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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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320/337

先手必勝じゃないこともある。


夜も染まり切る頃、領主城の執務室は、ひどく薄暗かった。


窓は開け放たれている。

外から冷たい夜風が吹き込んでいるはずなのに、室内の空気はひどく淀んで、重い。

机の上に無造作に積み上がった報告書から滲み出す、あの土地の腐った臭いのせいだった。


ギルド長は、届いたばかりの報告書を分厚い机へ落とした。


「……再び虫の魔物が湧きました。現在、白亜のポーションで対処中です」


領主は椅子に深く身体を沈めたまま、書類へ視線だけを向ける。


「被害は」


「軽微です。領民への打撃も、今のところ大きくはありません」


「……姫の死体は」


「当然、見つかっておりません」


短いやり取り。

だが、その短さの底に沈むものは、あまりにも重い。


姫殿下の遺体はない。

襲撃地点は、領地へ完全に入る直前の森。

領主側へ責を問うには微妙すぎる位置だ。

領民への被害も軽く、騒ぎを大きくして辺境へ圧をかけるには弱い。


それでも、虫は再び湧いた。


事故ではない。

明確に糸を引いている者がいる。

その事実だけは、もう誰の目にも明らかだった。


執務机の端には、王宮から来ている騎士団長と特使の滞在記録が、重し代わりに置かれている。


姫殿下は死んだことにする。

無駄な捜索は打ち切れ。

責任の所在は曖昧にしたまま、王都へ話を急ぎ持ち帰る。


特使たちが持ってきたのは、そんなふざけた申し伝えだった。


だが領主側は、それを正面からまともに受けていない。


探します。

捜索は継続中です。

対応に追われています。

まずは領民の安全確保を優先します。


そう言って、長引きそうな話し合いはすべて、のらりくらりと突っ撥ねていた。


ギルド長が、うんざりしたように息を吐き出す。


「……まったく、汚いやり方ですね」


「王都の連中が綺麗にやると思ったか?」


「思っておりません。思っておりませんが、ここまで露骨ですと、さすがに気分が悪い」


領主が鼻で笑った、その時だった。


コンコン。


硬いノックの音が、執務室の淀んだ空気を割る。


「緊急です! 失礼します!」


転がり込んできたのは、顔色の悪いギルド職員だった。


領主の眉が、微かに動く。


「……どうした。まさか」


秘密裏に白亜の要塞へ預けた、姫殿下に大事が起きたか。


「ち、違います! 店主からの情報です!」


その一言で、執務室の空気がまたひとつ、物理的に冷えた。


ギルド長が腕を組む。

領主は、椅子の背からゆっくりと身体を起こした。


「言え」


「領主暗殺が進む可能性あり、とのことです」


領主は、眉ひとつ動かさない。


「続けろ」


「それから……王都で起きている極秘情報が」


ギルド職員が、ごくりと乾いた音を立てて唾を呑み込んだ。


「国王が、危篤」


今度は、ギルド長の表情が完全に止まった。


「さらに、王太子が王宮へ戻る馬車の事故に巻き込まれ、重傷。……店主は、明らかな作為が見えると」


しばし、重苦しい沈黙が落ちた。


夜風が一度だけカーテンを揺らし、机の上の紙をかすかに鳴らす。


領主が、ゆっくりと息を吐き出した。


「……呆れた情報網だな」


ギルド長が、ひどく乾いた声で返す。


「白亜を敵に回したら、王都ごと壊滅しますね」


「やめろ。少し見てみたくなる」


「冗談でもやめてください」


領主は、椅子の肘掛けを指先で規則正しく叩いた。


虫の再湧出。

領主暗殺の可能性。

国王危篤。

王太子重傷。


すべてが別々の事象に見えて、その実、ひとつの巨大な濁流に繋がっている。

ここで受け身に回れば、次に喉元を刺されるのは確実に自分たちだ。


「……どうするか」


低く落ちたその声に、ギルド長が即答する。


「魔物は明日中には殲滅完了するでしょう。白亜が動いています」


「だろうな」


「問題はその後です。こちらが立て直す前に、向こうが“次”へ移る」


領主は、そこで不意に口元を歪めた。


獰猛な、肉食獣の笑みだった。


「……でっち上げるか!」


ギルド職員が、素っ頓狂な声を漏らした。


「は?」


領主の鋭い視線が、すっとそちらへ向く。


ギルド職員の背筋が、一瞬で凍りついて伸びた。


「あっ、申し訳ございません」


「いや、いい。今のは俺も少し雑だった」


領主は喉の奥で楽しそうに笑った。

その笑い方を見て、ギルド長が露骨に嫌そうな顔をする。


「……嫌な予感しかしませんが、どういう意味です」


領主は立ち上がった。

窓際まで歩き、領地の広い夜空を見上げる。


「先手必勝じゃないこともある」


振り返る。


「先に殴らせて、首を取る」


ギルド長が、深く眉間を押さえた。


「具体的には」


「王宮からの特使を罠にかける」


ギルド職員の肩が、ぴくりと跳ねた。


領主は机へ戻り、指先で王宮の滞在記録をピン、と弾いた。


「俺は奴の前で、派手に死にかけてやる」


沈黙。


ギルド長は、心底呆れ果てた顔で領主を睨んだ。


「……正気ですか」


「正気だから言っている。

特使が来ている。

騎士団長もいる。

その目の前で俺が暗殺者に狙われれば、誰が怪しいかは嫌でも浮き彫りになる」


「そのために、ご自身が刺される前提なのを、正気と言わないんですよ」


「死ななきゃいい」


「雑です」


「雑でいい。今欲しいのは、王都の綺麗な言い訳を完全に潰す傷だ」


領主の声は軽い。

だが、その眼光だけは微塵も笑っていなかった。


姫様は死んだことにする。

辺境の領地の責任にしたい。

目眩ましの虫も湧かせる。

その上で辺境伯たる俺まで殺しに来たとなれば。

……向こうも、もう言い逃れはしづらい。


ギルド長はしばらく黙り込んでいたが、やがて観念したように長く、深い息を吐いた。


「……騎士団長と特使の滞在中に、こちらが襲撃される形を作る。

その証拠も確実に押さえる。

そういうことですね」


「そうだ」


「囮役が領主ご本人でなければ、もっと素直に頷けたんですが」


「俺以外で、誰が一番美味い餌になる」


「……言い返せないのが腹立たしいですね」


領主は満足げに笑った。


その横で、ギルド職員は真っ青な顔のまま、そっと懐を探る。


特製胃薬を――と思って、手が止まった。


ない。


さっき、白亜の要塞で飲み干したばかりだ。


また買わなきゃ……。


そんな情けない現実が頭をよぎる一方で、分厚い机の向こうでは、もう次の死線の段取りが組まれ始めていた。


虫の魔物の殲滅完了見込み。

特使の動線。

騎士団長の目撃位置。

領主の護衛配置。

どこで襲わせ、どこで潰すか。


白亜の要塞の中では、少女が「この場所を守りたい」と小さな胸の中で震えている。

けれど、その強固な防壁のずっと外側では。


辺境を護る大人たちが、彼女を王宮へ返すための、泥臭く冷徹な戦争の準備を、もう組み始めていた。


先手必勝じゃないこともある。

先に殴らせる。

その代わり、今度は確実に首を取る。


領主の瞳が、薄く、酷薄に笑った。


王都の腐った連中は、まだ知らない。

この辺境で、自分たちが誰に喧嘩を売ったのかを。



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