↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/21

私が決める仕立場

「それは母から譲られた裁ち鋏です」


 閉じた扉へ向かって言っても、セルジュは姿を見せなかった。


「侯爵家の工房で使った道具は侯爵家の財産だ。帰れ」


 扉越しの声に、胸の奥が冷える。


 十年使った椅子だけでなく、夜ごと磨いた針も、母の手の跡が残る鋏も、私から取り上げるつもりなのだ。


 職人たちはうつむいていた。セルジュに逆らえば、その日のうちに仕事を失う。ここで返せと迫れば、彼らを盾にするだけだ。


「わかりました。今日は持ち出しません」


「ようやく分をわきまえたか」


「いいえ。あなたが返さなかったという事実を、覚えておくだけです」


 返事はなかった。


 私は指ぬきと招請状だけを持って工房を出た。


 門の前では、王家の紋章をつけた馬車から使者が降りるところだった。従者二人が運んでいたのは、重そうな革張りの箱と一通の書状だ。


「婚礼衣装十二着の注文撤回に伴い、違約金は金貨六百枚。指定日までに納められたい」


 使者の声が、開いた玄関から屋敷の中まで響いた。


「六百枚だと!?」


 セルジュの叫びを背中で聞いたが、私は振り返らなかった。


 請求したのは私ではない。十二着を任せられないと判断したのも、王太子妃殿下だ。私がするべきことは、彼の失敗を眺めることではなく、選ばれた仕事を仕上げることだった。


 翌朝、公爵の工房を訪れた。


 北と東に大きな窓があり、朝の光が広い仕立台へ均等に落ちている。壁には大きさの違う鋏が掛かり、針、糸、定規、待ち針が種類ごとに分けられていた。


「不足があれば、すぐに揃えます」


 公爵はそう言ったが、私は道具へ手を伸ばす前に尋ねた。


「ここで働く職人は、何人でしょう」


「今は六人です。ただし、十二着を同時に進めるには足りない」


「その六人と話をさせてください。針幅と得意な工程、それから無理なく働ける時間を知りたいのです」


「承知しました」


 公爵は、自分で人員を決めようとはしなかった。


 私は壁の鋏を一本ずつ開き、刃の重さを確かめた。母の鋏とは違う。けれど、違う道具でも、手に馴染ませることはできる。


 細身の一丁を選んだところで、王太子妃殿下が到着された。


 最初に手を入れるのは、誓礼でお召しになる上衣だった。昨日直した袖だけではない。立っているときは美しくても、ひざまずけば背が引かれ、手を差し出せば肩が上がる。


「脇と背の縫い目を解いてもよろしいでしょうか」


「許します。今日は、どの動きを試せばよいの?」


「歩く、腰掛ける、腕を上げる。そのあと、誓礼と同じようにひざまずいてください」


 殿下は一つずつ試してくださった。


 私は首の付け根から腰までを測り直し、肩の傾きに合わせて仮布を裁った。肩の頂点、布目、腕のゆとりを三針で留める。背の引きつれをほどき、袖下へ指一本分の動きを足した。


 長い説明は必要ない。着て動けば、合っているかどうかはすぐにわかる。


「もう一度、お願いいたします」


 殿下がひざまずき、顔を上げ、右手を差し出した。


 背の布は引かれなかった。肩も浮かず、袖の刺繍が手首までまっすぐ流れている。


「息が楽だわ」


 殿下は立ち上がると、その場でゆっくり一周された。


「昨日までは、姿勢を正すほど肩が苦しかったの。婚礼では我慢するものだと思っていたわ」


「晴れの日に、痛みを我慢なさる必要はございません」


 私は裾を整え、最後の待ち針を打った。


 誓礼用上衣の仮縫いが、これで一着分完成した。


 殿下が自然に腕を上げた瞬間、工房にいた六人の職人から小さな息が漏れた。飾りではなく、着る人の身体に沿って衣装が動く。その手応えは、昨日奪われたものより確かだった。


「残り十一着も、あなたに任せます」


「はい。ただし、私一人では仕上げません。職人を選び、休息を含めた日程を組ませてください」


「それでこそ任せられるのです」


 殿下のお言葉が、まっすぐ胸に届いた。


 仮縫いを終えると、工房の入口に三人の職人が立っていた。見覚えのある顔だった。昨日まで侯爵家の仕立台にいた、裁断を得意とする者、細かな刺繍を担っていた者、そして私と何度も袖を縫った者だ。


 三人とも、自分の道具包みを抱えている。


「侯爵家を辞めてきました」


「私のために辞めたのですか」


「違います」


 先頭の職人は、はっきり答えた。


「未完成の衣装を完成品だと言えと命じられました。もう、あそこで自分の針を使いたくありません」


 私は三人を別々に呼び、同じことを尋ねた。誰かに誘われたのか。侯爵家へ戻る意思はないのか。ここで何を担当したいのか。


 三人の答えは、それぞれの言葉で同じだった。


 自分で辞め、自分でここを選んだのだ。


「では、試し布を縫ってください。採用するかどうかは、針目を見て決めます」


「はい!」


 三つの返事が重なった。


 昨日まで三人が座っていた仕立台は、今朝から空いているという。侯爵家は金貨六百枚を請求されただけでなく、三人分の手まで失った。


 けれど、それは私が奪った結果ではない。


 職人自身が、誠実に縫える場所を選んだ結果だった。


 午後、公爵は私を窓辺の机へ呼んだ。そこには契約書が置かれていたが、公爵は先に署名を求めなかった。


「あなたの条件を聞かせてほしい」


「条件、ですか」


「仕事内容、賃金、休息、そして誰が仕上がりを判断するのか。私が決めて差し出せば、それは新しい命令にすぎません」


 私は椅子へ座り、契約書を読んだ。


 十二着の完成責任者は私。賃金は主任仕立師と同額。公爵の許可なく工程を変えてはならず、求めがあれば夜間も働く。


 私は借りた筆で二か所に線を引いた。


「工程の最終判断は、採寸と仮縫いを担当した私が行います。夜間作業は非常時のみ、職人一人ずつの同意を得ること。六日働いたら一日休む。三人の賃金は私を通さず、本人へ直接支払ってください」


「ほかには?」


「完成していないものを、納期のために完成品として渡さないこと」


 公爵は書き換えた箇所を読み、すぐに頷いた。


「すべて受け入れます」


「公爵家の名に傷がつくとしても、ですか」


「傷を隠すために着る人を傷つける工房なら、持つ意味がありません」


 その答えを聞いて、私は署名した。


 庇護されるためではない。私が決めた条件で働き、私の判断に責任を持つために、この工房を選んだのだ。


 公爵も署名し、私へ契約書を戻した。


 指先が触れそうになったところで、彼は一度手を止め、私が受け取るのを待った。そのわずかな間に、胸が不意に高鳴った。


 けれど次の瞬間、表で馬が激しくいなないた。


 侯爵家の紋章をつけた使者が、工房の扉へ一枚の告知を打ちつけたのだ。


 そこには、セルジュの署名でこう記されていた。


 ――仕事箱のみならず、中に収められた未完成原型も侯爵家の所有物である。エレノア・リースが同じ形を用いて衣装を仕立てた場合、盗用として訴える。


 私は告知から目を上げた。


 母の鋏だけではない。


 セルジュは、私の手で作った原型まで、自分のものにするつもりだった。


(第3話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。