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原型棚の鍵

 王宮の衛兵が、セルジュの前へ腕を伸ばした。


「王宮内で、届け出られた品を奪うことは認められません」


「奪うのではない。侯爵家工房のものを返せと言っているだけだ」


 セルジュはなおも言い張った。けれど、平たい包みを胸に抱えた元職人は、指が白くなるほど力を込めたまま手を放さなかった。


 包みの角から、使い込まれた原型紙の色がわずかに覗いている。見覚えのある紙だったとしても、ここで私が手を出せば、セルジュと同じになる。


 私は二人の間へ割って入らず、王宮の衣装係へ告げた。


「包みは、まず王宮で預かってください。今ここで開けば、誰が何に触れたのか分からなくなります」


 衣装係はすぐに頷いた。衛兵の立ち会いのもとで包みを受け取り、紐を掛け直して封をする。私にも、セルジュにも渡さない。王家用礼装に使われた疑いがある以上、確認が終わるまで王宮の保管庫へ置かれることになった。


「未完成の紙切れ一枚で、何が分かる」


 セルジュは吐き捨てるように言った。


「分からないからこそ、勝手に触れないのです」


 私が答えると、彼は唇を歪めた。以前なら、その顔を見るだけで喉が詰まっただろう。けれど今は違う。私は彼を言い負かすためにここにいるのではない。正しく仕立てた衣装を待つ人のためにいる。


 セルジュは衛兵を押し退けてまで近づくことはできず、硬い靴音を響かせて王宮を出ていった。


 包みが運ばれていくのを見送りながら、私は指先を握った。


 原型は、衣装を同じ形に裁つための土台だ。けれど、完成品そのものではない。仮縫いをし、着る人に立ち、座り、腕を動かしてもらい、その結果に合わせて線を直して、ようやく使えるものになる。


 未完成の原型だけが一人歩きすれば、ひとつの間違いを何着にも増やしてしまう。


 侯爵家工房で起きたことを、形だけ変えて繰り返してはならない。


 私は新工房へ戻ると、裁ち台の上へ、今使っている原型を並べた。紙の擦れる音に、職人たちが顔を上げる。


「保管の仕方を、全員で決めたいと思います」


 鋏と針が止まり、工房が静かになった。


 私だけで決めて鍵をかければ、原型を守ることはできるかもしれない。けれど、私がいなければ誰も仕事を進められない仕立場になってしまう。それでは、以前の工房と形が違うだけだ。


「原型を使うとき、何があれば安心して裁てますか。一人ずつ聞かせてください」


 最初の職人は、完成済みか仮縫い前か、見ただけで分かる印がほしいと言った。


 別の職人は、変更した線を消さず、前の線も残してほしいと言った。


「線が変わった理由まで思い出せれば、似た体つきのお客様にも生かせます」


「ええ。古い線も、間違いではなく仕事の跡です」


 新人の一人は、自分が写した原型を誰に確認してもらえばよいか分からないのが怖いと話した。声は小さかったが、私は急かさず最後まで聞いた。


 窓際の仕立台を選んだ職人は、少し考えてから口を開いた。


「原型を出した人だけでなく、裁つ人も線を確かめることにしたいです。おかしいと思ったとき、止めても叱られないように」


 その言葉に、何人かが息を呑んだ。止めれば納期が遅れると責められ、疑問を飲み込んで鋏を入れた経験があるのだろう。


「ええ。それを決まりにしましょう。止めた人を責めません。確かめずに進めるより、ずっと早く仕上がります」


 張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。


 私は原型の端へ、赤い糸で小さな輪を縫いつけた。まだ動作試験を終えていない原型には赤。完成して使用できる原型には白。紙へ書いただけの印なら消せるが、糸の輪なら切った跡が残る。指で触れても違いが分かるよう、赤は二重、白は一重にした。


 原型を写すときは、二人で布目と基準線を確かめる。裁断前には、裁つ本人が完成の白い輪を指で触れる。変更があれば古い線を消さず、新しい線と日付をその横へ入れる。そして、誰でも疑問を口にした時点で鋏を止める。


「原型を保管棚から出せるのは、エレノア様だけでしょうか」


 新人が尋ねた。


「いいえ。私が留守でも、任された仕事は進められるようにします。ただし、鍵を使う人と原型を持ち出す人は別にしましょう。一人だけで出し、一人だけで戻すことはしません」


「私たちも、守る側に入れるのですね」


「そのための決まりです」


 最後に全員へ、これでよいかを尋ねた。


 職人たちは互いの顔を見たあと、一人ずつ頷いた。押しつけられた返事ではない。自分たちの仕事を自分たちで守るための頷きだった。


 決まりを最初に使う仕事は、王家用の代替礼装一着だった。


 侯爵家工房から納められた礼装は、残る十一着にも袖の歪みがある。けれど、それを急いで解くことはしない。まずは新しい布で、正しい順を通した一着を完成させ、目の前で比べられるものを作る。


 私は絹を手の甲へ滑らせ、光の流れと布目を確かめた。それから着用者の肩幅、胸回り、背丈を手で測り、立位と座位で数字がどう変わるかを見る。腕を前へ出したとき、右肩が左より指一本分大きく動いた。その分を、脇と袖山へ逃がした。


 三針を置いたあと、着用者に歩き、椅子へ座り、両腕を上げ、誓礼の姿勢を取ってもらった。仮縫いの絹が擦れるかすかな音を聞きながら、肩から背へ走る皺を指で追う。


「肩は苦しくありませんか」


「はい。息も楽です」


「腕を下ろすとき、袖に引かれる感じは」


「ありません。背中も突っ張らないわ」


 返事だけで決めず、もう一度同じ動きをしてもらった。布が元の位置へ戻るのを見届けてから、私は袖山の線を決めた。


 細かな曲線縫いを得意とする職人が袖を受け持ち、長い直線を揃える職人が裾を縫う。新人二人には見返しと留め具を任せ、途中で必ず隣の職人と縫い代を比べてもらった。


 誰か一人の早業ではない。


 止まる場所を全員が知り、指と目で確かめたあとに進めるから、最後の一針まで迷わず縫える。


 二日後、王家用の代替礼装一着が完成した。


 着用者が王宮の広間を歩く。裾は足運びに合わせて静かに揺れ、椅子へ腰を下ろしても後ろへ引かれない。腕を肩より高く上げても襟は浮かなかった。最後に深く誓礼をして立ち上がると、絹は身体へ素直に戻り、斜めの皺を一本も残さなかった。


「これなら、動く前に覚悟を決めなくていいわ」


 着用者が肩を回し、晴れやかに笑った。


 その場には、侯爵家工房へ礼装を注文していた貴族が三人いた。三人は金糸の量ではなく、肩、襟、裾の順に見比べていた。


 一人目が、腕を上げたあとの袖を確かめる。


 二人目が、椅子から立ったあとの背を確かめる。


 三人目は着用者本人へ、苦しい場所がなかったかを尋ねた。


「ひとつもありません。着たまま次の動きを考えられるの」


 その答えを聞いた三人の目から、迷いが消えた。


 その日の午後、三人はそれぞれ王宮の衣装係を通じ、侯爵家工房へ解約を告げた。


 撤回された注文は、礼装三着。一着金貨二百枚、合わせて金貨六百枚。セルジュの工房は、三人の顧客と三件の注文を同時に失った。


 私が解約を勧めたわけではない。新工房へ注文するよう誘ってもいない。三人は仕上がった一着を見て、着用者の言葉を聞き、自分で旧工房を見限ったのだ。


 胸に満ちたのは、復讐の喜びではなかった。私たちが重ねた採寸と裁断と縫製が、一着の形になって伝わった。その確かな手応えだった。


 夕刻、保管棚の前へ公爵が来た。手のひらには、小さな銀色の鍵が載っている。


「原型棚の鍵です。管理する者を、あなたに決めてほしい」


「公爵がお持ちになるのではないのですか」


「私が持てば、職人は私の許可を待つようになる。原型をいつ出し、どの段階で使えると判断するかは、仕立場で決めるべきです」


 権限だけを渡すのではなく、私たちが話し合って決めた方法ごと認めてくれている。


「では、私が管理します。ただし、私一人の判断で原型を持ち出せる鍵にはしません」


「あなたなら、そう言うと思っていました」


 公爵は鍵を差し出したあと、私が受け取るまで動かなかった。


 私が手のひらを出すと、鍵の冷たさとともに、彼の指先の温かさがほんの一瞬だけ触れた。


 胸が小さく鳴った。


 仕事を信じてもらえた喜びとは、少し違う熱が頬へ上がる。けれど目を逸らさず、私は鍵を握った。これは庇護の印ではない。仕立場の者たちと決めた方法を守るための鍵だ。


 その夜、完成した礼装と白い輪のついた原型を棚へ収め、初めて私の手で鍵をかけた。錠の噛み合う澄んだ音が、静かな工房に響いた。


 直後、表戸が激しく叩かれた。


 駆け込んできた布商は、息を整える間もなく言った。


「今お使いのものと同色の婚礼用絹ですが、残っていた十反すべてを、侯爵家のセルジュ様が買い上げました」


(第20話へ続く)

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