白亜で学ぶ意思と、冷たい宣告。
翌朝。
白亜の石壁が、白み始めた外の光を薄く反射している。
少女の机の上には、昨夜書き殴ったノートが開かれたままになっていた。
インクの滲んだ文字。
書きかけの条項。
何度なぞっても、まだ自分のものにならない言葉の列。
目元は少しだけ腫れている。
それでも、ちゃんと起きて、冷たい水で顔を洗い、髪を整えた。
ノートを胸に抱きかかえ、扉を開ける。
今日は、守られているだけで終わるつもりはない。
分からない言葉があるなら、分かる人に聞く。
白亜で使われているものを、自分も知る。
そうして少しでも、この場所の役に立てるようになりたい。
覚悟を決めて、廊下へ踏み出した。
だが、階段の踊り場まで来て、少女の足はぴたりと止まった。
一階のロビーは、もう日常の顔ではなかった。
重い荷箱が、次々と運び込まれては開けられている。
青苦い薬草の匂いが、むせ返るほど濃く充満していた。
カウンターの奥では、店主が凄まじい速度で乳鉢を回し、劇薬の小瓶を量産している。
メテスは入り口の死角に立ち、外の気配を完全に監視する態勢に入っていた。
レッターも厨房とロビーを小走りで往復し、有志たちへ水や補給食を配り歩いている。
そして、帳場。
書類の山に囲まれたリヒャルトが、羽根ペンを滑らせていた。
完璧で、冷徹な仕事の顔。
昨夜と同じだった。
見える。
そこに、いる。
少女は、階段の手すりを強く握りしめたまま、立ち尽くす。
視線に気づいたのか、リヒャルトがすっと顔を上げた。
目が合う。
少女の胸が、きゅっと鳴る。
ノートを抱える腕に、無意識に力が入る。
リヒャルトは、微塵も微笑まなかった。
「……おはようございます」
静かで、よく通る声だった。
「本日は、上でお待ちください」
それだけだった。
短い。
冷たい。
今の盤面に、あなたが入る隙間はないと、明確に線を引く声。
少女の胸の奥が、ぎり、と軋んだ。
けれど。
少女は、逃げるように背を向けなかった。
唇を強く噛み締め、階段を一段だけ戻り、そこでじっと堪える。
泣かない。
泣き出したりしない。
ノートを抱きしめたまま、その場に踏みとどまった。
リヒャルトは、それ以上何も言わずに視線を帳簿へ戻した。
「……あ、姫様」
背後から、小さな声がした。
夜通し二階で見張りに就いていた護衛たちへ、温かいお茶を運んできたレッターだった。
少女の顔を見て、レッターが困ったように眉を下げる。
下は今、大変ですからね、と言いたげな、優しい顔だった。
少女は、大きく息を吸い込んだ。
そして、振り返る。
「……レッター」
「はい?」
「少しだけ、教えてほしい言葉があるの」
レッターが、目を瞬かせる。
少女は胸に抱えていたノートを開き、昨夜書き写した文字を指差した。
「……これは、どういう意味?」
レッターは、ノートの文字と少女の真剣な目を見比べた。
王宮の教養ではない。
白亜の帳場で使われる、泥臭くて冷徹な言葉たち。
レッターは少しだけ迷い、それから、困ったように、けれど柔らかく微笑んだ。
「……難しい法律のことは、僕も全部は分かりません」
静かな、やさしい声。
「でも、奪われないための約束ごとだって、リヒャルトさんが言ってました」
少女が、息を呑む。
「力ずくで奪いに来る人から、大切なものを守るための……約束ごと、みたいなものです」
たどたどしい説明だった。
それでも、少女には十分だった。
奪われないための、約束ごと。
暴力ではなく、言葉で相手を縛る力。
少女の瞳の奥で、散らばっていた点と点が、明確な線として繋がり始める。
白亜で、学べる。
あの人の使っている武器を、自分も知ることができる。
もっと知りたい。
自分のものにしたい。
そうすればいつか、あの人の隣に――。
その、途中で。
ゴトッ。
ゴトゴトッ。
外の石畳を叩く、重い車輪の音が響いた。
アトリエの空気が、一瞬で凍りつく。
ギルドの荷馬車ではない。
もっと重く、強固に補強された、公式の馬車の音。
整った、硬い革靴の足音が、アトリエの扉の前で止まる。
カラン。
ベルの音が、やけに響いた。
二階の階段から見下ろす少女の目の前で。
店主の、乳鉢を回す手が止まった。
メテスが、音もなく入り口へ向き直る。
帳場に座っていたリヒャルトの表情が、さらに一段、氷のように冷え切った。
ロビーにいた誰もが、息を止めて扉の向こうを見据えていた。
開かれた扉の前に立っていたのは、見慣れない制服。
洗練された装具。
領主側の、正式な使者だった。
使者は、アトリエの異様な殺気にも顔色を変えず、ただ一歩だけ中へ入り、深く、逃げ場のない一礼をした。
「――姫殿下を、お迎えに上がりました」
冷たい宣告が、白亜の石壁に響き渡る。
少女の指から、力が抜けた。
抱えていたノートが、音を立てて階段へ落ちる。
帰る朝が、音を立てて迎えに来てしまった。




