売る気のないクッキーと、手薄な領地。
カラン。
昼下がり。
常連の冒険者が静かにポーションを傾けるロビーへ、重苦しい足音が近づいてきた。
白い石畳を力なく引きずるように、ギルド職員がふらふらとアトリエへ入ってくる。
そのままカウンター前の丸椅子へ崩れ落ちた。
「……眠い。キツい。胃が痛い。もう辞めたい」
うわ言のような愚痴。
カウンターの奥から、湯気を立てる特製茶がすっと差し出される。
カップを置いたレッターの目元は、泣いたあとがはっきりと分かるほど赤く腫れていた。
ギルド職員はその目元を見て、それ以上は何も言わず、黙って青苦い茶を口へ運んだ。
「……姫様の焼いた不格好なパイ、もっと食べておけばよかった」
もう食べられないかもしれないと思うには、白亜での日々はあまりにも短すぎた。
レッターが、エプロンの裾を握りしめながら小さく問う。
「……姫様は、無事に領地を立たれたのですよね」
ギルド職員はしばらく黙り、カップの底を見つめた。
それから、ぽつりとこぼす。
「……ここにいた女の子と、最後に領主城で見た姫様は、もう別人みたいだったよ」
短い沈黙が落ちた。
ゴリ、ゴリ。
店主が乳鉢を回す音だけが響く。
手を止めることなく、低く返した。
「……そうか」
ギルド職員は、領主城で起きた血生臭い顛末を、途切れ途切れに報告した。
重傷を負った騎士団長が持ち堪えたこと。
特使と裏切り者たちが完全に拘束されたこと。
領主が、本気で自分を囮にして刃を受けたこと。
その報告の途中で、帳場に座るリヒャルトが薄く笑った。
ギルド職員が、じろりと恨めしそうに睨む。
リヒャルトは流れるような動作で、金色に輝く特製胃薬を一本、すっと差し出した。
「要りますか?」
「……予備は常に要ると痛感したので、二本ください!」
ギルド職員は懐から金貨を二枚取り出し、カウンターへ叩きつけるように置く。
そのあと、少しだけためらって言った。
「……あと、飴玉一袋と……姫様の焼いたクッキー、まだ残ってる?」
「ありますよ」
とレッターが言いかけるより早く、
「残念ながら」
リヒャルトが、ひどく冷たく、静かな声で告げた。
「売り物としては、もう在庫に残っておりません」
そう言って、リヒャルトは手元にあった小さな籠からクッキーをつまみ上げ、そのまま自分の口へ運んだ。
サクッ。
甘く、香ばしい音が帳場に響く。
黄金の睫毛が伏せられ、咀嚼する。
ギルド職員が、目を剥く。
「……君、それ」
「……次に備えたか?」
壁際の影から、メテスが短く断ち切った。
「へ?」
ギルド職員が間の抜けた声を上げる。
「領地が手薄になるだろう」
姫様の護送に、騎士団の生き残りと領主直属の精鋭部隊がごっそり割かれた以上、辺境の戦力は間違いなく分散する。
その穴を、次は別の何かが狙ってくるかもしれない。
リヒャルトが、クッキーの欠片すらない綺麗な指先でペンを持ち直し、さらりと続ける。
「……魔物を湧かせやすい箇所に、罠を増やすのがよいかと」
「やめてよぉ……俺、今、徹夜の事後処理明けで帰宅したばっかりだよぉ……」
ギルド職員は泣きそうな顔で、特製胃薬の栓を抜いた。
キュポンッ。
ゴク、ゴク、ゴク。
ぷはッ。
「……ギルドにすごく近い家でよかった!」
空の小瓶を置き、そのまま小走りでアトリエを去っていく。
悲鳴のような足音が、外の石畳へ遠ざかった。
カウンターの上には、レッターがそっと用意してくれていた飴玉一袋が、ぽつんと取り残されている。
あとに残った常連の冒険者が、ぼそりと呟く。
「……起きると思うか?」
店主が、乳棒を回したまま返す。
「……二度あることは」
常連の冒険者が、短く肩をすくめた。
「三度ある、か」
手元のポーションをぐいと飲み干し、丸椅子から立ち上がる。
「備えるに越したことはないな」
金属の擦れる音がして、冒険者もまた外へ出ていく。
静けさの戻ったアトリエ。
青苦い薬草の匂いの中。
カウンターの隅で、クリムが「きゅぅ」と小さく鳴いた。
いつもなら、そこにある手が、今日はない。
足元では、ルゥが低く「わふっ」と同意した。
少女はもう、ここにはいない。
それでも白亜は、外の血の匂いと繋がったまま、今日も回り続けている。




