十一着に残った三針
十一着の歪んだ袖を前にしても、私は針を急いでは入れなかった。
針は裂け目を閉じられる。だが、原因まで消してはくれない。見栄えだけを整えれば、次に腕を上げた瞬間、また同じ場所へ力が集まる。
そして、まず仕上げるべきなのは、予定されていた王太子妃殿下の全身仮縫いだ。
「残る十一着は、誰にも着せず、このまま保管してください。袖付けも解かないでください」
「直さずに、ですか」
「はい。今は、直さないことが必要です」
王宮の衣装係へ頼むと、十一着は一着ずつ布を掛けられ、鍵のかかる衣装室へ運ばれた。
裂けた一着と同じ歪みがあるからこそ、見た目だけで直してはいけない。どの動作で、どこに力が集まるのか。その力を逃がすには、どれだけの布幅がいるのか。着る人の身体で確かめなければ、答えは出ない。
翌朝、私は新工房の職人たちとともに、仮縫い用の身頃、袖、裳裾を王宮へ運び込んだ。
糊の匂いがわずかに残る白い布を広げる。飾りのない布だからこそ、皺も歪みも隠せない。
王太子妃殿下には、立った状態と座った状態の寸法を改めて確かめさせていただく。肩から腰へ採寸紐を沿わせ、息を吐いたときと吸ったときの差を指先で読む。
「胸元と腰は、どの程度まで沿わせましょう」
「息を深く吸っても苦しくないように。誓礼では膝をつくので、そのときに腹部が押されないようにしたいわ」
「承知いたしました。試す動作は、歩行、着席、誓礼の三つでよろしいでしょうか」
「ええ。祭壇の六段も、自分で上ります」
殿下の声には迷いがなかった。ならば、衣装もそのお心を邪魔してはならない。
私は腰のしつけ糸を指一本分だけ外へ移した。
身頃は呼吸を妨げず、けれど立ったときには余り皺が出ない位置で留める。袖は腕を前へ出したときに肩頂点がずれないよう、三針を置く。裳裾はすでに確かめた長さへつなぎ、歩いたときにだけ必要となる余裕を残した。
公爵は仮縫い室の入口で立ち止まった。
「本日も、立ち会ってよろしいでしょうか」
先に殿下が頷き、それから私も頷く。
「はい。ただし、動作の途中では声をかけず、殿下が止まられたときにお願いいたします」
「分かりました」
公爵は決められた位置から動かなかった。口を挟まず、けれど私たちの手元を一つも見落とすまいと見守っている。
私は身頃を担当し、曲線縫いを得意とする職人には袖口を任せる。裳裾は、階段での動きを知っている職人二人が左右から整えた。
「右を半指、上げて」
「はい」
「左はそのまま。殿下、腕を胸の高さまでお願いいたします」
布が動き、しつけ糸が小さく鳴る。職人の手が止まるたび、私は皺の向きと深さを確かめた。
最後のしつけ糸を結ぶ。
飾りも刺繍もまだない。けれど首元から裳裾までが一つにつながり、王太子妃殿下の全身仮縫いが完成した。
「歩いてみます」
殿下がご自分で一歩を踏み出す。
平らな床を進み、向きを変え、祭壇に見立てた六段の階段へ足を掛けた。長い裳裾は一段ずつ遅れてついていく。布の擦れる音は滑らかで、重みが腰だけへ集まることも、袖が後ろへ引かれることもない。
私は息を詰めず、肩、腰、裾の順に目を走らせた。
六段目で殿下が振り返った。
「肩が軽いわ」
その言葉を聞いてから、私は裳裾の左右を確かめた。片側だけが伸びた跡もない。職人たちの顔にも、こらえきれない安堵が浮かんだ。
次は着席だった。
椅子の前で向きを変え、ゆっくり腰を下ろしていただく。裳の前側が膝の動きに合わせて広がり、腰のしつけ糸がわずかに働く。殿下は背を預け、深く息を吸った。
「苦しくありません」
「立ち上がれますか」
差し出された手を借りず、殿下はご自分の力で立ち上がった。前裾を踏まず、腰にも引き皺は残らない。
最後は誓礼だ。
殿下が祭壇に向かう姿勢を取り、片膝を床へつける。両手を胸の前で重ね、頭を下げた。
身頃は首へせり上がらない。腰の布は折れず、袖付けにも強い皺は走らなかった。
殿下はその姿勢のまま、もう一度深く息を吸った。それから顔を上げ、微笑んだ。
「この衣装なら、誓いの言葉を急がずに言えそうです」
その微笑みこそが、私たちの仕事への答えだった。
歩行、着席、誓礼。
三つの動作すべてを通った。
私は殿下の許可を得て、動いたあとのしつけ位置へ小さく印を入れた。静止した姿だけを見ていたなら、腰をもう少し細くし、肩をもう少し狭くしていただろう。
けれど、婚礼衣装は飾られているためのものではない。殿下が歩き、座り、誓うためのものだ。
仮縫いを終えた午後、王宮の衣装係から侯爵家工房への決定が伝えられた。
王家向けの服飾展示で、旧工房に割り当てられていた四席をすべて取り消すという。
袖が裂けた一着を完成品として先行披露し、残る十一着にも同じ歪みが見つかったためだった。十二着分の納品代金、金貨二百四十枚は支払われない。さらに、四席で商談を予定していた王族四名からの追加注文十二着も白紙になった。
次の展示に並べる予定だった見本札が外され、四つの台が空になる。
私はその四席を新工房へ譲るよう求めなかった。
空いた席をどの工房へ任せるかは、王宮と着用者が決めることだ。私はただ、今日つけた印を確かめ、次の裁断に必要な幅と職人の配置、仕上げまでの日数を伝えた。
「身頃は二人、袖は三人。裳裾は今日の二人に任せます。裁断は明朝。刺繍へ渡す日は動かしません」
職人たちが迷いなく頷く。その様子を、公爵は裁ち台の向こうから見ていた。
「歪んだ十一着を先に直せと、私が命じるかもしれないとは思いませんでしたか」
「命じられても、できないと申し上げます。原因を確かめないまま縫い閉じれば、同じ場所がまた裂けます」
「ええ。だからこそです」
公爵は仮縫いを終えた衣装へ目を向けた。
「あなたの判断なら、この婚礼を任せられます」
まだ完成衣装は一着も目の前にない。あるのは白い仮縫い布と、しつけ糸と、動作のあとに残した印だけだ。
それでも公爵は、速さでも肩書でもなく、私が針を入れる前に止まったことまで含めて信じてくれた。
「では、最後まで私の順で確かめさせてください」
「もちろんです」
短い返事なのに、胸の奥が温かくなった。仕事を任せられた喜びだけではないことに、私はもう気づいていた。
夕刻、王太子妃殿下と衣装係の許可を得て、保管していた十一着を再び並べた。
縫い目は解かない。袖を裏返し、灯りへ透かすだけにする。
一着目の袖山に、糸を抜いたあとの小さな穴があった。
三つ。
肩頂点、布目、腕のゆとりを定める位置。私が仮縫いの最初に置く三針と、同じ並びだった。
二着目にもあった。
三着目にも、四着目にも。
職人たちが一着ずつ灯りへかざし、衣装係が穴の位置を確かめる。表からは金糸と飾りに隠れて見えない。けれど裏側には、いったん三針を置き、その糸だけを抜いた跡が残っていた。
十一着目を透かしたとき、部屋から声が消えた。
十一着すべての袖に、同じ三針の穴がある。
偶然ではない。誰かが、この三針だけを頼りに、続きを確かめず縫い上げたのだ。
その直後、王宮の荷受け口から争う声が聞こえた。
私たちが廊下へ出ると、以前の工房を辞めた職人の一人が、平たい包みを胸に抱えていた。その前に立っているのはセルジュだった。
「それは侯爵家工房の所有物だ。こちらへ返せ」
「王宮の衣装係へ渡します。未完成の原型から作られ、裁断に使われた写しです」
包みの端から、古い原型の写しが覗いていた。
袖山の曲線と、まだ直していない脇の線。私が追い出される前、動作を試したあとで修正するつもりだった未完成の原型から、修正前に写し取られたものだった。
胸の奥が冷えた。けれど足は止めなかった。あれが何であるかは、私の手が一番よく知っている。
セルジュが包みへ手を伸ばす。職人が後ろへ下がり、王宮の衛兵が二人の間へ入った。
「渡せ。その写しを、ここへ持ち込むな!」
セルジュは王宮の敷居を越える前に、私の未完成の原型の写しを奪おうとしていた。
(第19話へ続く)




