選べる礼装
侯爵家が八家の貴族客へ何を吹き込んだかを聞いても、私は針を止めなかった。
公爵のひいきで王家御用達を奪ったのだと言われたからといって、私が言葉で言い返せば、今度は公爵の庇護を頼ったと騒がれるだけだ。
噂は、縫い目を一つも整えてくれない。短い袖を伸ばしもしなければ、座れば引きつる胴回りを直しもしない。
だから私は、裁断台に広げた礼装へ目を戻した。
次に仕上げるのは、婚礼に参列する方のための一着だった。
落ち着いた灰青色の布に、同色の糸で細い蔓模様を刺してある。窓から差す光を受けると、蔓の線だけが水面のように淡く浮かんだ。飾りには銀糸の花が六輪。華やかさは足りているが、最初から位置を決めて縫いつけてしまえば、着る人に似合う場所まで私が決めることになる。
「この六輪は、まだ留めないのですか」
職人の一人が尋ねた。銀糸の花を手にしながら、縫いつける場所を探している。
「はい。肩、襟元、腰の三か所に、小さな糸輪を作ります」
表からは見えないほど細い輪を、それぞれ二つずつ。銀糸の花の裏には、布を傷めない薄い留め具を縫い込んだ。
肩へ一輪、襟元へ二輪、腰へ三輪と置くこともできる。反対に、肩には何も置かず、腰へすべて集めることもできる。
鏡の前で選び、気が変われば付け替えられる仕立てだ。
「飾りの位置まで、着る方に選んでいただくのですね」
「礼装を着るのは私たちではありませんから」
同じ背丈でも、目立たせたい場所は違う。肩の線を美しく見せたい人もいれば、胸元へ視線が集まるのを好まない人もいる。腰の高さを強く見せたい人も、飾りを控えて布そのものを見せたい人もいる。
採寸は身体に合う形を探すためのものだ。どう見せたいかまで、数字だけで決めてよいはずがない。
私は礼装を仮縫いの人台から外し、裏返して縫い代を確かめた。腕を上げたときに肩の糸輪が引かれないよう、留める位置を縫い目から指一本分だけ離す。腰の輪は、座ったときにも飾りが折れない高さへ移した。
職人に着せつけを頼み、私は肩口へ手を入れた。布を引かずに腕が上がるか、脇の縫い目が前へ回らないかを、指先の感触で確かめる。腰へ花を六輪すべて留めても、重みで片側だけが沈まないよう、内側にはごく薄い当て布を置いた。
工程はそれほど長くない。けれど、選べるようにするには、どこへ移しても布の線が崩れないことが必要だった。
「好きな場所へどうぞ、と言うだけなら簡単ですね」
腰を担当した職人が、裏側の当て布をなぞった。
「ええ。どこを選んでも美しく着られるところまで整えて、初めて仕立てになります」
昼過ぎ、着用者が試着に訪れた。
私は六輪の花を浅い箱へ並べ、鏡の前へ置いた。灰青の布に銀色が映え、箱の中だけに小さな庭ができたようだった。
「こちらの糸輪へ、ご自身でお好きな数を留めていただけます」
「あなたが決めるのではないの?」
着用者は意外そうに私を見た。これまでの仕立屋では、飾りの位置まで決められたものを着るのが当然だったらしい。
「ご希望があれば候補はお示しします。ただ、最後に選ぶのは、これをお召しになる方です」
「間違った場所へ留めたら、おかしくならない?」
「どの糸輪を選んでも、礼装の形は崩れません。まずはお好きなようにお試しください」
着用者はおそるおそる、左右の肩へ一輪ずつ置いた。
鏡を見て、右だけを外す。次に襟元へ二輪を並べたものの、首をわずかに傾け、そこから一輪を腰へ移した。
私は口を挟まず、少し離れて待った。
銀糸の花を持つ指が、だんだん迷いなく動いていく。何度か場所を替えたあと、右肩に一輪、腰の左側に三輪を寄せ、残る二輪は使わない形に決まった。
「全部を飾らなくてもよいのね」
「はい。外した二輪は箱へ収めます。婚礼の日に付け足すこともできます」
「六輪あるなら六輪とも使うべきだと思っていたわ」
「使わないと決められることも、選べるということです」
着用者は鏡の前で腕を上げ、半歩ずつ左右へ向きを変えた。銀糸の花は肩の動きを遮らず、腰へ寄せた三輪も布の流れに沿って揺れた。
最後に椅子へ座ってから、もう一度立つ。
飾りは折れず、灰青色の裾も元の線へ静かに戻った。着用者は腰へ手を添え、それから背筋を伸ばした。試着室へ入ったときよりも、その姿はずっと堂々として見えた。
「自分で選んだのに、仕立ててもらった形を壊していないわ」
「どこを選んでも崩れないように仕立てました」
答えると、着用者は鏡の中の自分を見て笑った。
「では、この形で着るわ。婚礼の日に気が変わったら、そのときは私が替えます」
その言葉を聞いて、私はようやく六輪分の小箱へ布を掛けた。
一着が完成した。
私が美しいと思う位置を押しつけた礼装ではない。着る人が、自分の姿を見て選び直せる礼装だ。
胸の内に、細い糸がぴんと張るような喜びがあった。褒め言葉よりも、着用者が鏡の前で自分の姿を好きになっていく、その変化がうれしかった。
職人たちも完成台の周りへ集まった。肩の糸輪を担当した者は腕の動きを確かめ、腰の縫い代を担当した者は座ったあとの線を見る。
誰も、自分の縫った場所が選ばれなかったことを残念がらなかった。
選ばれない飾りまで丁寧に仕上げておくことも、私たちの仕事だった。
着用者が帰ったあと、王宮の衣装係が封書を四通持ってきた。
どれも新工房への注文書ではなかった。
「侯爵家の旧工房へ出されていた、年間注文の撤回通知です」
四件の依頼主は、礼装や季節ごとの上着を継続して任せていたという。王家御用達の資格が正式に失われたと知り、それぞれが自分の判断で契約を終えたのだ。
撤回された注文は年間で二十四着、代金は合わせて金貨四百八十枚。旧工房の職人六人が一年働いて得る工賃に相当する額だという。
公爵の好意について広められた話も、耳には入っていたらしい。
それでも四件の依頼主が確かめたのは、誰が誰を好いているかではなかった。王家用十二着を実際に着た者が歩けたか、座れたか、腕を上げられたか。そして、王家御用達の資格が継続されなかったという事実だった。
「新工房へ移るよう、あなたから勧めたのですか」
衣装係に問われ、私は首を振った。
「いいえ。私からは何も」
四件が次にどこへ注文するかも、まだ決まっていない。
それでよかった。
私が侯爵家から客を奪ったのではない。依頼主たちが、二十四着と金貨四百八十枚を預ける先を、自分で選び直したのだ。
王家御用達を失った旧工房から、四件の年間注文が消えた。
私は撤回通知へ手を触れず、完成した灰青色の礼装へ向き直った。旧工房を助けるつもりも、代わりに事情を説明するつもりもない。
私がすべきことは、こちらを選んだ人の一着を仕上げることだけだ。
夕方、職人たちが帰ったあとも、公爵は完成台の前に残っていた。
昨日、好意を告げられたばかりだ。
二人きりになったことを意識すると、針を箱へ戻す小さな音まで、静かな工房に大きく響いた。
「飾りの場所を、ご自分では決めなかったのですね」
「似合う候補は作れます。でも、どう見られたいかを決めるのは着る方です」
「選ぶための形を整え、最後の判断は本人へ返す」
公爵はそう言ってから、少し間を置いた。
「私にも、その順を守らせてください」
胸の奥が、昨日とは違う速さで鳴った。
公爵は私へ近づかず、作業台を挟んだ場所に立っていた。その距離が、かえって私を落ち着かなくさせる。目を伏せれば、磨かれた裁ちばさみへ自分の熱い頬がぼんやり映った。
「婚礼が終わったあと、改めてあなたに交際を申し込んでもよいでしょうか」
今すぐ返事を求める言葉ではなかった。
婚礼衣装三十二着を仕上げる仕事の最中に、私の判断を急がせないための問いだった。私の腕を認め、仕事を妨げず、そのうえで私自身の気持ちを待とうとしている。
それでも、頬へ熱が集まる。
うれしいという気持ちは、もう隠せなかった。けれど、その気持ちだけで今後まで決める必要はない。私は誰かに選ばれるのを待つだけの人間ではなかった。
「その時に、私が自分でお答えします」
「はい。あなたの答えを待ちます」
それだけで話は終わった。
差し出される手も、約束を迫る言葉もない。私は自分の時間と返事を、まだ自分の手に持っていられた。
公爵が帰ったあと、灰青色の礼装を覆う布を整えた。指先はいつもどおりに動いたのに、胸の鼓動だけは、しばらく縫い針を進める速さには戻らなかった。
翌朝、工房の表戸を開ける前に、若い職人が息を切らして駆け込んできた。
冷たい朝気と一緒に飛び込んできた顔から、ただ事ではないと分かった。
町の仕立屋と貴族家の使用人たちの間で、新しい噂が広まり始めているという。
今度のミレーヌは、公爵の好意を口にしなかった。
代わりに、私たちが着用者へ飾りの位置を選ばせたことを、まるで恥をさらす工程であるかのように言い換えていた。
「新工房へ行けば、太いところも、隠したいところも、客の前で一つずつ暴かれる。体形の悩みを皆の前で言わされるそうよ」
若い職人は悔しそうに唇をかんだ。私は閉じかけていた針箱から、採寸用の紐を取り出した。
言葉で言い返すつもりはない。
けれど、採寸を恐れている人には、私の手が何をするのかを、きちんと見てもらわなければならない。
その噂はすでに、次の仮縫いを控えた客の耳にも届いていた。
(第26話へ続く)




