三十二着すべてを救う
残る十反を買われたと聞いても、すぐに布商へ走ることはできなかった。
足りない絹の量を考える前に、確かめなければならない衣装がある。
翌朝、私は王太子妃殿下の前へ、旧工房が仕立てた礼装の一着を運んだ。袖の裏には、昨夜見つけた三つの針穴が残っている。
「縫い目を解けば、元には戻せない箇所もございます。それでも、中を確かめる許可をいただけますか」
「許します。ただし、私の衣装だからではなく、これを着る者たちの安全のために解いてください」
「承知いたしました」
私は深く一礼した。ためらいのない返事が、かえって背筋を伸ばしてくれた。
衣装を新工房へ持ち帰ると、裁ち台の周りに職人と王宮の衣装係が集まった。華やかな金糸が朝の光を弾いている。誰も声を上げなかった。美しく仕上がって見える衣装へ刃を入れる重さを、皆が知っていた。
誰にも針を持たせず、まず私が最初の糸を切る。
飾りを傷つけないよう金糸を避け、袖付けをひと目ずつ解いていった。小鋏の先で糸を浮かせるたび、ぷつり、と乾いた音がする。焦れば表布を裂く。私は呼吸を整え、一本ずつ抜いた。
表から見れば豪華な一着だった。けれど、袖山を身頃から外すと、隠されていた跡が現れた。
「ここです」
肩頂点、布目、腕のゆとり。
三針を抜いた小さな穴が、確かに三つ並んでいる。
私はその少し下を指で撫でた。薄い染料で付けたはずの線は見えない。それでも布の毛羽だけが、指二本分ほど途切れていた。指先へ返る感触が、そこだけわずかに硬い。
「印が消されていますね」
職人の一人が息をのんだ。
「はい。立った状態で置いた最初の印ではありません。腕を前へ出し、上げ、戻したあとに必要な分を残すための印です」
私は試し布へ同じ染料で線を引き、湿らせた布で拭った。青灰色の線はすぐに薄れ、やがて目では追えなくなる。それでも斜めから灯りを当てると、押さえた場所だけ光が鈍った。
礼装の内側にある跡と同じだった。
三針だけが残され、その先にあった運動分の印は消されている。印どおり縫い代を出せば腕は動く。消して最初の線まで詰めれば、見た目は細く整っても、挙手したとき袖付けへ力が集中する。
「立っているだけなら、欠陥は隠せます」
私が告げると、衣装係は解かれた袖を見つめた。
「ですが、誓礼では腕を上げます」
「はい。その瞬間に裂けるおそれがあります」
さらに外した袖を灯りへかざしたとき、私は手を止めた。
表布の光が、身頃とは反対へ流れた。
「袖だけ、布目が逆です」
衣装係が二枚を並べる。身頃を上から下へ撫でると滑らかに光るのに、袖は下から上へ撫でたとき同じ光を返した。見る角度を変えるたび、片方だけが暗く沈む。
未完成の原型を置く向きを揃えず、空いた場所へ反転させて押し込んだのだ。
布目を正しく揃えた配置と、反転させて隙間を詰めた配置を、試し布の上で作る。原型の端から端まで手で測り直し、使用量を比べる。差は十八パーセントになった。
ただの見落としでは済まない数字だった。
「この一着だけでしょうか」
衣装係の問いに、私はすぐ答えなかった。
王宮の保管庫から運ばれた未完成原型は、衣装係が皆の前で封を解いた。返還された原型を裁ち台へ広げ、解いた袖を重ねる。袖山の曲線も脇の線も、端までぴたりと一致した。
けれどそれは、動作試験を終える前の形だ。完成の印である白い輪は、当然ない。
王家用の残る十一着も運ばれた。縫い目を解かず、裾から手を入れて布目と縫い代を確かめる。指先を入れるたび、同じ狭さへ行き当たった。
十二着すべてが同じ曲線で裁たれ、袖の向きまで揃って逆だった。
工房の空気が重く沈む。
そこで衣装係が、別室から二十着を運ばせた。
「婚礼の参列者へ渡す予定の礼装です。王家用十二着とは注文の扱いが別でしたので、これまで調査に含めておりませんでした」
一着目の袖を裏返した瞬間、胸の奥が冷えた。
三針の穴。消された印の跡。逆向きの布目。
二着目にもあった。
五着目も、十着目も、二十着目も同じだった。
確認済みの衣装を右へ、まだの衣装を左へ置く。左の山が低くなるほど、右側に積み上がる事実が重くなった。
王家用十二着だけではない。参列者用二十着まで、私の未完成原型から裁たれている。
計三十二着。
すべてが、腕を上げれば裂けるおそれのある衣装だった。
誰かが「婚礼までに」と呟き、別の職人が唇をかんだ。三十二着という数だけを見れば、針を持つ手がすくんでもおかしくない。
だから私は、工房に動揺が広がる前に裁ち台を空けた。
「三十二着を一度に解いてはいけません。着る方の動きが分からないまま、同じ直し方をすれば、また同じ失敗になります」
歩行、着席、挙手、誓礼。
四つの動作を書いた札を、四台の仕立台へ置く。薄い試し布で作った胴着を動作別に用意し、着用者には必要な動きと締めつけの程度を自分で選んでもらう。
一方で、三十二着を六着ずつの組に分けた。袖を解く者、布目に沿って補い布を裁つ者、仮縫いをする者、着用後に運動分を決める者。最後の二着はどの組にも入れず、急な体形差へ対応するための調整台へ回す。
誰をどこへ置くかは、私だけでは決めなかった。
「曲線縫いを選びます」
「私は解きです。金糸を傷つけず外せます」
「試験胴着を担当したいです」
一人ずつ希望を聞き、針幅と作業姿勢を確かめて席を決める。椅子の高さも本人に合わせた。速く縫える者を急がせるのではなく、確実に続けられる場所へ置く。
休息の交代表も先に壁へ掛けた。三十二着を救うために、三十二着分の無理を職人へ押しつけるつもりはない。
「六着が終わった者から次へ移るのではありません。必ず次の者へ手を渡し、休んでください」
職人たちが一人ずつうなずく。青ざめていた顔に、やるべき仕事を見つけた者の色が戻ってきた。
昼を過ぎるころには、着用者が動きを試す場所と、その結果を受けて衣装を直す場所が一本の流れでつながった。試験を終えた胴着が運ばれ、印を受け取った職人の針が動き出す。
針の音、鋏の音、布を払う音が、乱れず重なっていく。
試験胴着と三十二着を並行して直す仕立場が、ようやく形になった。
その最中、王宮から使者が来た。
旧工房へ任せていた王家の装身具契約二件が、取り消されたという。衣装を傷めない留め方を確かめられず、納品後の安全も保証できない工房へ、装身具を続けて任せることはできない。それが王家の判断だった。
旧工房は、一日に二件の王家契約を失った。
私は取り消しを求めていない。旧工房へ戻るつもりも、失った仕事を埋めてやるつもりもなかった。
解いた縫い目と、三十二着に残った同じ欠陥が、王家自身に選ばせた結果だった。
夕刻、公爵が新しく並んだ四台を見て回った。作業中の職人へ余計な声はかけず、流れを妨げない場所を選んで立つ。
「エレノア」
呼ばれて振り向くと、公爵は少し離れたところで足を止めた。
「あなたへ命じられていたのは、王家用十二着の確認と仕立て直しまでです。参列者用二十着は、別の職人へ分けることもできます」
「ですが、同じ未完成原型から裁たれています」
「だからこそ、任務を勝手に広げるつもりはありません」
公爵は三十二着ではなく、私を見た。
「引き受けますか」
命令ではなかった。
断れば失望されるという響きもない。増えた仕事と責任を隠さず見せたうえで、選択を私へ返してくれた。
十年前から使っていた椅子を片づけられた日、私には何も選ばせてもらえなかった。婚約も、仕事も、私の針で作ったものの行方さえも。
けれど今は違う。
私の目の前には、自分で並べた仕立台がある。自分の得意な仕事を選んだ職人たちがいる。そして、私の答えを奪わずに待つ人がいる。
私は並べた衣装へ手を置いた。絹は冷たく、滑らかだった。
着る人の名より先に、袖を上げられるか、座って息ができるかを考える。それが私の仕事だ。
「引き受けます」
自分の声で、はっきり告げた。
「王家用十二着も、参列者用二十着も、私たちの順で直します。三十二着すべてを救うと、私が決めます」
公爵はすぐに人手や費用の話へ進まず、まず一度うなずいた。
「では、その選択を支えます。必要な条件を聞かせてください」
胸が温かくなった。守られたからではない。私の選んだ仕事として認めてもらえたことが、うれしかった。
私は不足する絹の量を測るため、物差しへ手を伸ばした。
そのときだった。
表戸の下から、一通の封書が差し込まれた。
拾い上げる前から、差出人は見えていた。セルジュ。
中には布の見本も、値段も、交渉の条件もない。短い通告だけが記されていた。
『買い上げた同色の絹十反は侯爵家の所有物である。エレノア・リースには、一寸たりとも渡さない』
(第21話へ続く)




