私が決める仕立場
「それは母から譲られた裁ち鋏です」
閉じた扉へ向かって言っても、セルジュは姿を見せなかった。
「侯爵家の工房で使った道具は侯爵家の財産だ。帰れ」
扉越しの声に、胸の奥が冷える。
十年使った椅子だけでなく、夜ごと磨いた針も、母の手の跡が残る鋏も、私から取り上げるつもりなのだ。
職人たちはうつむいていた。セルジュに逆らえば、その日のうちに仕事を失う。ここで返せと迫れば、彼らを盾にするだけだ。
「わかりました。今日は持ち出しません」
「ようやく分をわきまえたか」
「いいえ。あなたが返さなかったという事実を、覚えておくだけです」
返事はなかった。
私は指ぬきと招請状だけを持って工房を出た。
門の前では、王家の紋章をつけた馬車から使者が降りるところだった。従者二人が運んでいたのは、重そうな革張りの箱と一通の書状だ。
「婚礼衣装十二着の注文撤回に伴い、違約金は金貨六百枚。指定日までに納められたい」
使者の声が、開いた玄関から屋敷の中まで響いた。
「六百枚だと!?」
セルジュの叫びを背中で聞いたが、私は振り返らなかった。
請求したのは私ではない。十二着を任せられないと判断したのも、王太子妃殿下だ。私がするべきことは、彼の失敗を眺めることではなく、選ばれた仕事を仕上げることだった。
翌朝、公爵の工房を訪れた。
北と東に大きな窓があり、朝の光が広い仕立台へ均等に落ちている。壁には大きさの違う鋏が掛かり、針、糸、定規、待ち針が種類ごとに分けられていた。
「不足があれば、すぐに揃えます」
公爵はそう言ったが、私は道具へ手を伸ばす前に尋ねた。
「ここで働く職人は、何人でしょう」
「今は六人です。ただし、十二着を同時に進めるには足りない」
「その六人と話をさせてください。針幅と得意な工程、それから無理なく働ける時間を知りたいのです」
「承知しました」
公爵は、自分で人員を決めようとはしなかった。
私は壁の鋏を一本ずつ開き、刃の重さを確かめた。母の鋏とは違う。けれど、違う道具でも、手に馴染ませることはできる。
細身の一丁を選んだところで、王太子妃殿下が到着された。
最初に手を入れるのは、誓礼でお召しになる上衣だった。昨日直した袖だけではない。立っているときは美しくても、ひざまずけば背が引かれ、手を差し出せば肩が上がる。
「脇と背の縫い目を解いてもよろしいでしょうか」
「許します。今日は、どの動きを試せばよいの?」
「歩く、腰掛ける、腕を上げる。そのあと、誓礼と同じようにひざまずいてください」
殿下は一つずつ試してくださった。
私は首の付け根から腰までを測り直し、肩の傾きに合わせて仮布を裁った。肩の頂点、布目、腕のゆとりを三針で留める。背の引きつれをほどき、袖下へ指一本分の動きを足した。
長い説明は必要ない。着て動けば、合っているかどうかはすぐにわかる。
「もう一度、お願いいたします」
殿下がひざまずき、顔を上げ、右手を差し出した。
背の布は引かれなかった。肩も浮かず、袖の刺繍が手首までまっすぐ流れている。
「息が楽だわ」
殿下は立ち上がると、その場でゆっくり一周された。
「昨日までは、姿勢を正すほど肩が苦しかったの。婚礼では我慢するものだと思っていたわ」
「晴れの日に、痛みを我慢なさる必要はございません」
私は裾を整え、最後の待ち針を打った。
誓礼用上衣の仮縫いが、これで一着分完成した。
殿下が自然に腕を上げた瞬間、工房にいた六人の職人から小さな息が漏れた。飾りではなく、着る人の身体に沿って衣装が動く。その手応えは、昨日奪われたものより確かだった。
「残り十一着も、あなたに任せます」
「はい。ただし、私一人では仕上げません。職人を選び、休息を含めた日程を組ませてください」
「それでこそ任せられるのです」
殿下のお言葉が、まっすぐ胸に届いた。
仮縫いを終えると、工房の入口に三人の職人が立っていた。見覚えのある顔だった。昨日まで侯爵家の仕立台にいた、裁断を得意とする者、細かな刺繍を担っていた者、そして私と何度も袖を縫った者だ。
三人とも、自分の道具包みを抱えている。
「侯爵家を辞めてきました」
「私のために辞めたのですか」
「違います」
先頭の職人は、はっきり答えた。
「未完成の衣装を完成品だと言えと命じられました。もう、あそこで自分の針を使いたくありません」
私は三人を別々に呼び、同じことを尋ねた。誰かに誘われたのか。侯爵家へ戻る意思はないのか。ここで何を担当したいのか。
三人の答えは、それぞれの言葉で同じだった。
自分で辞め、自分でここを選んだのだ。
「では、試し布を縫ってください。採用するかどうかは、針目を見て決めます」
「はい!」
三つの返事が重なった。
昨日まで三人が座っていた仕立台は、今朝から空いているという。侯爵家は金貨六百枚を請求されただけでなく、三人分の手まで失った。
けれど、それは私が奪った結果ではない。
職人自身が、誠実に縫える場所を選んだ結果だった。
午後、公爵は私を窓辺の机へ呼んだ。そこには契約書が置かれていたが、公爵は先に署名を求めなかった。
「あなたの条件を聞かせてほしい」
「条件、ですか」
「仕事内容、賃金、休息、そして誰が仕上がりを判断するのか。私が決めて差し出せば、それは新しい命令にすぎません」
私は椅子へ座り、契約書を読んだ。
十二着の完成責任者は私。賃金は主任仕立師と同額。公爵の許可なく工程を変えてはならず、求めがあれば夜間も働く。
私は借りた筆で二か所に線を引いた。
「工程の最終判断は、採寸と仮縫いを担当した私が行います。夜間作業は非常時のみ、職人一人ずつの同意を得ること。六日働いたら一日休む。三人の賃金は私を通さず、本人へ直接支払ってください」
「ほかには?」
「完成していないものを、納期のために完成品として渡さないこと」
公爵は書き換えた箇所を読み、すぐに頷いた。
「すべて受け入れます」
「公爵家の名に傷がつくとしても、ですか」
「傷を隠すために着る人を傷つける工房なら、持つ意味がありません」
その答えを聞いて、私は署名した。
庇護されるためではない。私が決めた条件で働き、私の判断に責任を持つために、この工房を選んだのだ。
公爵も署名し、私へ契約書を戻した。
指先が触れそうになったところで、彼は一度手を止め、私が受け取るのを待った。そのわずかな間に、胸が不意に高鳴った。
けれど次の瞬間、表で馬が激しくいなないた。
侯爵家の紋章をつけた使者が、工房の扉へ一枚の告知を打ちつけたのだ。
そこには、セルジュの署名でこう記されていた。
――仕事箱のみならず、中に収められた未完成原型も侯爵家の所有物である。エレノア・リースが同じ形を用いて衣装を仕立てた場合、盗用として訴える。
私は告知から目を上げた。
母の鋏だけではない。
セルジュは、私の手で作った原型まで、自分のものにするつもりだった。
(第3話へ続く)




