治癒魔術でも薬師でも治せない病。
カラン。
静かなベルの音が、アトリエに響いた。
重い足取りで入ってきたのは、顔馴染みの中年女性だった。
カウンターへ座るなり、ひどく疲れた息を吐く。
「……娘が、都から帰ってきたのよ」
レッターが、湯気を立てる特製茶をそっと差し出す。
「ご実家に戻られたんですね」
女性は特製茶のカップを両手で包み込んだ。
「はじめは嬉しかったのだけど。……なかなか都へ帰らないからね。これは何かあったのね、って」
特製茶をひとくち飲む。
「……何歳になっても、親はわかるのよ。直感ね」
女性はそこで、ようやく言った。
「……呪われていたわ」
ブフッ!
カウンターの隅でポーションを飲みながら、うんうんと頷きかけていた常連客が、派手にむせた。
ゴリ。
店主が、乳棒を回す手を止めた。
「……症状は?」
「貧血みたいに、度々眩暈を起こして座り込むのよ」
「……なぜ、呪いだと?」
女性が、自分の二の腕を強くさする。
まるで、見えない気味の悪いものを振り払うように。
「傍目には、何も変わっていない普通の素肌よ。でも、私にはわかる。あの子の肌に、黒い蛇の鱗みたいなものが、べったりと纏わりついている嫌な感じがするの」
帳場から、リヒャルトの冷たい声が落ちる。
「……まともなものではありませんね」
女性が、苦しげに顔を歪める。
「隠していた娘を問い詰めたわ」
レッターが、ごくりと喉を鳴らす。
「……あの子、付き合っていた男性の実験体になったんですって」
「は?」
むせた常連客が、涙目で素っ頓狂な声を上げた。
女性は首を横に振る。
「娘の口からは、『彼と永遠に結ばれる魂の契約なの!』って言っていたけれど」
リヒャルトが、流れるような手つきで羽根ペンを置いた。
「……それなら、戻ってきているのは不自然ですね」
女性が、すがるような目で店主を見る。
「解呪のポーションは、ある?」
店主が、重く口を開く。
「……本人を連れて来い」
リヒャルトも、同意するように頷く。
「お嬢様に合ったポーションを正確に処方するためにも、実物を見せていただかないことには」
「そうよね……ごめんなさい、先走ってしまったわ」
女性が丸椅子から立ち上がろうとした時、レッターがはっとしたように声を上げた。
「そういえば、お嬢様、神殿には行かれたんですか?」
女性が頷く。
「ええ。行ったわ。祈祷も受けたし、神官様にも診てもらった。でも、何もわからなかった」
その声が、少しだけ震える。
「……しかも、祈祷を受けた帰り道で、余計に顔色が悪くなって。
喉が渇く、喉が渇くって、水を何杯も飲んだのに、全然落ち着かないのよ」
レッターの表情が変わる。
常連客も、さっきまでの軽い空気を消して女性を見た。
帳場の奥で、リヒャルトの瞳が冷たく細められる。
「……なるほど」
女性が、不安そうにカップを握りしめた。
リヒャルトが、ペンを持ったまま静かに尋ねる。
「ちなみに、お嬢様はどちらからお戻りに?」
「王都からよ」
ピタリと。
店主の手が、完全に止まった。
瞳が、鋭く持ち上がる。
「今日中にだ」
有無を言わさぬ、強い命令だった。
「え? あ、そうね。わかったわ、連れてくる」
女性が少し驚きながらも頷く。
リヒャルトが、空色の液体が入った小瓶をすっと差し出した。
「奥様の心労、お察しいたします。よろしければ、微回復ポーションを飲まれますか?」
「……ありがとう。いただくわ」
銀貨一枚がカウンターに置かれる。
女性は小瓶の栓を抜き、一気に飲み干すと、足早にアトリエを去っていった。
カラン。
扉が閉まる。
常連客が、喉をさすりながらぼそりとこぼした。
「……母親の直感は、凄いな」
誰も、それに返事をしない。
帳場に座るリヒャルトの目にも、乳鉢を見つめる店主の目にも、すでに日常の商人の色はなかった。
王都。
人体実験。
黒い蛇の鱗のような異物感。
祈祷のあとに悪化する症状。
渇き。
あの少女が一人で向かった王都の泥が、またひとつ白亜へ流れ着いていた。




