いない席と、いつもの三本。
白亜の要塞は、いつも通り白く、堅牢だった。
乳鉢を回す一定のリズム。
帳簿を繰る紙の音。
厨房から漂う、焼きたてのパンと特製茶の匂い。
生活音に満ち、いつも通りに完璧に回っている。
けれど、どこかひとつ、決定的に足りない。
厨房で拭き上げられる皿の音が、一枚少ない。
ロビーを小走りで抜ける、軽い足音がない。
カラン。
開店と同時に、一人の客が入ってきた。
長年この街で中規模の商会を営んでいる、顔馴染みの常連客だった。
彼はカウンターへ向かう途中、何気なくロビーを見回し、ぽつりと言った。
「……あれ。最近、あの子は見ないな」
一瞬。
アトリエの空気が、完全に止まった。
ロビーでくつろいでいた居住者や常連たちの話し声まで、ぴたりと途切れる。
厨房の入り口で、レッターの手が固まる。
カウンターの隅で、クリムが「きゅ」と小さく鳴いた。
足元のルゥが、伏せた尾をパタン、と一度だけ床に打ちつける。
帳場に座るリヒャルトの、流れるような羽根ペンの動きが止まった。
完璧な営業スマイルを顔に貼り付けたまま。
パタン、と。
分厚い帳簿が閉じられる。
その研ぎ澄まされた沈黙の中で。
「……今日は」
ゴリ、と。
店主が乳鉢を回したまま、地を這うような低い声で返した。
「その話を、買いに来たのか」
冷や水を浴びせられたような声色に、商人はびくっと肩を跳ねさせた。
自分が無意識に、この要塞の最も触れてはならない場所を踏み抜いたのだと、本能で察する。
「い、いや! 違う、そうじゃないんだ店主! 今日は、薬を頼みに……っ」
商人は慌ててカウンターへすがりつき、本来の相談を早口でこぼした。
持ち込まれた悩みは、酷くありふれていて。
今の白亜には、あまりにも痛すぎるものだった。
「……共同経営者だった相棒が、故郷へ帰っちまったんだよ」
商人が、乾いた両手で自分の顔を覆う。
「円満な解散だ。金も綺麗に分けた。これからは俺一人で、気楽に商売を広げていけるって、そう思ってたんだ」
だが。
「……静かすぎるんだ」
震える声が、アトリエに落ちる。
「荷馬車の助手席。帳簿の確認作業。……あいつが座っていた席が、空っぽなのが、どうしても目について仕方ない。仕事は回ってるのに、何かが決定的に欠けてる。その穴が気になって、夜も眠れないんだ」
失ってから、その人がいた場所の大きさに気づく。
いないという事実ばかりが、やけに目につく。
アトリエの中は、誰も口を開かなかった。
店主は無言で乳鉢を回し続けている。
リヒャルトは、氷のように冷たい瞳で、商人を見ていた。
コト、と。
店主が乳棒を置いた。
カウンターの下から、三本の小瓶が並べられる。
白亜の、冷徹な値札の時間だった。
「……ひとつめ」
店主の重い声が響く。
「欠けた穴を、別の高揚感で完全に埋め立てる補助薬だ。これを飲めば喪失感は麻痺し、二度と思い出すことはない。だが、あいつと築いた過去の記憶も、同時に手放すことになる」
商人が、息を呑む。
「ふたつめ。いない相手のいた場所、その気配を強烈に幻視し続ける補助薬。現実を拒絶し、甘い未練の幻に溺れたいならこれだ。一生、その席にはあいつの幻が座り続ける」
「……っ」
「みっつめ」
店主の漆黒の瞳が、商人の痛みを真っ直ぐに射抜いた。
「戻らないものは戻らないと、脳と身体に強制的に叩き込む補助薬。吐くほどの痛みを伴うが、穴が開いた現実を直視し、一人で前へ進むためのものだ」
麻痺か。
幻惑か。
痛みか。
並べられた三本の小瓶。
それは商人だけに向けられたものではなかった。
リヒャルトが、再び分厚い帳簿を静かに開く。
「……さて。お客様はどれを、お買い上げになりますか」
甘く、酷薄な声が、空気に冷たく響き渡った。




