片づけられた椅子と三針
「針しか持てない女の席はない」
セルジュはそう言うと、私が十年使ってきた椅子を仕立台の下から引き抜いた。
脚が床をこする音が、工房じゅうに響く。
針を止めた職人たちの前で、セルジュはその椅子を壁際へ運び、まるで不要な荷物のように横倒しにした。
「エレノア・リース。君との婚約は今日限りで破棄する。工房への立入りも禁ずる」
隣に立つ義妹のミレーヌは、私が仕上げかけていた絹の袖を抱えていた。
「お姉様には感謝していますわ。けれど、これからの工房に必要なのは意匠を生み出せる人間です。言われたとおりに縫うだけの方ではなくて」
その意匠の下にある原型を引いたのは私だ。
着る方の肩の高さを測り、腕を上げたときに必要なゆとりを決め、布目に合わせて裁ったのも私だった。ミレーヌは最後に飾り紐の色を選んだだけだ。
けれど、私は言い返さなかった。
今、工房の中央には王太子妃殿下がいらっしゃる。婚礼衣装の仮縫いのため、侍女たちと公爵を伴って訪れていた。
侯爵家の内輪争いをお見せするだけでも失礼なのに、私の功績を数え上げて争うなど、もっと見苦しい。
「承知しました」
私は指ぬきを外し、仕立台に置いた。
胸の奥は痛かった。婚約を失ったからではない。母から譲られた裁ち鋏も、夜ごと磨いた針も、職人たちと囲んだ仕立台も、ここには私の手の跡がいくつもある。
それを、私には初めから席などなかったように片づけられたことが、痛かった。
「聞き分けがよくて助かるよ」
セルジュが満足げに顎を上げる。
「殿下の婚礼衣装は、ミレーヌが責任を持って仕上げる。王家御用達の工房に、地味な針子は必要ない」
「まあ、お任せくださいませ」
ミレーヌが王太子妃殿下へ近づき、抱えていた袖をドレスの身頃へ留めた。
「私の新しい意匠ですの。腕を細く長く見せる、特別な袖でございます」
殿下が鏡の前で腕を上げた。
その瞬間、右の袖山がねじれ、襟ぐりが喉元へ引き上がった。脇の絹には斜めの皺が走り、右肩だけが前へ落ちる。
殿下はすぐに腕を下ろされた。
「苦しいわ。これでは誓礼の姿勢を取れません」
「仮縫いですから、完成すれば整いますわ」
ミレーヌは笑顔のまま袖を引っぱった。
整うはずがない。
布目が前後で食い違っている。しかも、私が残しておいた三針の仮留めが抜かれ、縫い代まで細く削られていた。
「触れないで」
殿下の声に、ミレーヌの手が止まった。
私は指ぬきを置いたまま、一歩だけ前へ出た。
「恐れながら、殿下。袖を直す許可をいただけますか」
「直せるのですか」
「今この場で、腕を上げられるところまでは」
セルジュが割って入った。
「殿下、エレノアはもう当工房の者ではございません。ミレーヌにお任せを」
「私はエレノアに尋ねています」
静かな一言で、仕立場がしんとした。
殿下は私をまっすぐに見た。
「許します。どこを解くか、先に教えてください」
「袖山の後ろを指二本分だけ解きます。腕を上げていただいてから布の逃げる向きを確かめ、三針で留め直します」
「では、お願いします」
私は職人の一人から糸切り鋏を借りた。
細い刃先で三寸ほどの縫い目を解く。絹を親指と人差し指の腹で撫でると、無理に曲げられていた布が本来の方向へ戻ろうとした。
「殿下、右腕を前へ。次に、ゆっくり上へお願いいたします」
動きに合わせて袖山をずらす。肩の丸みへ布を沿わせ、余った分を後ろへ逃がした。
一針目で肩の頂点を決める。
二針目で前の布目を止める。
三針目で腕を上げるためのゆとりを残す。
「もう一度、お願いいたします」
殿下が腕を上げた。
袖はねじれなかった。襟ぐりも動かない。殿下はそのまま両腕を胸の前で重ね、誓礼の姿勢を取り、それから椅子へ腰かけた。
「苦しくありません」
さらに立ち上がり、鏡の前で半歩回られる。
「肩も軽いわ。先ほどまで、布に腕を押し戻されているようでしたのに」
その言葉に、周囲の侍女から安堵の息が漏れた。
私は三針を指先で確かめた。これは完成ではない。ここから殿下の動きをもう一度見て、縫い代を決め、袖を付け直す必要がある。
「三針でごまかしただけだ」
セルジュが吐き捨てるように言った。
「正式な仕上げはミレーヌができる」
「では、お尋ねします」
私は仕立台を見渡した。
殿下のお召し物を含め、王家から注文されたものは十二着。壁際には残る十一着分の絹が積まれている。奥の棚には、婚礼へ参列する方々の二十着分が収められている。
この工房で、婚礼までにすべて仕上げる予定だったのだろう。
私が黙って仕上げれば、翌朝にはすべてミレーヌの仕事になる。
それも、今日で終わりだ。
「では、この三十二着はどなたが仕上げますの?」
セルジュの顔から血の気が引いた。
「三十二着ですって?」
殿下が棚へ目を向けられる。
私は王家の残る十一着分から、一番手前の袖を持ち上げ、布目が分かるよう光へかざした。
「殿下のお召し物も、袖を留めて動いていただくまで歪みは見えませんでした。王家からご依頼の残る十一着も、仕上げるには一着ずつ着る方の動きを確かめる必要があります。それを夜のうちに私へ任せきりにする。それがこの工房のやり方です」
「でたらめですわ!」
ミレーヌが声を上げた。
私は争わず、袖を職人へ渡した。
「こちらを仮に身頃へ留めてください。三針だけで結構です」
受け取った職人は、黙って頷いた。彼女は袖を留めると、自分の腕へ当てて持ち上げた。布は斜めに引きつれ、袖口が外へねじれた。
もう一人も王家の分から別の一枚を試す。同じだった。
数字より雄弁に、歪んだ袖が仕立場に並んだ。
殿下は壁際の王家の十一着分の絹へ歩み寄り、一枚ずつ目を通された。
「セルジュ。王家からこの工房へ依頼した十二着は、すべて撤回します」
「お、お待ちください、殿下。納期は守ります。今夜から全員を働かせれば――」
「着る者の身体を確かめず、職人を夜通し働かせて隠すことを、仕上げとは呼びません」
殿下は私へ向き直った。
「十二着については、エレノア・リース、あなたへ依頼します。受けるかどうかは、今ここで決めなくて構いません」
失ったばかりの椅子より、はるかに重い言葉だった。
私はすぐには頷かなかった。十二着を引き受けるなら、殿下の動作を一着ごとに確かめ、裁ち直せない布の使い道を考え、職人の人数と休息を組み直さなければならない。
針一本で抱えられる仕事ではない。
「必要な職人と日数を確かめてから、お返事いたします」
「それでよいわ」
殿下は、直した袖をもう一度上げた。
今度は肩から袖口まで、絹の光がまっすぐに流れた。その姿を見て、私の胸の痛みが少しだけ形を変えた。
奪われた席に戻りたいのではない。
私は、きちんと仕上げられる場所で仕事がしたい。
殿下が退出されたあと、公爵が私の前に立った。
差し出された手にすがるべきなのかと、一瞬だけ身構える。
けれど、公爵は私に触れなかった。
代わりに、封をした一通の招請状を、空いた仕立台へ置いた。
「私が用意できる工房があります。だが、今すぐ来てほしいとは言いません」
「なぜ、私に?」
「三針の速さではなく、直す前に許可を求め、完成していないものを完成したと言わなかった。その判断を買います」
公爵は招請状から手を離した。
「仕事を受けるか、場所を見るか、すべてあなたが選んでください」
婚約を破棄された直後に、別の庇護へ飛び込むつもりはなかった。
それでも、自分で選べるという言葉は、冷えていた指先へ静かに熱を戻した。
「明朝、工房を拝見します」
私が答えると、公爵は一礼して去った。
壁際に倒された椅子は、そのままだった。
私は起こさなかった。仕立台から自分の指ぬきを取り、招請状を持つ。それから、裁ち鋏と針、未完成の原型を収めた仕事箱を取りに、奥の道具部屋へ向かった。
だが、扉の前でセルジュが立ちはだかった。
「どいてください。私の仕事箱を返していただきます」
「返すものなどない」
セルジュは私より先に道具部屋へ入り、扉を閉めた。
そして職人たちに、はっきりと命じた。
「エレノアの仕事箱は侯爵家のものだ。針一本たりとも、外へ持ち出させるな」
(第2話へ続く)




