色の違いを飾りに
ミレーヌの専属契約書は、返事欄が空白のまま夜を越した。
作業台の隅に置かれた紙は、朝の光を受けても白いままだった。署名を迫る言葉だけが黒々と並び、その下の空欄が、かえって染め職人本人の意思を待っているように見えた。
翌朝、その染め職人が新工房を訪れた。腕には染め見本を包んだ布を抱え、手には昨夜の契約書を持っている。外気の冷たさと、染料を扱う作業場のかすかな匂いも一緒に運び込まれた。
「侯爵家からは、今後の仕事をすべて引き受けるなら報酬を上乗せすると言われました」
工房の職人たちが針を止めかける。糸を引く音が一瞬だけ途切れた。
私は手を上げず、視線だけで仕事を続けてもらった。これは誰かに答えを合わせてもらう場ではない。染め職人が自分で条件を比べ、自分で決めるための場だ。
「こちらから専属を求めるつもりはありません」
私が告げると、染め職人はまっすぐに私を見た。その顔には安堵よりも、私の言葉が本当か確かめようとする厳しさがあった。
「では、私がどちらの依頼を受けるか決めてもよいのですね」
「もちろんです。お見せするのは布と必要な色、期限、報酬だけです。引き受けるかどうかは、それをご覧になってから決めてください」
私は三枚の絹を作業台へ並べた。
同じ青でも、一枚は薄雲をかけたような灰色を帯び、もう一枚は光を受けると紫が浮く。最後の一枚だけが、王宮から指定された深い青に近い。並べるほど差がはっきりし、無理に同じ布だと言い張ることなどできなかった。
けれど、指の腹で撫でれば、三枚とも軽くしなやかだった。違うのは色であって、布の良さではない。
「三枚をまったく同じ色にする必要はありません。薄い二枚へ一段ずつ色を重ねたいのです。ただし、布の柔らかさは残してください」
「濃い色で塗り潰さないのですか」
「それでは染料を含みすぎて、襞が重くなります。歩いたときに裾が戻らず、袖も沈みます。この違いを消すのではなく、順に並べて飾りへ変えます」
染め職人は布端を指で揉み、窓辺へ運んだ。表から眺め、裏返し、光へ透かす。布同士を重ねて離し、また重ねる。その手つきには、長く色と向き合ってきた人だけが持つ迷いのなさがあった。
やがて自分の染め見本を広げ、三枚の横へ置いた。
「乾燥まで一日半。染めた日は、夜まで作業場へ残れません。翌日は休みです」
「その日程で組みます」
私はすぐに答えた。急がせて乾燥を損なえば、表面だけ乾いても縫い目から色がにじむ。半日を惜しんで一着を駄目にするより、待つ間に別の針を進めればよい。
「侯爵家からは、婚礼まで休まず働くことが条件だと言われました」
染め職人は契約書へ目を落とした。そして返事欄には何も書かないまま、紙をきっちり二つに折った。
「私は、こちらの依頼を受けます。誰の布を染めるかは、私が選びます」
命じられたからでも、侯爵家への仕返しでもない。その人が期限と報酬、それに休める日を比べ、自分の仕事先を選んだのだ。
工房の針音が戻った。先ほどよりも心なしか軽く、揃って聞こえた。
私は必要な分だけ布を裁ち、染め職人へ渡した。余分まで預ければ、試し染めと本番の境が曖昧になる。細長い端布を先に染めてもらい、乾いた色を確かめてから本布へ進む。失敗を恐れて布を抱え込むのではなく、一工程ずつ手で確かめるためだ。
午後、王宮の衣装係から納期の確認が届いた。
三十二着の仕立て直しに加えて染めの工程が増えたため、予定を守るなら休息日にも針を持つ者が必要ではないか、と書かれていた。
作業台の上には、解き終えた衣装と仮縫いを待つ衣装が順に並んでいる。私は一着ずつに目をやり、誰の手をどこへ置くか頭の中で組み直した。
「私から返答してもよろしいでしょうか」
公爵は私にそう尋ねた。王宮からの確認であっても、先に答えを決めず、私の判断を待っている。
「お願いします。ただし、職人の休息日は削りません。染め上がりを待つ間に、別の衣装の解きと仮縫いを進めます。儀礼衣装は、乾燥を急がせず翌朝から仕立てます」
「その順なら、納期は変わりませんか」
「変えません。曲線縫いの職人には襟の下準備を、針目の揃う職人には袖口を任せます。染め布が届けば、すぐ縫い合わせられます」
「分かりました。その条件のまま伝えます」
公爵は返書に、納期だけでなく休息日を一日も削らないことを書き添えた。王宮からの依頼だからと、私との約束を後回しにはしなかった。
その日の夕方、彼は仕立場の交代表も確かめた。職人の名前と持ち場を一つずつ追い、空白の日を見つけても、埋めるようには言わなかった。
「染め上がりが予定より早くても、明日は休ませます」
「はい。布も人の手も、休ませる時間が要りますから」
「あなた自身も、その中に含まれていますか」
思わず答えに詰まった。
以前の私なら、自分だけは別だと言っていたかもしれない。皆を休ませたあと、夜の仕立場に一人で残り、朝までに帳尻を合わせればよいと考えただろう。
けれど、それでは私が倒れたとき、また誰かが無理を引き受けることになる。私が決めた工程を、私自身が破るわけにはいかない。
「含めます」
「安心しました」
短い言葉だったのに、胸の奥がくすぐったくなった。腕を認めてもらうのとは違う。私が針を持つことだけでなく、針を置く時間まで気にかけられることに、まだ慣れていない。
公爵の視線から逃げるように糸巻きを整えたが、頬に集まった熱までは隠せなかった。
約束どおり、翌日は工房を休みにした。
さらに翌朝、染め上がった布が届いた。包みを開くと、乾いた絹から清潔な染料の香りが立つ。灰色を帯びていた絹は落ち着いた青へ、紫が浮いていた絹は夜明け前の空のような青へ変わっている。どちらも元の布の色を残し、指先でつまむと、染める前と同じ柔らかさでほどけた。
「これなら動きます」
布を揺らすと、三つの青が時間をずらして光を返した。
私は三色を濃い順に細く裁った。
儀礼衣装の襟から胸元へ一筋、袖口へ二筋、裾へ三筋。色の境を隠すのではなく、重なる幅を少しずつ変える。立っているときには深い青が中心に見え、腕を上げると内側の淡い青が開く仕立てだ。
曲線縫いを得意とする職人には襟を、針目の揃う職人には袖口を任せた。私は裾の三本を仮留めし、床へ置いて左右の流れを見比べる。
一か所だけ、紫を帯びた青が広く見えた。
そのままでも縫うことはできる。けれど、一度気づいた偏りは、完成後にはもっと大きく見える。
私は縫い目を指二本分だけ解き、重なりを半寸狭くした。絹を傷つけないよう、糸だけを針先ですくって抜く。もう一度床へ広げ、離れた場所から見た。
色は消えなかった。けれど、違いが一定の間隔で現れるようになると、それは布不足の跡ではなく、初めから考えられた飾りに見えた。
夕刻、儀礼衣装が完成した。
着用者には、立った姿勢だけでなく、歩行、着席、挙手、誓礼の順に動いてもらった。私は正面だけを眺めず、肩、袖の付け根、膝の曲がり、裾の戻りを追った。
腕を上げると、袖口の二色が羽のように開く。着席しても胸元は引かれず、誓礼で頭を下げれば、襟から胸元へ流れる三色がまっすぐに揃った。裾も靴先へ絡まず、立ち上がったあとには元の線へ戻る。
衣装に合わせて身体を固くする必要はない。着る人が自然に動き、その動きによって衣装がいっそう美しく見える。それが私の欲しかった仕上がりだった。
「色が違う布を継いだとは思えません」
着用者は鏡の前で、もう一度ゆっくりと腕を上げた。袖の内側から淡い青が現れると、その目が驚きに丸くなる。
「いいえ、違うからこそ、この飾りになったのですね」
「はい。どの色も、隠してはいません」
鏡の中のその人が笑った。それを見た瞬間、肩に残っていた力が抜けた。
足りないものを嘆くのではなく、手元にある布の違いを読み、それぞれが最も美しく見える場所へ置く。それで一着を救えたことが、何よりうれしかった。
完成確認に立ち会った王宮の衣装係は、袖口の動きをもう一度見届けると、その場で封書を開いた。
「侯爵家工房へ出していた王家用制服五着の試験注文は、本日付で取り消されました」
試験とはいえ、失われたのは制服五着分の注文である。一着の見本さえ期日に揃わなければ、残る四着へ進むことはできない。
染め職人を専属契約で縛ろうとしながら、その職人が来ることを前提に工程を組んでいたため、期日までに見本を揃えられないと侯爵家から申し出があったという。
私は解約を勧めていない。染め職人にも、侯爵家の仕事を断つよう求めてはいない。
職人本人が依頼先を選び、王宮が期限と仕上がりを見て判断した。その結果、侯爵家は王家用制服五着の注文を失った。それだけのことだった。
公爵は完成した袖口へ触れず、少し離れた場所から色の重なりを見ていた。布に触れるべき者と、見るべき位置をわきまえた距離だった。
「違いを欠点にしないのですね」
「違いがあるなら、揃って見える場所を探します。無理に消せば、布まで傷めますから」
「人の持ち場を決めるときも、同じですね」
私は返事の代わりに、完成台の衣装を見た。
曲線を任せた襟も、揃った針目の袖口も、染め職人が選んだ三つの青も、どれ一つ欠けてはいない。私一人の手柄ではなく、それぞれの腕が最もよく働く場所へ置かれた結果だった。
公爵が見ていたのは衣装の美しさだけではない。私が何を考えて人を配置し、納期を守ったのかまで見てくれている。
その言葉がうれしいと認めれば、仕事以外の何かまで伝わってしまいそうだった。それでも頬が熱くなるのは止められなかった。
工房を閉める頃、王宮の衣装係が再び戻ってきた。今度は封書ではなく、町で配られていた注文案内を一枚持っている。
紙の上部には、見覚えのある金色の紋章が大きく刷られていた。
セルジュは侯爵家工房の入口に古い王家御用達の看板を掲げ、その看板があるうちにと、貴族客から礼装や制服の注文を集め始めたのだ。
私は紙を作業台へ置いた。まだ認められているように見える看板と、今日取り消された王家用制服五着。その二つが同じ工房を示していることに、指先が冷えた。
案内の末尾には、はっきりとこう記されていた。
『王家御用達工房につき、前金を納めた注文から優先して受け付ける』
(第23話へ続く)




