配当金と、白亜の盾。
カラン。
ギルドの使いが、額の汗を拭いながら重い木箱を抱え上げた。
「店主! これが最後のポーションの箱だな?」
「ご苦労さん」
店主が、乳鉢から手を止めることなく短く応じる。
使いが足早に飛び出していく。
その背中を見送って、アトリエを満たしていた極度の緊張が、ほんのわずかにほどけた。
「……とりあえず、急ぎの納品は終わったか……」
白亜の居住者や常連客たちが、小さく息を吐き出す。
「お疲れ様です! 温かいお茶、入りましたよ!」
レッターが、厨房から湯気を立てる特製茶のカップを次々と運んできた。
青苦くも安らぐ香りが、白い石畳の空間に広がっていく。
皆がカップを手に取り、ふぅ、と短く息を吐いた。
次の嵐が来るまでの、張り詰めた中でのわずかな息継ぎ。
そのひとときだった。
カラン。
重く、硬い革靴の音が、白い石畳を踏み躙るように入ってきた。
「ここに、アルテルナとゲッセネスという者が住んでいるだろう?」
ピクリ、と。
ロビーの空気が、一瞬で固まった。
誰も立ち上がらない。
武器も抜かない。
だが、カップを持つ者たちの手が止まり、視線だけが、静かに、そして鋭く入り口へ向く。
そこに立っていたのは、上等な外套でふんぞり返る初老の男と、その後ろに控える従者だった。
魔物の血も泥も知らない、安全な場所で権力を振るうだけの匂い。
帳場の奥から、リヒャルトが完璧な営業スマイルで歩み出た。
「いらっしゃいませ。……居住者に関する詳しい情報は、ご本人の同意なくお伝えしかねます」
「貴様! 誰に向かって口を利いているか分かっているのか!」
従者が吠える。
リヒャルトは、微塵も表情を崩さなかった。
「承知いたしました。では、お取次ぎのために、ご用件をお伺いしても?」
壁際で。
メテスが音もなく、片手剣の柄へ指を添えた。
初老の男が、傲慢に顎をしゃくる。
従者が、偉そうに声を張り上げた。
「このお方が、あの者たちの『養父』となられる」
は?
ロビーの空気が、完全に停止した。
静寂の中、店主が乳棒を置く、コト、という硬い音だけが響く。
「……ロビーに二人を呼べ」
「……承知した」
メテスが踵を返し、二階の階段へ向かう。
数分後。
アルテルナとゲッセネスが、困惑しきった顔でメテスと共に降りてきた。
「え!? なに!? これどういう状況???」
「る、ルナ……こういう時は無言でいるべきだよ!」
階段の陰。
深めのフードを目深に被った少女が、息を潜めて二人を見下ろしていた。
その両脇を、中年護衛と若い護衛が、完全に死角を作るように塞いでいる。
誰の目にも、少女の姿は映らない。
初老の男が、二人を値踏みするように見下ろした。
「お前たちはまだ幼い。よって、私が貴様らの養父となってやることにした。ここに名を書け」
説明すらない。
ただ、分厚い書類とペンが、有無を言わさぬ圧で差し出される。
アルテルナが、顔を引きつらせた。
「はぁ!? なんであんたみたいな知らないおっさんの子供に――」
「言葉を慎め!」
従者が怒鳴る。
「貴族であられる旦那様の温情だぞ! 親なしの泥水すすりには過分な処遇だろうが!」
少女は、フードの奥で息を呑んだ。
孤児を引き取る温情。
そんなものが、このタイミングで湧いて出るはずがない。
ドバドバ鉱山。
二人が命がけで持ち帰った原石の山。
そこから発生する、莫大な配当金と権利。
男の狙いは、それだ。
未成年の孤児の『親』になれば、それだけで財産と権利に手が届く。
感情でも怨恨でもない。
ただ金と権利のためだけに、彼らの人生を踏み潰しに来たのだ。
「……こいつらは、白亜の預かりだ」
地を這うような、店主の低い声が落ちた。
「平民の分際で、貴族の決定に口を挟む気か!」
従者が威圧する。
少女の指先が、冷たく震えた。
貴族の権力。
暴力ではない。
法と身分を使った、もっとも質が悪い略奪。
断れば、不敬罪で何をされるか分からない。
逃げ場を塞ぎ、外堀を埋めてから首を絞める。
これが、力のない者が直面する現実。
だが。
「お言葉ですが」
リヒャルトが、流れるような所作で分厚い帳簿を開いた。
「正式な書類関連は、すでにこちらにございます」
初老の男が、忌々しげに眉をひそめる。
「……何だと?」
「アルテルナ様、ゲッセネス様と当アトリエは、過日『賃貸契約の特約』を結んでおります」
リヒャルトの美しい顔に、底冷えする黒い笑みが浮かんだ。
「ギルドへ預託された彼らの配当金から、毎月自動で当方への家賃の支払いが優先的に発生する絶対契約です。
この契約の解除権は彼ら本人と白亜にしかありません。
第三者への権利譲渡も、禁じております」
男の顔が、一瞬で朱に染まった。
「き、貴様ら……孤児を騙して財産をかすめ取る気か!」
「おや」
リヒャルトが、小首を傾げる。
「それは、どちらのセリフでしょうか」
沈黙が落ちた。
リヒャルトの瞳の奥で、黄金の計算式が冷酷に弾けている。
貴族の威圧など、帳場の前では通用しない。
最初から、すべて見越して外堀を埋めていたのだ。
あの日、二人が「家賃が永遠に変わらないなんて!」と喜んでサインしたあの契約書が、何よりも強固な盾となって権利を守り抜いた。
「チッ……!」
初老の男が、舌打ちをして踵を返す。
「……行くぞ。小賢しい真似を」
従者を引き連れ、乱暴に扉を開けて出ていく。
カラン!
ベルが悲鳴のように鳴り、扉が閉まった。
ロビーに、長いため息がいくつも落ちる。
「……な、なんだったのあいつ……」
アルテルナが、へなへなとその場に座り込む。
ゲッセネスも、強張った顔のまま拳を握りしめていた。
少女は、階段の陰からその光景をじっと見つめていた。
リヒャルトの契約書がなければ、二人は権利を奪われていた。
持っているだけでは、守れない。
正しい権利でも、奪う側は平気で踏み潰しに来る。
名前のある権利は、結局、力がなければ守れない。
(……王座も、きっと同じですわ)
少女の脳裏に、王宮の冷たい玉座が浮かんだ。
血筋があるだけでは、守れない。
奪う側の理屈に、無防備な善意は勝てない。
守るための盾となる書面。
交渉の切り札。
相手の逃げ道を塞ぐ、冷徹な値札。
少女は、フードの奥で小さく、けれど確かな熱を持って息を吐いた。
視線が、帳場の上へ落ちる。
開かれたままの帳簿。
契約書。
数字と条項で相手を縛る、冷たい紙の束。
今までは、難しいものだと思っていた。
大人たちが扱う、遠い世界の道具だと思っていた。
けれど違う。
守るために使うなら、あれもまた剣なのだ。
少女は、初めてはっきりとそう思った。
ただ見ているだけでは足りない。
ただ守られているだけでは、何も守れない。
あの冷たい帳場の論理を。
店主の現実的な処理を。
白亜の生き方を。
そして、守るための契約を。
全部、自分の血肉にしなければならない。
リヒャルトの背中を見つめる。
フードの陰で、少女の指先が小さく、けれど確かに握られた。




