた仕事の疲れとは別の理由で、速く打った。針を持つ手が震えたことは一度もないのに、いま、指先に力が入らない。
「伺います」
「婚礼が終わり、三十二着がそれぞれの方の身体で完成したあと。私はあなたに、仕事の依頼主としてではなく、正式に交際を申し込みたいと思っています」
公爵は私の手を取らなかった。一歩も近づかず、仕立台一つ分の距離を空けたままだった。その距離が、この人が私の仕事をどう見てきたかを、どんな言葉よりはっきり示していた。
「あなたの返事がどちらでも、工房の契約も、衣装の最終判断権も、何一つ変わりません。それだけは先に約束します」
私は、掛け棒の三十二着を見た。
仕事の外で公爵と食べた煮込みの温かさを、私は覚えている。帰路を受け入れたときの指先の熱も。それは、契約書に書いた条件と同じ紙には載らない。載らないものを、私はこれまで持ったことがなかった。
「一つ、条件があります」
「どうぞ」
「仕事と切り離してください。私が衣装について決めたことに、あなたが交際の相手として口を挟まないこと。私も、衣装の出来をあなたへの気持ちで変えないこと。そこが守れるなら――」
言葉が一度、喉で止まった。急かされてはいない。公爵は待っていた。私は自分で続きを選んだ。
「お受けします。婚礼が終わったあとに」
公爵は、すぐには何も言わなかった。しばらくして、深く息を吐いた。
「ありがとうございます。守ります」
それだけだった。抱き寄せられることも、手を取られることもない。それでも私は、自分の口で選んだ返事が、三針を本縫いに替えるときと同じくらい確かなものに思えた。頬が熱い。針仕事の熱ではないことだけは、自分でも分かった。
表戸が、勢いよく叩かれた。
入ってきたのは、端布を買いに市場へ出ていた若い針子だった。息を切らし、手には折り畳んだ粗い紙の束を握っている。
「エレノア様、これが市場で……一枚、銀貨三枚で売られていました」
仕立台に広げられたのは、紙に写し取られた型紙だった。肩から胸への基準線、袖ぐりの曲線。昨日、行商が持ち込んだ麻の原型と同じ線が、粗い墨で引かれている。修正線は、やはり一本もない。動作試験を経た線なら必ず残る細かな引き直しの跡が、どこにもない。
紙の隅に、印が押してあった。
――侯爵家 ミレーヌ考案。
腹の底が一瞬だけ熱くなり、すぐに冷えた。誰の名が押してあっても、線は名前で仕上がるものではない。着る方の身体で仕上がる。
「露店に、まだ何十枚も積んでありました。王太子妃の婚礼衣装と同じ袖型だと、呼び込みまでして」
金貨二百枚で買い手がつかなかった原型は、一晩でミレーヌの名を押され、銀貨三枚の紙に姿を変えて街へ流れ出していた。
私は紙を畳まなかった。そのまま、王宮の最終調整へ持っていく針箱の上へ置いた。
「王宮で着る方にお会いしたら、これも見ていただきます。使うかどうかは、その方が決めることです」
(第33話へ続く)




