再び湧く虫と、消えた笑顔。
カランッ!!
「店主! 大変だー!」
ギルド職員が転がり込んできた瞬間、アトリエの空気が一変する。
白亜を満たしていた生活音が、すっと引いた。
ゴリ、と鳴っていた店主の乳棒が止まる。
リヒャルトが帳簿から顔を上げる。
メテスの視線が、音もなく扉へ向く。
ラウンジで寛いでいたはずの中年護衛と若い護衛も、何気ない顔のまま、瞬きする間に立ち位置を変えていた。
「……動き出したか」
店主の低い声に、ギルド職員が荒い息のまま頷く。
「殲滅が終わったはずの虫が、また湧いた! 店主のポーションで焼いてるが、あれはおかしい……誰かが動かしてる!」
すっ、と。
レッターが水の入ったコップを差し出す。
ギルド職員は礼を言う暇もなく、それを一気に煽った。
「……領主とギルド長の指示は聞いたか」
「知ってるだろ? 姫様の死体が見つからない。被害も軽微。……向こう、焦ってるんじゃないかって」
店主が、深く息を吐く。
「……頭が痛いな」
リヒャルトの声は静かだった。
「虫の魔物に効果が出ないとなれば、次は直接でしょうね」
メテスが短く言う。
「……領主の首だな」
「暗殺!?」
ギルド職員の声が裏返る。
その時だった。
カラン。
今度は、別の来客が扉を押し開けた。
薄闇の匂いをまとった、闇ギルドの使いだ。
「……姐さんからだ」
店主は無言で手紙を受け取り、封を切る。
ざっと目を走らせたあと、眉間に深い皺を刻んだ。
「……礼を伝えてくれ」
使いが肩を竦める。
「“私の部屋で一晩。それで勘弁してあげるわ”だとよ」
店主の片眉が、ぴくりと上がる。
「……チッ」
「姐さんがそう伝えろって」
「……わかった」
横で、リヒャルトがひどく冷たい目をした。
「……あの女狐め」
使いが薄く笑う。
「言葉に気をつけろよ、若造」
リヒャルトが鼻で笑う。
使いはそれ以上何も言わず、手のひらをひらひら振ってアトリエを出ていった。
残された空気の中で、ギルド職員がごくりと喉を鳴らす。
「……店主。さっきのは……?」
店主は、手紙を折った。
「……王が危篤だ」
誰も、息をしなかった。
「さらに、王太子は王宮へ戻る馬車が事故に巻き込まれ、重傷」
ギルド職員の顔から、一瞬にして血の気が引く。
震える手で懐から金貨を取り出し、無言でリヒャルトへ差し出した。
リヒャルトもまた無言で、特製胃薬とギルド長宛の領収書を渡す。
キュポンッ。
ゴク、ゴク、ゴク。
ぷはッ。
「……俺、ギルド長に伝えてくる。領主が狙われるかもしれない。王都も、めちゃくちゃヤバいって」
丸椅子から飛び上がり、ギルド職員はそのまま全力でアトリエを飛び出していった。
静まり返る白亜の中で。
いつの間にか廊下の陰から歩み出ていた少女の唇が、かすかに震えた。
「……お、お父様と、お兄様が……?」
声が掠れる。
足が震える。
視界が揺れる。
リヒャルトがそっと腕を伸ばし、少女の震える両肩を、ひやりとした手で真っ直ぐに押さえた。
驚くほど静かな、けれど有無を言わせない力だった。
「……これから僕たちは忙しくなります」
落ちた声は、甘くも優しくもない。
低く、静かで、完全に仕事の声だった。
「部屋の鍵を閉めて、大人しく守られていてください」
少女が、はっと顔を上げる。
「……私にも、何か」
けれどその先は、誰も拾わない。
店主はすでに虫の魔物対策のポーションを組み始めていた。
リヒャルトも手を離すと、何事もなかったようにその補佐へ回る。
メテスは入り口の札を【CLOSE】へ返し、無言で大量の素材を運び出し始めた。
レッターは厨房へ戻り、片手でも食べられる料理の仕込みに入っている。
中年護衛と若い護衛も、何も言わない。
だが空気だけが変わる。
何気なく立っていたはずの身体が、もう迎撃の形になっていた。
少女は、震える足をどうにか動かして、階段へ向かう途中、振り返る。
白亜のロビー。
アトリエ。
走る大人たち。
止まらない手。
空気だけが、もう別の場所みたいに切り替わっていた。
そして。
笑顔の消えたリヒャルトを見た。
ドクン、と。
少女の胸が、痛いほど跳ねた。
どうして、この領地が何度も狙われるの。
お父様が危篤?
お兄様が重傷?
お母様は?
侍女たちは?
王宮は、いま、どうなっているの。
何が起きているの。
リヒャルト。
そう、リヒャルトを巻き込んでしまったのは――私?
タタタタタッ!
「大丈夫!?」
「ま、待ってよルナ!」
二階の階段から真っ先に駆け下りてきたのは、アルテルナとゲッセネスだった。
少女は、涙ぐんだままアルテルナへ縋りつく。
アルテルナが、しっかりとその身体を受け止めた。
ゲッセネスはアトリエを見渡し、何が起きたかを一瞬で察する。
「とりあえず、部屋へ行こう」
「……大丈夫。ここは白亜だよ」
アルテルナの声は明るい。
けれど、その腕は強かった。
「……っ」
少女は答えられないまま、ただ小さく頷く。
店主たちは、続報を低い声で捌いている。
白亜の中は忙しい。
誰も立ち止まらない。
誰も取り乱さない。
その中で、少女だけが、娘として震えていた。
そして、その震えの底で。
別の感情が、初めてかすかに形を持ち始める。
守られるだけでは、足りない。
ここにいるだけでは、足りない。
あの暗い森で、死の恐怖に震えて逃げ惑うしかなかった時には、微塵も思わなかった感情。
王女だからではない。
国のため、でもない。
この場所を守りたい。
あの人を、失いたくない。
少女の胸の中で、恋が初めて、政治と繋がった。




