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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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322/337

守るだけでは、足りない夜。

姫様視点


その日の夜。


遠くで、絶えず足音がする。

見張りの交代。

低い声での報告。

扉の開閉。

分厚い石壁の向こうを、誰かが忙しなく行き来している気配が、途切れない。


少女は自室の机に向かっていた。


店主に借りた帳面。

昼間に見せられた契約書を書き写した控え。

慣れない言い回しの並ぶ書面。

ノートと、インクと、ペン。


開いている。

開いているのに、何も頭に入らない。


見慣れない言葉が、紙の上に並んでいる。


昼間、あの傲慢な男の前で、リヒャルトが広げた紙。

あれは、武器に見えた。


理不尽な暴力を叩き伏せて、アルテルナとゲッセネスの人生を守り抜いた、冷たくて強固な盾。

自分も覚えなければならないと、確かに思った。


なのに。


いざ一人で向き合うと、文字は紙の上を上滑りしていくだけだった。


胸が、うるさい。


真っ青になった自分の肩を真っ直ぐ押さえた、ひやりとした手。

「これから僕たちは忙しくなります」と落とされた、低い声。

仕事の顔。


そして、何より。


笑っていなかった。


あの人が。


自分を見る時、いつもほんの少しだけ和らいでいたはずの顔が、もうどこにもなかった。


少女はそっと目を閉じた。


苦しい。


会いたい。


顔を見るだけでもいい。

声を聞けたら。

今、どこにいるのか。

何をしているのか。

それが分かるだけでも。


そう思ってしまったら、もう机の前に座ってはいられなかった。


椅子を引く。

立ち上がる。

扉へ向かう。


そっと鍵を外して、音を立てないように細く開いた。


夜の廊下は、冷えていた。

白い石壁が、昼間の賑やかな時間よりも、ずっと遠く、よそよそしく見える。


ゆっくりと部屋を出て。

階段を降りる。


そして。


いた。


廊下の先。


書類の束を抱えたまま立ち止まり、こちらへ静かに顔を上げた男がいた。


目が合った瞬間、少女の胸が大きく跳ねた。


嬉しい。


会えた。

声が聞ける。


それだけで、喉の奥が熱くなる。


なのに。


次の瞬間、もっと強く胸を打ったのは、別のことだった。


笑っていない。


「……どうされましたか」


静かな声。

整った声。

けれど、そこにはあのやわらかさが微塵もない。


完璧な営業スマイルすらなかった。

そこにいたのは、自分の知っている優しい顔ではなかった。


少女は階段の手すりを握ったまま、小さく息を呑んだ。


「その……少しだけ」


話したかった。

顔を見たかった。

大丈夫か聞きたかった。

何か役に立てないか、知りたかった。


けれど、その全部がうまく言葉にならない。

喉の奥でつかえて、情けない音に崩れていく。


リヒャルトは近づいてこない。


ただ、灯りの下から一歩も動かずに言う。


「今は、出てはなりません」


優しくもない。

冷たく突き放すわけでもない。


ただ、それが今の決まりだと告げる声だった。


「でも……」


「お戻りください」


短い。


それだけだった。


少女の胸が、ぎゅっと痛む。


会えたのに。

声も聞けたのに。

前より、ずっと遠い。


どうして。


どうして、笑ってくれないの。


私に向けてくれていた、あのやわらかな笑顔はどこへ行ったの。


けれど、問い返せない。


忙しいのは分かる。

外が危険なのも分かる。

今の自分が、ただの足手まといでしかないことも、嫌というほど分かる。


分かる。

分かるのに、痛い。


少女は震える唇を噛み締め、小さく頷いた。

きた道を、ひとりでもどる。

そして、扉を閉めた。


カチャリ。


鍵を下ろす。

机へ戻る。

けれど、すぐにはペンを持てなかった。


泣きたい。

泣いてしまいたい。

胸の奥が苦しくて、息がうまく吸えない。


でも、泣かなかった。


泣いたところで、何も変わらない。

今の自分では、何ひとつ動かせない。


役に立たないまま、ただ守られるだけの自分。

それが、たまらなく惨めだった。


だから、あの人は笑ってくれなかったのだと、少女は勝手に思い込んだ。


大丈夫。


私が白亜の役に立てばいい。

私がこの場所で、ちゃんと意味を持てばいい。


そうしたら、また。


また、あの人は「お見事です」と言ってくれるはず。

また、あの人は自分を見てくれるはずだ。


そう信じるしかなかった。


少女は震える手でペンを取った。


ノートの上へ、ひとつずつ、分からない言葉を書き写す。


字は少し歪む。

インクも少し滲む。

それでも止めない。


書く。

覚える。

なぞる。

何度も、何度も。


守るために。

役に立つために。

置いていかれないために。


そして、その先で。


少女の中の何かが、静かに、黒く沈んでいく。


あの笑顔を奪ったもの。

白亜の空気を変えたもの。

あの人を、あんな冷たい仕事の顔に変えてしまったもの。


あの日、自分を泥と虫の森へ投げ込んだ悪意。


お父様の危篤。お兄様の重体。


ルナとネス。

あの二人の権利を奪いに来た人間たち。


この大好きな白亜の要塞へ、土足で踏み込んでくる、あらゆる害意。


ひとつ残らず、赦せない。

あの人の笑顔を曇らせるものを、ひとつたりとも。


少女はノートの上に視線を落としたまま、

静かに、けれどひどく熱い息を吐いた。


守るだけでは、足りない。



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