先手必勝じゃないこともある。
夜も染まり切る頃、領主城の執務室は、ひどく薄暗かった。
窓は開け放たれている。
外から冷たい夜風が吹き込んでいるはずなのに、室内の空気はひどく淀んで、重い。
机の上に無造作に積み上がった報告書から滲み出す、あの土地の腐った臭いのせいだった。
ギルド長は、届いたばかりの報告書を分厚い机へ落とした。
「……再び虫の魔物が湧きました。現在、白亜のポーションで対処中です」
領主は椅子に深く身体を沈めたまま、書類へ視線だけを向ける。
「被害は」
「軽微です。領民への打撃も、今のところ大きくはありません」
「……姫の死体は」
「当然、見つかっておりません」
短いやり取り。
だが、その短さの底に沈むものは、あまりにも重い。
姫殿下の遺体はない。
襲撃地点は、領地へ完全に入る直前の森。
領主側へ責を問うには微妙すぎる位置だ。
領民への被害も軽く、騒ぎを大きくして辺境へ圧をかけるには弱い。
それでも、虫は再び湧いた。
事故ではない。
明確に糸を引いている者がいる。
その事実だけは、もう誰の目にも明らかだった。
執務机の端には、王宮から来ている騎士団長と特使の滞在記録が、重し代わりに置かれている。
姫殿下は死んだことにする。
無駄な捜索は打ち切れ。
責任の所在は曖昧にしたまま、王都へ話を急ぎ持ち帰る。
特使たちが持ってきたのは、そんなふざけた申し伝えだった。
だが領主側は、それを正面からまともに受けていない。
探します。
捜索は継続中です。
対応に追われています。
まずは領民の安全確保を優先します。
そう言って、長引きそうな話し合いはすべて、のらりくらりと突っ撥ねていた。
ギルド長が、うんざりしたように息を吐き出す。
「……まったく、汚いやり方ですね」
「王都の連中が綺麗にやると思ったか?」
「思っておりません。思っておりませんが、ここまで露骨ですと、さすがに気分が悪い」
領主が鼻で笑った、その時だった。
コンコン。
硬いノックの音が、執務室の淀んだ空気を割る。
「緊急です! 失礼します!」
転がり込んできたのは、顔色の悪いギルド職員だった。
領主の眉が、微かに動く。
「……どうした。まさか」
秘密裏に白亜の要塞へ預けた、姫殿下に大事が起きたか。
「ち、違います! 店主からの情報です!」
その一言で、執務室の空気がまたひとつ、物理的に冷えた。
ギルド長が腕を組む。
領主は、椅子の背からゆっくりと身体を起こした。
「言え」
「領主暗殺が進む可能性あり、とのことです」
領主は、眉ひとつ動かさない。
「続けろ」
「それから……王都で起きている極秘情報が」
ギルド職員が、ごくりと乾いた音を立てて唾を呑み込んだ。
「国王が、危篤」
今度は、ギルド長の表情が完全に止まった。
「さらに、王太子が王宮へ戻る馬車の事故に巻き込まれ、重傷。……店主は、明らかな作為が見えると」
しばし、重苦しい沈黙が落ちた。
夜風が一度だけカーテンを揺らし、机の上の紙をかすかに鳴らす。
領主が、ゆっくりと息を吐き出した。
「……呆れた情報網だな」
ギルド長が、ひどく乾いた声で返す。
「白亜を敵に回したら、王都ごと壊滅しますね」
「やめろ。少し見てみたくなる」
「冗談でもやめてください」
領主は、椅子の肘掛けを指先で規則正しく叩いた。
虫の再湧出。
領主暗殺の可能性。
国王危篤。
王太子重傷。
すべてが別々の事象に見えて、その実、ひとつの巨大な濁流に繋がっている。
ここで受け身に回れば、次に喉元を刺されるのは確実に自分たちだ。
「……どうするか」
低く落ちたその声に、ギルド長が即答する。
「魔物は明日中には殲滅完了するでしょう。白亜が動いています」
「だろうな」
「問題はその後です。こちらが立て直す前に、向こうが“次”へ移る」
領主は、そこで不意に口元を歪めた。
獰猛な、肉食獣の笑みだった。
「……でっち上げるか!」
ギルド職員が、素っ頓狂な声を漏らした。
「は?」
領主の鋭い視線が、すっとそちらへ向く。
ギルド職員の背筋が、一瞬で凍りついて伸びた。
「あっ、申し訳ございません」
「いや、いい。今のは俺も少し雑だった」
領主は喉の奥で楽しそうに笑った。
その笑い方を見て、ギルド長が露骨に嫌そうな顔をする。
「……嫌な予感しかしませんが、どういう意味です」
領主は立ち上がった。
窓際まで歩き、領地の広い夜空を見上げる。
「先手必勝じゃないこともある」
振り返る。
「先に殴らせて、首を取る」
ギルド長が、深く眉間を押さえた。
「具体的には」
「王宮からの特使を罠にかける」
ギルド職員の肩が、ぴくりと跳ねた。
領主は机へ戻り、指先で王宮の滞在記録をピン、と弾いた。
「俺は奴の前で、派手に死にかけてやる」
沈黙。
ギルド長は、心底呆れ果てた顔で領主を睨んだ。
「……正気ですか」
「正気だから言っている。
特使が来ている。
騎士団長もいる。
その目の前で俺が暗殺者に狙われれば、誰が怪しいかは嫌でも浮き彫りになる」
「そのために、ご自身が刺される前提なのを、正気と言わないんですよ」
「死ななきゃいい」
「雑です」
「雑でいい。今欲しいのは、王都の綺麗な言い訳を完全に潰す傷だ」
領主の声は軽い。
だが、その眼光だけは微塵も笑っていなかった。
姫様は死んだことにする。
辺境の領地の責任にしたい。
目眩ましの虫も湧かせる。
その上で辺境伯たる俺まで殺しに来たとなれば。
……向こうも、もう言い逃れはしづらい。
ギルド長はしばらく黙り込んでいたが、やがて観念したように長く、深い息を吐いた。
「……騎士団長と特使の滞在中に、こちらが襲撃される形を作る。
その証拠も確実に押さえる。
そういうことですね」
「そうだ」
「囮役が領主ご本人でなければ、もっと素直に頷けたんですが」
「俺以外で、誰が一番美味い餌になる」
「……言い返せないのが腹立たしいですね」
領主は満足げに笑った。
その横で、ギルド職員は真っ青な顔のまま、そっと懐を探る。
特製胃薬を――と思って、手が止まった。
ない。
さっき、白亜の要塞で飲み干したばかりだ。
また買わなきゃ……。
そんな情けない現実が頭をよぎる一方で、分厚い机の向こうでは、もう次の死線の段取りが組まれ始めていた。
虫の魔物の殲滅完了見込み。
特使の動線。
騎士団長の目撃位置。
領主の護衛配置。
どこで襲わせ、どこで潰すか。
白亜の要塞の中では、少女が「この場所を守りたい」と小さな胸の中で震えている。
けれど、その強固な防壁のずっと外側では。
辺境を護る大人たちが、彼女を王宮へ返すための、泥臭く冷徹な戦争の準備を、もう組み始めていた。
先手必勝じゃないこともある。
先に殴らせる。
その代わり、今度は確実に首を取る。
領主の瞳が、薄く、酷薄に笑った。
王都の腐った連中は、まだ知らない。
この辺境で、自分たちが誰に喧嘩を売ったのかを。




