肩代わりしない一着
新工房の名が書き加えられた帳面を、私は作業台の上で閉じた。
「この支払いは、お引き受けできません」
旧工房から来た使者は、困ったように帳面と私を見比べた。
「ですが、未完成品を今後仕立てるのは、こちらの工房だと聞いております。ならば、受け取った前金も――」
「受け取っていません」
私は書付の端を指で押さえた。
記されている未完成品は六着。前金は一着につき金貨五十枚、合計金貨三百枚だった。どの欄にも、受領した者として侯爵家の旧工房の印がある。
「その金貨三百枚を受け取ったのは旧工房です。私たちではありません。返すべきなのも旧工房です」
「しかし、客がこちらへ依頼し直せば、同じ一着ではありませんか」
「同じではありません」
裁つ人も、縫う人も、確かめる工程も違う。何より、依頼主がまだ私たちへ頼むと決めたわけではない。
旧工房から仕事を移すことと、旧工房が負った返還を新工房へ移すことは、まったく別の話だった。
「私たちは、依頼を受ける前に着る方の希望を聞きます。職人の納期も確かめます。そのうえで双方が合意した仕事だけを引き受けます。旧工房の未完成品を、そのまま私たちの仕事にすることはありません」
使者はなおも食い下がった。
「侯爵家の負担が大きすぎます。六着分となれば、金貨三百枚です」
「はい」
私はそれだけ答えた。
大きな負担だからといって、私たちが背負う理由にはならない。婚約者だった頃の私なら、仕立場を守るためだと言われれば、眠る時間を削ってでも穴を埋めようとしただろう。
けれど、その先に何が残るのかを私は知っている。
失敗は隠され、私の仕事は別の誰かの手柄になり、また次の穴を埋めるよう求められる。
「帳面はお返しします。新工房の名を削除したうえで、受領した工房から六件の依頼主へ返金してください」
私は帳面を使者へ戻した。
仕返しをしたいのではない。困らせるためでもない。ただ、自分たちが受け取っていない金貨を支払わず、合意していない仕事を引き受けない。
それが私の線引きだった。
翌朝、六件の依頼主が旧工房へ返還を求めた。
前日の公開試験で継続貴族客が零になったばかりだったこともあり、セルジュは返還を先延ばしにしようとしたらしい。だが、未完成の衣装も、仕上げられる職人も示せなかった。
昼を過ぎる頃には、旧工房から六件すべてへ前金が返された。
一着につき金貨五十枚。合計金貨三百枚。
受領の印が押された六枚の控えが、確認のため王宮の衣装係を通じて私たちのもとへ届いた。新工房の名は、どこにもなかった。
「これで、改めてお願いできます」
その日の午後、返金を受けた依頼主の一人が工房を訪れた。
けれど私は、旧工房で予定されていた品をそのまま作り始めなかった。まず着る日と用途を尋ね、本人に椅子へ座ってもらった。
「長く立っているのは苦になりません。ただ、馬車の中で袖口が手へ落ちてくるのが困るのです」
私は腕の長さを測り、肘を曲げてもらった。手首を返すと、袖口に必要なゆとりの位置が変わる。
担当を望んだ職人にも、縫いかけの仕事と休息日を確認した。
「飾り縫いを控えめにするなら、四日で仕上げられます。袖口は私に任せてください」
「では、飾りは襟元だけで結構です。四日後にお願いします」
依頼主がそう答え、職人もうなずいた。
そこで初めて、一着の仕事が始まった。
旧工房の六着を引き継いだのではない。返金を受けた依頼主と、納期を確かめた職人が、改めて合意した一着だ。
私は肩と袖の布目を合わせ、腕を曲げたときにだけ必要となる分を残して裁った。仮縫いでは馬車の座席と同じ高さの椅子を使い、膝の上で手を組む、窓へ手を伸ばす、扉の取っ手を引く動きを試してもらった。
「今度は、袖口が落ちてきません」
依頼主は何度か手首を返し、ほっと息をついた。
四日後、襟元だけに細い飾りを入れた一着が完成した。
着替えを終えた依頼主は、椅子へ座ったまま窓へ腕を伸ばした。袖口は手の甲へかからず、肩も引きつれない。
「これなら、馬車を降りるまで自分で窓を開けられます」
華やかな言葉ではなかった。けれど、困っていたことが一つなくなったという笑顔は、どんな称賛よりも確かだった。
職人も袖の縫い目を確かめ、満足そうに指を離した。
一着を完成させたのは、私一人ではない。着る方が望みを伝え、職人ができる納期を示し、その約束を守った結果だ。
六着分の責任を押しつけられなくても、必要な一着はこうして仕上げられる。
衣装を見送ったあと、公爵が工房へ入ってきた。机の上には、金貨三百枚の返還を示す六枚の控えが残っていた。
「侯爵家を救うための肩代わりを、断ったそうですね」
「はい。私たちが受け取っていない前金です。それに、依頼主と職人が選んでいない仕事まで引き継ぐことはできません」
言い切ったあと、胸の奥にわずかな固さが残った。
冷たいと思われたくないのだろうか。けれど、だからといって境目を曖昧にはしたくなかった。
公爵は六枚の控えではなく、完成品を載せていた空の仕立台を見た。
「正しい線引きだと思います」
静かな声だった。
「あなたが救うと決めたのは、着る方の一着と、働く職人の約束です。侯爵家の失敗まで救う必要はありません」
胸に残っていた固さが、ゆっくりほどけた。
公爵は私の代わりにセルジュを責めなかった。ただ、私がどこまでを自分の仕事とし、どこからを背負わないと決めたのかを、そのまま認めてくれた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。あなたが決めた境目を、私も越えないだけです」
夕刻、最後の針を針山へ戻すと、公爵は表戸のそばで足を止めた。
「今日は、帰路をご一緒してもよいでしょうか」
命令でも、当然のような申し出でもなかった。
婚礼が終わった後のことは、その時に私が答える。公爵はあの日から、その答えを急がせていない。今も、ただ今日の帰り道について、私へ選ばせている。
「はい。ご一緒します」
自分の口で受け入れると、仕事を終えたばかりの指先が少し温かくなった。
並んで歩く道では、肩が触れることはなかった。それでも、同じ速さで進む足音が二つあることを、私は何度も意識した。
工房から二つ目の角へ差しかかったとき、後ろから衣装係が駆けてきた。
「エレノア様、婚礼当日の運搬について至急ご確認を!」
差し出されたのは、衣装箱を運ぶ荷車の割り当て表だった。婚礼衣装三十二着を王宮へ運ぶ日の欄に、見覚えのない変更が加えられている。
新工房が手配していた荷車は取り消され、代わりの運搬を一括で引き受ける者として、侯爵家の旧工房が届け出ていた。
返金で私たちへ六着を押しつけられなかったセルジュは、今度は婚礼当日の衣装運搬そのものを押さえようとしていた。
(第30話へ続く)




