裂けた袖
着用者の腕が肩の高さへ届いた瞬間、乾いた音が広間へ響いた。
右の袖付けが裂けた。
金糸で飾られた表布が、脇の下から肩へ向かって口を開ける。引きつれた糸が数本切れ、白い肌着がのぞいた。着用者は息をのみ、上げた腕を下ろせないまま立ち尽くした。
さっきまで衣装を褒めていた人々の声が、一斉に消えた。
「動かないでください」
私は声を張り、すぐ近くにいた衣装係へ向き直った。
「着用者を隠します。衝立と掛け布をお借りしてもよろしいですか」
許可を得ると、見習いたちが衝立を運んだ。公爵も動こうとしたが、私の指示を待っている。
「公爵、左側の扉を閉めていただけますか。見物の方々を下がらせてください」
「分かりました」
扉が閉じられ、衣装係が掛け布を広げる。私は着用者の前へ立ち、布越しにも見えない位置まで衝立を寄せた。まず守るべきなのは衣装の評判ではない。人前で服を裂かれた、この方の心と身体だ。
「もう腕を下ろして大丈夫です。ただし、ゆっくりお願いします。裂け目を押さえてもよろしいでしょうか」
「ええ。お願い」
返事を聞いてから袖を支えた。力のかかっていない方向へ布を戻し、片腕ずつ下ろしてもらう。
裂けたのは一か所だったが、糸が強すぎたため布そのものが負けていた。縫い目だけを塞いでも直らない。しかも肩頂点が後ろへずれ、腕を上げるためのゆとりが脇へ逃げている。
指で布目を追う。見間違いではない。
第十五話で届いた見本と、同じ歪みだった。
「痛みはありませんか」
「ありません。でも、皆に見られて……」
着用者の声が震えた。唇から血の気が引いている。
「もう外からは見えません。裂けたのは衣装です。あなたが動いたせいではありません」
私はそう伝えてから、留め具を一つずつ外した。裂けた側を引っ張らないよう、衣装係と目を合わせ、息を合わせて上衣を脱がせる。
衝立の向こうでは、ミレーヌが何か言おうとしていた。
「急に腕を上げたからですわ。もっとゆっくりなら――」
「合図どおりの動作でした」
衣装係が遮った。
「肩の高さまで腕を上げることは、先に侯爵家工房へ伝えてあります」
返事はなかった。
私は口を挟まなかった。裂けた衣装を助けるつもりも、ミレーヌの言い訳を整えるつもりもない。今するべきなのは、衝立の内側にいる人を安全に着替えさせることだった。
肌着だけになった着用者へ掛け布をかけ、私は尋ねた。
「本日の披露を、ここで終えることもできます。もし続けたいとお望みなら、こちらで用意している予備の上衣を仕上げます。どちらになさいますか」
着用者はしばらく俯いていた。衝立の外からは、誰かが息を潜める気配さえ伝わってくる。やがて彼女は掛け布の端を握り直し、顔を上げた。
「続けたいわ。衣装が裂けるのではないかと怯えたまま、婚礼の日を迎えたくないの」
「分かりました。では、あなたが腕を上げられる上衣を完成させます」
予備の上衣は、急な寸法の変化に備えて新工房で仮縫いまで進めていた。飾りは少なく、袖口と裾はまだ仕上がっていない。けれど布目は正しく、肩と脇には動作を試してから決められる縫い代が残っている。
私は着用者に仮縫いの上衣を着てもらった。背へ手を回し、首の付け根から肩先までをもう一度測る。裂けた衣装の寸法を写すのではない。この方の身体を、この場で確かめる。
「先ほどと同じ高さまで上げますか。それとも、まず肘までにしますか」
「まず肘まで。それから肩まで上げます」
本人が決めた順で動いてもらう。肘まで。肩まで。腕を前へ伸ばし、胸の前で重ねる。襟は浮かず、脇にも苦しさはない。
「ここは引かれませんか」
「大丈夫。腕の後ろも苦しくないわ」
肩頂点、布目、腕のゆとりを三針で留める。針を入れるたび、布が収まるべき場所へ収まっていった。
私は新工房から来た職人たちへ仕事を分けた。袖口を得意とする者には左右の始末を、細い曲線を縫う者には襟ぐりを任せる。見習いには仕上がった箇所の糸端を確かめてもらった。
「飾りは増やしません。今から完成させるのは、見栄えを競う一着ではなく、この方が安心して動ける一着です」
職人たちは短く頷いた。誰も急いで針幅を乱さなかった。布を引く音、鋏が糸を切る音、針先が卓上の皿へ触れる音。それだけが静かな広間に重なった。
私は袖付けを縫いながら、裂ける直前の音を何度も思い出していた。あと少し深く裂けていたら。もっと勢いよく腕を上げていたら。広間の中央で肌着まで破れていたら。
指先が冷たくなった。針を持つ手が、ほんのわずかに固くなる。
裁ち台の向こうにいた公爵が一歩近づき、そこで止まった。私の肩にも手にも、触れなかった。
「エレノア」
「はい」
「慰めるためであっても、今のあなたへ勝手に触れたくありません。何が必要ですか」
その問いで、私はようやく息を吐けた。
大丈夫だと言ってほしいのではない。この場で必要なことを、自分で選ばせてもらえる。その距離の取り方が、温かかった。
「時間を知らせてください。それから、着用者が休める温かい飲み物を。私たちには、あと半刻したら短い休息を取らせてください」
「すぐに整えます。ほかには」
「今は、それだけで十分です」
公爵は頷き、衣装係へ静かに声をかけた。
半刻後、私たちは針を置いた。湯気の立つ茶で手を温め、目を閉じて休め、それから最後の袖口を閉じた。
予備の上衣が完成したのは、先行披露が始まってから二刻後だった。
着用者は衝立の内側で袖を通した。私は襟元と脇へ指を差し入れ、縫い代の収まりを確かめてから一歩離れる。
「動いてみますか」
「ええ」
両腕がゆっくりと上がる。
肘を越え、肩の高さを越え、ついには頭上で両手が重なった。袖付けは引かれず、襟も浮かない。着用者はそのまま腕を左右へ開き、一度回ってから、胸の前へ戻した。
「怖くないわ」
小さな声だった。
けれど衝立の内側にいた全員へ、はっきり届いた。その一言で、二刻分の疲れが胸の奥からほどけていく。
扉を開いたあとも、着用者は自分の意思でもう一度腕を上げた。飾りの少ない予備の上衣へ、広間の視線が集まる。豪華な金糸はなくても、布は身体の動きに沿い、どこにも無理な皺を作らなかった。
拍手はなかった。けれど、先ほどまで侯爵家工房の金糸を眺めていた人々が、今は肩と脇の動きから目を離さない。それで十分だった。
先行披露された衣装の裂け目は、閉じた裁ち台の上にそのまま残された。
侯爵家工房から付き添ってきた二人の職人が、その裂け目を長く見つめていた。やがて二人は揃って仕事用の印章を外し、ミレーヌの前へ置いた。
「私たちは、本日で侯爵家工房を辞めます」
「今抜ければ、残りを誰が縫うと思っていますの」
「だからこそ、もう縫えません。動作を試さないまま、完成の印を押す仕事には戻りません」
二人は新工房へ雇ってほしいとは言わなかった。ただ、自分の足で扉を出ていった。
これで旧工房を去った職人は、累計十名となった。
私は二人を引き止めず、ミレーヌにも何も言わなかった。完成した予備の上衣の袖を撫で、着用者が痛みなく腕を動かせることを最後まで確かめる。
片づけを始めたところへ、王宮の衣装係が駆け込んできた。その腕には、侯爵家工房から納められた残りの上衣が抱えられている。
一着ではない。確認を終えたものから順に重ねたという、その袖付けには、先ほど裂けた衣装と同じ方向の皺が走っていた。
「残る十一着にも、同じ歪みがあります」
裂けた一着の代金は金貨二十枚。残る十一着は金貨二百二十枚分。それだけの注文が、同じ袖付けのために納品済みとは認められなくなった。
広間に置かれた十一着すべてが、動作試験を待つ危険な完成品へ変わった。
(第18話へ続く)




