秘密を守る採寸
採寸用の紐を手にしたまま、私は若い職人へ尋ねた。
「次の仮縫いのお客様は、もういらしていますか」
「控えの間でお待ちです。ただ、仮縫いで寸法を確かめ直すのは受けたくないと……」
若い職人は声を落とし、困ったように採寸室の扉を見た。
無理もない。体形の悩みを皆の前で言わされるという噂を聞けば、工房の扉をくぐるだけでも勇気がいる。どんな布を選んだかなら笑って話せても、胸や腰の寸法まで人に知られたい者はいない。
私は採寸室へ衝立を二枚運び、隙間ができないよう角度を確かめた。窓の薄布を下ろすと、朝の日差しが柔らかくなり、外から中の姿は見えなくなった。
使うのは採寸紐と印糸、それに小さな記録札だけだ。
「お通ししてください。採寸には私一人で立ち会います」
やがて入ってきた女性は、胸元を隠すように肩掛けを握っていた。扉が閉じても、視線は衝立の隙間を確かめるように動いている。
「本当に、職人の前で寸法を読み上げるのではありませんの?」
「読み上げません。私が測り、私が印を付けます。職人へ渡すのは、裁つために必要な線を写した布だけです」
「けれど、どこを直したか見れば……」
「左右や前後の差を知る必要がある箇所は、私が裁断します。ほかの者へ、採寸の数字も理由も知らせません」
私は記録札を裏返して見せた。名前はなく、数字の代わりに色の違う糸輪を付けるための穴だけがある。
「完成まで、この札は私が持ちます。完成後は糸を外します」
「名前さえ書かないのですね」
「礼装を仕立てるのに、お悩みへ名前を付ける必要はありませんから」
女性はしばらく札を見つめ、それから肩掛けを握る力を緩めた。
「……では、お願いします」
私はまず、前回の採寸を基に、立った姿勢で肩と背、腰回りを確かめ直した。紐をきつく引かず、指一本が入る程度に添わせる。数字は口にせず、紐へ直接、赤や青の印糸を結んだ。
だが、それだけでは礼装は作れない。
「普段、宴席ではどのように座られますか」
用意した椅子へ腰かけてもらうと、女性は背筋を伸ばした途端、浅い息を吐いた。肩掛けの下で胸がほとんど動いていない。
「昔から、座ると胸の下と脇腹が苦しくなります。仕立屋には姿勢が悪いからだと言われました。だから会食では、なるべく早く席を立つのです」
言葉の最後に、諦めを隠すような笑みが浮かんだ。
合わない礼装のために、着る人が息の仕方まで変えさせられている。それを本人の姿勢のせいにするのは、仕立てとは呼べない。
「姿勢のせいと決める前に、布の動きを見せてください」
私は腰掛けたまま腕を前へ伸ばし、杯を取る動きをしてもらった。背から脇へ布が引かれ、腹部では必要なゆとりが変わる。立っているときと座っているときでは、同じ寸法でも苦しさは同じにならない。
私はその変化を数字ではなく、仮布へ三針で留めた。
肩頂点、布目、腕のゆとり。
針先が布を抜けるたび、女性の目が私の手を追った。
「もう一度、深く息を吸ってください」
呼吸で広がった位置へ指を添え、縫い代を残す。前から見える線は崩さず、内側の重なりだけが座った動きに応じて開くようにする。
「苦しくなったら、我慢せずおっしゃってください」
「我慢しなくてもよいのですか」
「我慢されたままでは、正しく直せません」
女性は驚いた顔をしたあと、今度は先ほどより深く息を吸った。
仮縫い前の確認を終えたあと、私は衝立の外で待つ職人たちへ布を渡した。作業場には鋏の音と、針が布を擦る小さな音が絶えず続いている。
「この青い糸輪までは細かな曲線縫い。そこから裾までは長い針目が得意な人へ。脇の重なりは私が仕上げます。数字を書き写す必要はありません」
「では、曲線は私が」
「裾は任せてください」
誰も採寸内容を尋ねなかった。
布に引かれた線と、私が指定した縫い順だけを受け取り、自分の得意な作業へ戻っていく。それがこの工房の仕事だった。誰がどこに困っているかではなく、どの手ならこの一針を最も美しく仕上げられるか。それだけを見ればいい。
仮縫いでも、女性には立つ、座る、腕を伸ばす、深く息を吸う動きを繰り返してもらった。
一度目は、座ったときに背の布がわずかに上がった。私は脇の縫い目を解き、後ろ身頃へゆとりを移した。糸を抜くたびに生じた小さな穴は、指先で布目を整えて消した。
二度目は、胸元の線を崩さずに息を吸えた。ただし、椅子から立つと内側の重なりが戻り切らない。留める位置を指一本分ずらし、薄い布を一枚減らした。
三度目、女性は椅子へ座ったまま、茶器を取るように腕を伸ばした。恐る恐るだった動きが途中から滑らかになり、背筋を伸ばしたまま肩まで自然に動く。
「苦しくありません」
声に驚きが混じっていた。
それでも私は完成とは言わなかった。
「このまま少しお話しください。長く座ったあとでなければ分からないこともあります」
女性は半刻ほど、職人が針を進める音を聞きながら過ごした。途中で姿勢を変え、背もたれにも寄りかかってもらう。初めは何度も胸元へ手をやっていたが、やがてその手も膝の上へ下りた。
立ち上がったとき、表の線は崩れていなかった。
そこから本布を裁ち、飾りを縫い付ける前に、もう一度だけ座った姿を確かめた。鋏を進めるのは、布が最も静かに台へ沿った瞬間だけだ。飾りは第25話で選ばれた位置と同じように、着る人自身が決められる。けれど今回、私が最も守りたかったのは、外からは見えない内側だった。
数日後、灰みを帯びた青の礼装が完成した。
女性は鏡の前で裾を整え、そのまま椅子へ腰かけた。背筋を伸ばし、腕を前へ出し、深く息を吸う。
胸元の飾りは動かない。脇にも不自然なしわは寄らず、座った腹部を締め付けることもなかった。青い布の光だけが、呼吸に合わせてわずかに揺れた。
「このまま、座っていてもよいのですね」
「もちろんです。礼装は立って見せるためだけのものではありませんから」
女性は椅子に座ったまま笑った。先ほどまで鏡の中の線を確かめていた目が、今はまっすぐ私へ向いている。
「これまでの宴では、苦しくても平気な顔をするのが礼儀だと思っていました。今は、座ったまま息をしても、きれいに見えます」
その一言を聞いたとき、何度も縫い直した内側の重なりが、ようやく一着の礼装になった気がした。
その感想は、私たちが宣伝するより早く広まった。
どこを何寸直したのかは、誰にも伝わらなかった。伝わったのは、仮縫い前の確認中にほかの客や職人へ悩みを聞かれなかったこと。そして完成した礼装なら、長く座っていても苦しくなかったという事実だけだった。
三日後、布商が工房へ寄り、旧工房の様子を教えてくれた。
「仮縫いの予約が、七件取り消されたそうです。皆さん、ご自分で使いを出されたとか」
七件。礼装七着、一着につき金貨十二枚。旧工房が失った注文額は合計金貨八十四枚だ。七着を受け持つはずだった裁ち手と針子、合わせて十四人の仕事も消えたという。
王家の命令でも、公爵の勧めでもない。噂を聞き、完成した礼装を着た本人の言葉を確かめた客たちが、自分で選んだ結果だった。
私は喜んで言い触らすことも、旧工房から客を連れてくることもしなかった。頼まれていない仕事へ手を出せば、それは相手の選択を奪うことになる。
ただ、目の前の一着を完成させる。
それで十分だった。
夕方、公爵が完成品の確認に訪れた。礼装はすでに持ち主へ渡したあとだったので、私は動作ごとの修正箇所だけを作業台の仮布で説明した。
公爵は記録札へ一度目を向けたが、手を伸ばさなかった。
「採寸の値を、私が知る必要はありませんね」
「はい。着る方と、裁断する私だけで足ります」
「では、一つだけ。完成後の着心地は、どうでしたか」
「座ったまま半刻過ごしても、苦しくなかったそうです」
「それなら、聞きたかったことはすべてです」
短い返事なのに、胸の奥が静かに温かくなった。
私を信じると言いながら、何もかも知ろうとはしない。仕事を評価するためにも、越えてはならない境目があると分かっている。その距離の取り方を、私は心地よいと思った。
「ありがとうございます」
私が礼を言うと、公爵は理由を尋ねず、ただうなずいた。
その夜、旧工房から仮縫いを取り消した家の使者が、私たちの工房へ駆け込んできた。
扉が開く音に、作業を終えかけていた職人たちの手が止まる。使者は息を切らしながらも、新しい依頼を差し出す前に、一通の書状を作業台へ置いた。厚い紙には侯爵家の印が押されている。
予約の取り消しを申し出た七件すべてへ、セルジュが同じ書状を送りつけていた。
仮縫い前であっても解約するなら、契約違反として違約金を請求する――そう記されている。
「主は支払うべき額を尋ねました。侯爵家は、金貨五十枚だと示したうえで、こう答えたそうです」
使者は息を整え、セルジュの言葉をそのまま告げた。
「新工房へ移るなら、家名に傷がつく額を覚悟しろ、と」
工房の中から針音が消えた。
七件の客が自分で選んだ扉を、セルジュは今度、違約金という鎖で閉ざそうとしていた。
(第27話へ続く)




