返すが、切らない別れ。
朝の光が、白い石壁を無情に照らしていた。
アトリエの空気は、これまでで最も硬く、冷え切っていた。
ロビーの中央。
領主側の正式な使者と、騎士団長が、微動だにせず待っている。
彼らの視線の先には、昨夜までエプロン姿で笑っていた少女がいた。
白亜で借りた質素な服ではなく、上質な絹のドレス。
髪は一糸乱れず結い上げられ、姿勢にも一分の隙がない。
そこにいるのは、白亜の小間使いではなく、王家の姫君だった。
だが、その顔色は、絹のドレスよりも白く、青ざめていた。
「……では、殿下。馬車へ」
騎士団長が、低い声で促す。
その声に、少女の肩がびくりと跳ねた。
帰らなければならない。
王都の腐った盤面へ。
お父様が危篤で、お兄様が重傷を負った、血の海へ。
少女は、震える唇をぎゅっと噛み締めた。
泣いてはいけない。
ここで泣けば、本当に最後まで守られるだけの子供のままだ。
振り返る。
カウンターの奥で、店主はいつもと変わらず乳鉢を回していた。
ゴリ、ゴリ、という音が、やけに遠く聞こえる。
メテスは壁際で腕を組み、静かに見送りの態勢に入っている。
レッターは厨房の陰で、泣きそうな顔を両手で必死に覆っていた。
ルナとネスも、言葉を出せずに立ち尽くしている。
そして、帳場。
リヒャルトが、分厚い帳簿を開いたまま、完璧な営業スマイルで立っていた。
「……その前に」
澄んだ声が、張り詰めた空気を割る。
リヒャルトは流れるような所作で、一枚の紙を使者の前へ差し出した。
「姫殿下の滞在費、食費、治療費、ならびに極秘警護の特別追加料金。……本日の朝食分までの、ツケの精算書でございます」
使者は、わずかに顔を引きつらせ、王族を保護した名誉ではなく、きっちりと現金を要求してくる辺境の商人に、冷えた目を向けた。
「……よかろう」
使者は懐から重い革袋を取り出し、カウンターへ置いた。
ジャラリ、と鈍い音が鳴る。
リヒャルトは、躊躇なくそれを引き寄せた。
少女は、その光景を見て、すっと血の気が引くのを感じた。
終わった。
精算された。
自分と白亜を繋いでいたものが、今、きれいに精算された。
足元が崩れ落ちるような喪失感に、少女の視界が歪む。
ドレスの裾を握る手が、白く鬱血するほど力がこもった。
(……いやだ)
声に出してしまいそうになった、その時だった。
「お支払いは確かに。……では、続いてこちらを」
リヒャルトが、帳簿の下からもう一枚、真新しい紙をすっと引き出した。
それを、使者ではなく、少女の目の前へ差し出す。
「……え?」
少女は、滲む視界でその紙を見た。
見覚えのある書式。
先日、アルテルナとゲッセネスがサインしていたのと同じもの。
「貴女のお部屋の、賃貸契約書です」
リヒャルトの、甘く、冷たい声が落ちた。
少女の呼吸が、完全に止まった。
「お支払いは、指定口座からの自動引き落としとなります。……よろしいですね?」
使者が「は?」と間抜けな声を漏らす。
騎士たちも、何事かと色めき立った。
王女が、辺境のポーション屋の一室を賃貸契約するなど、前代未聞どころの話ではない。
「おい、貴様。殿下になんという無礼な紙を……!」
使者が声を荒らげようとしたが、リヒャルトの凍るような一瞥に、言葉の後半を飲み込まされた。
少女は、震える手でその紙を受け取った。
契約書。
毎月、必ず自分からこの場所へお金が支払われる。
その対価として。
あの、泣いて、笑って、リヒャルトのために刺繍をした二階の部屋が。
誰にも奪われず、自分の場所として、この白亜に残り続ける。
「あ……」
少女の瞳から、堪えきれずに大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
絶望ではない。
未練でもない。
切られなかった。
まだ、繋がっている。
その事実が、たまらなく嬉しくて、どうしようもなく苦しかった。
「……書きます」
少女は、リヒャルトが差し出した羽根ペンを震えながら受け取った。
涙で視界がぼやける。
紙に落ちた雫が、インクをわずかに滲ませた。
それでも、絶対に手放さないと誓うように、力強く、自分の名前を書き殴った。
「……確かに」
リヒャルトが、その契約書を恭しく受け取る。
そして、カウンターの下から、ずしりと重い革製のポーチを取り出した。
「こちらは、お持ち帰り用の品です」
少女は、両手でそれを受け取った。
見た目以上の重さに、腕が沈む。
中身を覗き込むと、ガラスの小瓶がぎっしりと詰め込まれていた。
触れ合うたびに、カチリ、カチリと冷たい音が鳴る。
一つだけ、一番上の小瓶を取り出してみた。
ラベルに書かれた、見覚えのある整った文字。
リヒャルトの字だ。
『発言者の声に強制従属させる薬・一滴で十分です』
少女は、息を呑んだ。
視線をずらすと、下にある小瓶の文字も読める。
『運の前借りポーション・使用後は三日寝込みます』
『広域殲滅ポーション・投擲注意』
その下にも、店主特製の回復薬や泥眠ポーション、見たこともない白亜の劇薬がぎっしりと詰め込まれていた。
気休めの護身用ではない。
王宮という伏魔殿で、どんな手段を使ってでも生き残れ。
そのための中身だった。
瓶を見るたび。
この整った冷たい文字を読むたび。
自分は、この白亜の匂いと、彼の手を思い出すことになる。
(……ずるい)
少女は、重いポーチを胸に強く抱きしめた。
涙が、ぽたぽたと革の表面に落ちる。
「そして、最後に」
リヒャルトが、手のひらに乗るほどの小さな木箱を差し出した。
少女は震える指先で、そっと蓋を開ける。
中に入っていたのは、白亜の紋章が意匠された、銀の細工のブレスレットだった。
そして、その下敷きになるように、小さく折りたたまれたメッセージカードが添えられている。
少女は、そのカードを開いた。
「……っ!」
一行だけ書かれたその文字を読んだ瞬間。
少女は、声を上げて泣き崩れた。
使者にも、騎士団長にも見えない。
少女だけが、その言葉を両手で覆い隠すようにして、声を上げて泣いた。
帰りたくない。
でも、帰らなければならない。
部屋も、武器も、繋がりも残された。
それなのに今は、一緒にはいられない。
たまらなく痛かった。
「……殿下、お時間です」
騎士団長が、静かに促す。
少女は、赤く泣き腫らした目で、力強く立ち上がった。
木箱をカウンターへ置き、ブレスレットを自らの腕にはめる。
空になった木箱へメッセージカードをしまい込み、大切にポーチへ収めた。
そのまま、ぎゅっと抱きしめた。
もう、振り返らない。
振り返れば、決意が鈍る。
真っ直ぐに、外で待つ馬車へと歩き出す。
少女が帳場の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
いつの間にかカウンターを抜け出ていたリヒャルトが、動線に寄り添うように立ち、臣下としての完璧な礼をとった。
そして。
すれ違いざま、少女の耳元を掠めるように、
低く、甘い声で囁いた。
「……末永く、白亜と共に」
少女の背筋が、ぞくりと震えた。
私と共に、ではない。
白亜と共に。
それは、呪いのように甘く、彼女の魂の奥底に致命的な楔を打ち込んだ。
カラン。
重い扉が開き、少女の姿が朝の光の中へ消えていく。
馬車の扉が閉まる音がした。
車輪が石畳を叩き、少しずつ遠ざかっていく。
アトリエには、青苦い薬草の匂いと、彼女が残した涙の跡だけが残された。
店主は乳棒を回す手を止めず、低く鼻を鳴らした。
「……悪趣味な男だ」
「何のことでしょう」
リヒャルトは、完璧な営業スマイルのまま、ゆっくりと踵を返した。
手の中には、涙でインクが滲んだ一枚の賃貸契約書。
リヒャルトはそれを静かに畳んだ。
そして、そっと胸ポケットを押さえて微笑んだ。
ただ帰るだけでは、もう終わらない。
白亜を抱えたまま、少女は王都へ戻っていく。




