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違約金よりも確かな一着

 違約金の書状を前にしても、私は針を置かなかった。


 侯爵家の印が押された紙は、作業台の上でひどく場違いに見えた。仮縫い前であっても解約するなら、契約違反として違約金を請求する。そう記された文字よりも、指先に触れる布の張りと、縫いかけの襟のほうが、今の私には重要だった。


「こちらから侯爵家へ抗議してほしい」


 使者はそう頼んだわけではない。ただ、婚礼を控えた令嬢の言葉を伝えに来たのだ。


「解約を争っている間に、婚礼の日が来てしまいます。せめて外套だけでも、予定どおり仕立てていただけないでしょうか」


 声には焦りがにじんでいた。けれど、私が代わりに憤ったところで、婚礼までの日数は一日も増えない。


 旧工房との契約がどう扱われるかは、依頼主と侯爵家の間で決めることだ。私が違約金の正当性を争えば、今度は新工房が客を奪ったと言われるだろう。


 何より、依頼主が今必要としているのは言い争うための言葉ではない。


 婚礼の日に着られる一着だった。


「承ります。まず外套を完成させましょう」


 私は書状を畳み、作業台の端へ戻した。紙の乾いた音が止むと、工房には針が布を抜ける小さな音が戻った。


 依頼されたのは、婚礼のあと、馬車から新しい屋敷の玄関まで羽織る外套だった。白に近い淡い青の布は、冬の朝の光を含んだように美しい。しかし、重ねると肩へ重みが集まりやすい。裾を長くすれば見栄えはするものの、階段で踏むおそれもある。


 花嫁が飾り物のように立っているだけなら、形を整えるのは難しくない。けれど実際には、手を差し出し、馬車へ乗り、振り返って見送る人々へ応えなければならない。


 採寸は衝立の内側で行い、名前も数値も記さず、裁断情報を示す色糸の輪を付けた札は私の腰の袋へしまった。職人たちに渡したのは、縫う箇所と針幅を示した布片だけだ。


 私は肩先から首の付け根まで指を滑らせ、背丈を測り、もう一度左右を確かめた。数字だけでなく、息を吸ったときに肩がどちらへ動くかも見る。人の身体は、左右がまったく同じではない。


 まず仮布で肩を包み、令嬢に腕を前へ伸ばしてもらう。次に胸元の留め具を閉じ、歩き、振り返り、馬車へ乗るつもりで片足を上げてもらった。


「首の後ろが少し引かれます」


 令嬢は遠慮がちに言った。


「教えてくださって助かります。では、肩だけで重みを受けない形にします」


 背へ流れる布を指二本分だけ取り直し、留め具の力が一か所へ集まらないよう内側の帯へ分ける。裾は正面から見れば長さを保ち、足を上げたときだけ内側へ逃げるよう整えた。


 飾りを増やして隠すのではない。着る人が動いたところで生じる布の癖を、縫い目へ戻していく。


 三人の職人には身頃と裏地と留め具を任せ、私は肩と襟を受け持った。急がせる必要はなかった。婚礼までの日数から逆に数えれば、二度の試着と一日の休みを入れても間に合う。


「今夜中に仕上げなくてよいのですか」


 裏地を受け持つ職人が念のため尋ねた。


「疲れた目で縫えば、明日の朝にほどくことになります。今日は予定の線までです」


 三人の表情から力が抜けた。納期を守るのは、眠らずに針を動かすことではない。誰が、どこを、いつまでに仕上げるかを決め、やり直しを出さないことだ。


 最後の試着で、令嬢は外套を羽織ったまま工房の端まで歩いた。


 腕を上げ、振り向き、椅子へ腰を下ろす。立ち上がったあと、裾を気にせず三歩進んだ。淡い青の裾が床すれすれを流れ、靴先には触れなかった。


「軽いわ」


 令嬢は驚いたように肩を回した。


 実際に布が軽くなったわけではない。それでも、首と肩だけに集まっていた重さが背へ分かれれば、身体は軽く感じる。


「これなら、婚礼の最後まで自分で歩けます」


 その声を聞いて、私は襟裏に残していた仮留めの糸を抜いた。するりと抜けた白い糸を掌に収める。


 外套は完成した。


 受け取りの日、令嬢は一つの大きな箱を携えてきた。旧工房から届けられた、同じ婚礼のための外套だという。


「解約は認めない。すでに仕立てたのだから受け取れと渡されました」


 箱から出された外套には、胸から裾まで細かな飾りが並んでいた。金糸と真珠は灯りを受けて華やかに輝いたが、肩線は左右とも真っすぐで、腕を動かしたあとの形が入っていない。


 私は批評しなかった。言葉で劣ると決めれば、ただの悪口になってしまう。衣装は、着てもらえば分かる。


「比べるなら、同じ動きをなさってください」


 令嬢はまず旧工房の外套を羽織った。


 腕を前へ伸ばすと、背の布が張った。椅子へ座れば、胸元の留め具が喉元へ寄る。片足を上げたところで裾を踏みかけ、付き添いの者がとっさに肘を支えた。


「もう結構です」


 令嬢は浅く息をつき、外套を脱いだ。肩には重さをこらえた跡が残っていた。


 次に、私たちの外套へ着替える。


 腕を伸ばしても襟は動かない。座っても喉元に指一本分の余裕が残り、裾は靴先を避けて内へ返った。令嬢が振り向くと、布は一拍遅れて柔らかくついていき、元の形へ収まった。


 二着を着た本人が、しばらく鏡の中の自分を見比べた。


「違約金を恐れて、この先も身体に合わない衣装を受け取り続けるところでした」


 令嬢は旧工房の外套を箱へ戻した。


「侯爵家との年間契約は、私の名で終了させます。請求があるなら、額と根拠を明らかにするよう求めます」


 私が勧めたのではない。完成した二着を身につけた本人が、自分で決めたのだ。


 その比較を見届けていた付き添いの者たちは、それぞれの主人へ結果を伝えた。数日のうちに、婚礼や季節ごとの衣装を任せていた貴族家から、旧工房へ契約終了の知らせが届いた。


 消えた年間契約は、合わせて五件。予定されていた注文は三十二着、代金にして金貨四百八十枚。採寸を待っていた客と家族は十四人にのぼった。


 どの家も、私たちとの新しい年間契約を条件にはしなかった。次の一着を誰へ頼むかは、必要になったときに仕上がりを見て決めるという。


 それでよいと思った。


 看板に従って工房を選ぶのではなく、着る人が自分の身体で確かめて選ぶ。その積み重ねだけが、私の仕事を支えてくれる。


 五件の知らせが届いた翌日、公爵が工房を訪れた。


 私は婚礼用外套で用いた肩の仕立てを、参列者用の上着にも使えるか確かめようとしていた。だが、仮布を着て動ける職人は皆、それぞれの持ち場に入っている。


「体格が違えば試験にはならないでしょうか」


 公爵の申し出に、私は手を止めた。


「次に裁つ上着と肩幅が近いので、動いたときの布の流れは確かめられます。ただし、何度も腕を上げていただくことになります」


「あなたが必要だと判断する動きを教えてください」


 公爵は上着を脱ぎ、私が縫った仮布へ腕を通した。


 これまでにも試着へ立ち会ってもらったことはある。けれど、今日は公爵自身の肩へ私の布が載っている。いつもより近く感じる体温に、私は縫い目だけを見るよう意識した。


「右腕を前へ。次は横へ上げてください」


 背の布がわずかに斜めへ引かれた。私は後ろへ回り、肩甲骨の下へ指を添えた。仮布越しに、腕の動きが掌へ伝わる。


「ここを直します。そのまま動かないでください」


「はい」


 布をつまみ、三針で仮留めする。針先が身体の近くを通っても、公爵は肩に力を入れなかった。


「怖くはありませんか」


 思わず尋ねると、公爵は正面を向いたまま答えた。


「あなたの腕を信頼しています。ですから、必要なあいだは身を預けます」


 仕事についての言葉だと分かっているのに、針を持つ指へ熱が移った。信頼という言葉が、胸の内へ静かに落ちてくる。


 私は呼吸を整え、もう一度腕を上げてもらった。今度は背の布が引かれず、襟も崩れない。


「できました」


 そう告げると、公爵は私が離れるまで姿勢を変えずに待った。


 信じてもらった腕で、その信頼に応える。胸の高鳴りを縫い目へ混ぜずに仕上げられたことが、何よりうれしかった。


 動作試験を終えた直後、表戸の向こうで馬車が止まった。蹄の音に続き、固い靴音が近づいてくる。


 届けられたのは侯爵家の印を押した一枚の要求書だった。差出人はミレーヌ。旧工房の外套が劣るという評判は、公爵のひいきによって作られたものだと記されている。


 そして、その主張を証明するため、彼女は貴族客の前で新旧両工房が同じ条件の衣装を仕立てるよう求めていた。


 要求書の最後には、大きな字でこうあった。


「公開の仕立て比べを受けなさい、エレノア」


(第28話へ続く)

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