切らなかった赤い糸
赤いしつけ糸の下へ、私は指を差し入れた。
仮布はまだ裁たれていない。刃の跡もないことを指先で確かめ、ひとまず息をつく。けれど、この線に従って鋏を入れれば、裳裾はどこも同じように指四本分短くなる。
立っているだけなら、それでも形にはなるだろう。だが、婚礼衣装は飾って眺めるものではない。着る人が歩き、階段を上り、誓いのために膝をつく衣装だ。
「この糸は外せます。ですが、裳裾の長さは王太子妃殿下に動いていただくまで決めません」
私は衣装係へ仮布を返した。
「殿下に、歩く、階段を上る、膝をつく、この三つを試していただけるか尋ねてください。どの動作をなさるかも、裳裾をどこまで残したいかも、殿下がお決めになることです」
「すぐに伺ってまいります」
衣装係が仮布を抱え直したとき、工房の扉が開いた。
朝の冷気とともに入ってきた女性は、見覚えのある革の指貫を握っていた。旧工房で裾縫いを任されていた職人だった。いつもなら作業台に向かう時刻なのに、外套の裾には職人通りの薄い泥がついている。
彼女は裁ち台まで来ると、深く頭を下げた。
「その赤い糸を付けたのは、私です」
三人の元職人が、椅子を鳴らして立ち上がった。誰も責める言葉を口にしない。それでも室内の空気が張り、針を置く小さな音まで耳に残った。
「ミレーヌ様から、その位置で切れと命じられました。王太子妃殿下はまだお召しになっていないと申し上げても、裾は短いほうが若々しく見えるからと」
女性の指が、革の指貫を強く曲げた。使い込まれた革が、かすかに軋んだ。
「切ることはできませんでした。しつけ糸だけを置き、衣装係の方に仮布をお渡ししたのです。今朝、工房を辞めてまいりました」
命じられたとおりに見せかけながら、布へ鋏だけは入れなかった。その一夜がどれほど長かったかは、赤くなった彼女の目を見れば分かった。
これで旧工房を去った職人は、累計八人になった。
彼女の仕立台には四枚の裳裾が残っているという。代わりに裾を縫える職人はいない。四枚とも納期に遅れれば、旧工房が受け取れるはずだった代金も信用も失われる。それでも私は、その四枚を引き受けるとは言わなかった。
あちらが困ることと、私が助けることは別だ。置き去りにされた注文のために、こちらの職人へ無理を強いるつもりもない。
「これから、どうしたいのですか」
私が尋ねると、女性は顔を上げた。怯えは残っていたが、声はもう揺れていなかった。
「もう一度、自分の針目を見ていただきたいのです。ただ、今すぐこちらで雇ってほしいとは申しません。私に王家の布を任せられるか、試し縫いで決めてください」
「分かりました。明日の朝、布と糸はご自分で選んでください。そのうえで、私も決めます」
縫い手の腕は、誰に仕えていたかでは決まらない。布に合う糸を選び、見えるところも見えないところも同じ心で縫えるか。その針目を見ればよい。
公爵はそばにいたが、すぐに新工房へ入るよう勧めなかった。
「王家の衣装が遅れるとしても、あなたへ旧工房に戻れとは命じません。どこで針を持つかは、あなたが選ぶことです」
女性はしばらく革の指貫を見つめたあと、初めて自分のものを確かめるように、右手の中指へはめた。
「はい。明日、自分で選びます」
その返事を聞いてから、私は王宮へ向かった。
王太子妃は仮縫い用の衣装をまとい、大きな鏡の前に立っていた。窓から差す白い光の中で、赤い糸だけが裾を横切っている。それを見ると、殿下は静かに眉を寄せた。
「私は、短くしてほしいとは一度も申していません」
「では、この糸は外してもよろしいでしょうか」
「外してください」
私は膝をつき、布を傷めないよう一本ずつ糸を抜いた。赤い線が少しずつ消えるたび、押さえられていた仮布がほどけ、本来の長さで床へ落ちていく。
「婚礼の日、どのように動かれますか」
「扉から祭壇まで歩き、六段の階段を上ります。誓いのときには膝をつきます」
「裳裾は、お一人で扱える長さになさいますか。それとも、衣装係に持ってもらう長さを残しますか」
王太子妃はすぐには答えず、鏡の中の裳裾を見た。それから一歩踏み出し、自分の足元を確かめた。
「祭壇まで、自分の足で歩きたいです。ただ、膝をついたときには、後ろへきれいに広がってほしい」
「では、その二つを両方残します」
まず十歩、普段の速さで歩いていただいた。衣装係に布を持たせず、私は横から足と裾の動きだけを見る。右足を出したときだけ、爪先が前裾へ触れた。
私は殿下の前へしゃがみ、中央の前裾を指一本分上げた。そこから左右へなだらかに戻る線を、今度は白い糸で留める。切るための印ではなく、歩くための線だ。
次に、仮の階段を六段上っていただいた。
三段目で裳裾の左端が靴に寄った。丈が長すぎるのではない。後ろの重みが片側へ流れていた。腰の仮留めをほどき、手のひらで布目を確かめて置き直す。
「もう一度、お願いいたします」
二度目は、六段すべてを止まらず上れた。布が段を越えるたびに柔らかな音を立て、殿下の足元から遅れずについていく。
最後に、クッションの上へ膝をついていただく。
後ろを一様に短くしていれば、裳裾は腰を引き、膝の裏へ固まっただろう。私は後ろ中央の縫い代を残し、左右へ開く分だけ襞を浅くした。指で寄せ、離し、殿下が呼吸をしても腰回りが突っ張らない位置を探す。
「公爵、裳裾の端を持っていただけますか」
私は自分から頼んだ。
公爵はすぐ布へ手を伸ばさず、王太子妃へ確かめた。
「仮布に触れてもよろしいでしょうか」
「ええ。エレノアの示した位置を持ってください」
公爵が端を持ち上げ、私が中央を広げる。床の上に、歪みのない半円ができた。王太子妃が立ち上がると、布は足へ絡まず、絹の波のように遅れて静かに元の形へ戻った。
「この長さなら、自分で歩けます」
王太子妃はもう一度六段を上り、最上段で振り返った。その表情から、最初に赤い糸を見たときの硬さは消えていた。
「そして、私が望んだとおりに膝をつけます。この長さで仕上げてください」
「承知いたしました」
その言葉をいただいて、初めて私は本布へ鋏を入れた。
刃を閉じるたび、張りのある布が小気味よく切れていく。誰かの思いつきではない。着る人が歩いて選んだ線だ。だから私の手も迷わなかった。
裳裾の完成まで二日。私は衣装係と納刻を決め、夜通しにはしないと伝えた。疲れた目と指で王家の裾を仕上げても、よい針目にはならない。
私が布目を合わせて裁ち、三人が長い裾を分けて縫う。新人二人には、裏地を引かないよう両側から送り出してもらった。長い布が仕立台を滑るたび、五人の手が同じ速さで動く。最後のまつりだけは再び一枚につなぎ、私が端から針幅を確かめて揃えた。
二日目の夕刻、婚礼用の裳裾が仕上がった。
王太子妃は完成した衣装で十歩進み、六段を上った。爪先は裾へ触れず、腰も引かれない。祭壇を模した台の前で膝をつくと、長い裳裾が左右へするりとほどけ、銀糸の飾りが途切れず半円を描いた。
居合わせた衣装係たちが、揃って息をのむ。けれど、私は裾ではなく殿下の肩を見ていた。どこにも余計な力が入っていない。
「軽いわ」
王太子妃は誰の手も借りずに立ち上がり、裳裾を振り返った。
「長さを奪わなくても、こんなに歩けるのですね」
「短くすることと、歩きやすくすることは同じではありませんから」
完成を知らせるのは、寸法を書いた札ではない。王太子妃が自分の足で十歩進み、誰の手も借りず六段を上り、望んだ形で膝をつけた。その姿が、私たちの仕事への答えだった。
王宮を出ると、公爵が私の隣で足を止めた。夕暮れの石畳には、私たちの影が長く並んでいる。
「あなたは、布だけでなく、人の望みまで勝手に切らせないのですね」
「公爵が、あの職人へ戻れと命じなかったのと同じです。急いでいるときほど、本人の選ぶところを残したいのです」
「あなたの仕事を信頼する理由が、また一つ増えました」
胸が温かくなった。腕を褒められるのは嬉しい。けれど、仕事の向こうにある私の考えまで見てもらえたことは、それとは違う熱を胸に残した。
迎えの馬車までは、まだ少し距離がある。
「公爵」
私は先に一歩を踏み出した。頼むかどうかは、私が決めたかった。
「帰りは、隣を歩いていただけますか」
「喜んで」
公爵は半歩早かった足を緩め、私の歩幅へ合わせた。石畳に重なる二つの足音を聞くうち、胸が高鳴った。
けれど翌朝、職人通りには大きな募集札が一斉に張り出された。
侯爵家工房、縫い手十二名募集。経験を問わず、月給金貨八枚。
以前の倍の賃金だった。十二席すべてを埋めれば、ひと月だけで金貨九十六枚になる。
セルジュは失った八人の腕を、十二人分の高給で埋めるつもりだった。
(第14話へ続く)




