息のできる礼装
古い王家御用達の看板を掲げた注文案内は、翌朝には王宮にも届いていた。
けれど、私が手に取ったのは案内の紙ではなく、仮縫い中の礼装だった。
紙にどれほど立派な言葉を並べても、縫い目が整うわけではない。古い看板が正しいかどうかを決めるのも、私ではない。私にできるのは、目の前の一着を、着る人が無理なく動ける形に仕上げることだけだ。
今回の着用者は、胸元をきつく締めると息が浅くなるという。
「立っているときは我慢できます。ですが、長い儀礼で座ったあと、立ち上がると苦しくなるのです」
本人がそう話してくれたので、私は立位だけでなく、椅子に腰かけた姿勢でも採寸した。
肩から胸へ採寸紐を沿わせ、息を吐いたときと吸ったときの差を指先で確かめる。座ると腹部がわずかに前へ動き、それにつられて胸元の布も持ち上がる。その小さな変化を無視すれば、立っている間だけ美しい衣装になってしまう。
胸囲を細く見せるために締めつければ、立ち姿だけは整う。けれど、息を吸うたびに布が引かれ、肩まで上がってしまう。長く着れば、笑う余裕さえなくなるだろう。
「細く締める方法と、布の重なりで縦の線を作る方法があります。どちらを試されますか」
「息ができるほうをお願いします」
迷いのない答えだった。その声を聞いてから、私は前身頃の留め位置を決めた。
内側は身体に沿わせすぎず、外側の布を斜めに重ねる。胸元から腰へ落ちる線を二本に分け、濃淡のある縁飾りを縦へ通した。余分に見える布は切り落とさず、脇へ薄く畳んで逃がす。
締めつけて形を押し込むのではない。重なりによって、見る人の目にすっきりした線を作るのだ。
三針で肩と布目と腕のゆとりを留め、着用者に歩いてもらう。次に座り、深く息を吸い、腕を胸の前まで上げてもらった。仮縫いの糸が張るか、布の表面に斜めのしわが走るかを、目だけでなく指先でも追う。
「苦しくありませんか」
「ええ。これなら、息を吸っても胸元が動きません」
「もう一度、立っていただけますか」
立ち上がったとき、脇へ逃がした布がわずかに開き、また自然に戻った。正面の線は崩れていない。
私はその動きを見てから、ようやく縫い代へ印を入れた。白い印粉が濃い布の上に細い道を作る。ここまで確かめて初めて、鋏を入れられる。
直線の長い箇所は針幅の揃う職人へ、重なりの先端は細かな曲線を得意とする職人へ任せた。飾りを付ける前に、もう一度だけ座位を確かめる。見栄えを整える工程は、そのあとだ。
それぞれの手へ布が渡ると、止まっていた針音が重なり始めた。急がせる必要はない。納める時刻から逆算し、仕上げの確認に必要な時間まで残してある。
昼を少し過ぎた頃、礼装は完成台へ上がった。
正面から見れば、腰まで続く二本の線が身体をすらりと見せている。けれど内側には、指が二本入るだけの余裕が残っていた。指を抜けば、その余裕は外からは見えない。
着用者は鏡の前で一度横を向き、恐る恐る息を吸った。それから、今度は大きく胸を膨らませた。
「形が崩れません」
驚きに見開かれていた目が、ゆっくりと細くなる。
「布が動きを受けるように重ねていますから」
「細くするには、我慢するしかないと思っていました」
その言葉に、昔の仕立場を思い出した。
見本として飾る衣装は、立っている姿だけが美しければよい。苦しいと言われれば、礼装とはそういうものだと返す。セルジュもミレーヌも、それを当然だと思っていた。私が寸法を取り直そうとすれば、余計な手間を増やすなと顔をしかめたものだ。
けれど衣装を着るのは、飾り台ではない。
歩き、座り、息をして、自分の言葉を口にする人だ。
「我慢しなくても整う形はあります。見つけるまで試すのが、仕立てる側の仕事です」
鏡越しに、着用者がほっと笑った。先ほどまで固く上がっていた肩も下がっている。その姿を見た瞬間、仕上がったのは布だけではないのだと感じた。
完成を確認していた公爵は、しばらく何も言わなかった。いつものように衣装へ不用意に触れず、私と着用者のやり取りを少し離れた場所から見ていた。
「公爵?」
呼ぶと、ようやくこちらを向く。
「失礼しました。線の作り方を見ていたつもりが、それだけではなかったようです」
「何か不具合がありましたか」
「いいえ。むしろ逆です」
公爵はそこで言葉を切り、完成した礼装ではなく、深く呼吸する着用者を見た。
「美しく見えることより、まず本人が息をできることを選ぶ。その順を、あなたは一度も取り違えないのですね」
「着る方が苦しんでは、礼装の役目を果たせませんから」
当たり前のことを答えたつもりだった。
けれど公爵は、何かを確かめるようにゆっくりとうなずいた。その眼差しを受けると、胸元を締められたわけでもないのに、私の呼吸だけが少し頼りなくなった。
私はごまかすように針山の位置を直した。けれど、整えたはずの指先には、公爵の言葉が温かく残っていた。
公爵があのとき、私の腕を評価する気持ちとは別に、私自身の人柄へ惹かれていると初めて自覚したのだと知るのは、もっとあとのことである。
その日の午後、完成した礼装を王宮へ運び、王家側の着用試験が行われた。
同じ場には、侯爵家の旧工房が見本として納めていた十二着も並べられていた。古い王家御用達の看板を使って新しい注文を集めている以上、看板に見合う仕事を今も行えているか、王家が確認することになったのだ。
どれも衣装台に掛けられている間は華やかだった。金糸も飾り釦も惜しみなく使われ、遠目には欠点など見えない。
けれど試験では、着用者本人が締めつけの程度を選び、歩行、着席、挙手の順に動いた。衣装台には必要のない動きばかりだった。
一着目は、座ると襟が喉へ当たった。
二着目は、腕を上げると背の縫い目が強く引かれた。
三着目は、深く息を吸っただけで胸元の留め具が斜めになった。
裾が靴へ絡むもの。片方の袖だけが上がりにくいもの。腰を締めなければ正面の飾りが歪み、締めれば座れないもの。
動くたび、華やかだった形が崩れていく。室内には布擦れの音と、息を詰める気配だけが残った。
王宮の衣装係は、一着ごとに着用者へ尋ねた。
「この状態で、婚礼の儀礼を最後まで行えますか」
答えは、十二着のうち十一着で否だった。
残る一着も、立位では目立った不具合が出なかったというだけで、すべての動作に適すると決まったわけではない。さらに詳しい試験へ回されることになった。
私の礼装を着た人は、同じ順に歩き、座り、腕を上げた。最後に深く息を吸い、そのまま言葉を続けた。
「苦しくありません。座っても、立ったときと同じに見えます」
重なった布はわずかに開いて動きを受け、元の線へ戻っていた。
私は声を上げなかった。ただ、狙ったとおりに戻った二本の線を見つめた。採寸し、裁ち、職人の手を選んで渡し、何度も動きを確かめた。そのすべてが、着用者の落ち着いた呼吸になって表れていた。
王家側は、その場で侯爵家へ通知を出した。
不適合となった見本は十一着。一着につき金貨二十枚、合計金貨二百二十枚を返金すること。
十二着の注文のうち十一着が不適合となり、金貨二百二十枚が失われた。古い看板だけでは埋められない、はっきりした損失だった。
私は通知へ口を挟まなかった。返金を求めたのは着用者でも私でもなく、試験結果を確認した王家である。
古い看板が残っていても、苦しさまでは隠せない。
工房へ戻ると、公爵は作業台の前で足を止めた。夕方の光が、使い終えた鋏と針の影を長く伸ばしている。
「今日は、よく休んでください。次の工程は明日、決めた時刻からで構いません」
「はい。残る衣装も、着る方の呼吸から確かめます」
返事をした直後、表戸が大きく叩かれた。
入ってきた王宮の使者は、封書を差し出さなかった。工房にいる職人全員へ聞こえるよう、中央で正式な告知を読み上げた。
「王家御用達工房の資格を継続するか否か、最終実演によって決定する。対象は、侯爵家の旧工房と、エレノア・リースの指揮する新工房。双方は王家用十二着を揃え、指定された全動作試験へ臨むこと」
仕立場の針音が、一斉に止まった。
誰も声を上げなかった。けれど、隣の職人が握る針にも、裁断台へ置かれた私の手にも、迷いはなかった。
古い看板が残るか、外されるか。
それを決める最後の実演が、ついに告げられた。
(第24話へ続く)




