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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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刺繍のハンカチと、ほどけない初恋。


夜の気配が、白亜の要塞を静かに包み込み始めていた。


ラウンジのランプが、ひとつ、またひとつと灯る。

昼間の熱を残していた空気も、白い石壁に沿って少しずつ冷えていく。


二階の客室。


その一室で、少女は小さな布と向き合っていた。


ランプの灯りを頼りに、極細の針を慎重に落とす。

白い木綿の上を、青い糸がひと目ずつ渡っていった。


チク、と。


「……っ」


指先に鋭い痛みが走る。


少女は小さく息を呑み、血の滲んだ指先を慌てて口に含んだ。

布を汚してはいけない。

それだけを胸の中で繰り返して、もう一度、針を持ち直す。


王宮での刺繍の授業は、いつだって完璧を求められた。


金糸や銀糸で、大輪の薔薇を。

王家の紋章を。

寸分違わず、左右対称に、美しく。


そこに込める意味まで、何度も何度も覚えさせられた。


白は、気高さ。

金は、永遠と価値。

青は、誠実。


チューリップは、博愛と思いやり。

白亜の紋章と、それを重ねれば、未来への祝福になる。


あなたと一緒に、光のある方へ。

幸せな人生を歩んでいけますように。


王宮では、そういう意味を、ただ正しく記憶するだけだった。

けれど今、その意味は、少女の指先の中で初めて熱を帯びていた。


膝の上にあるのは、質素な白い布だ。


絹ではない。

白亜の街角で手に入る、丈夫で吸水のいい木綿の生地。


そこへ、白亜の紋章をほんの小さく。

その脇に、開きかけのチューリップをひと輪。

金の糸を、光が差すみたいに控えめに落としていく。


最後に、その下へ。


『R』。


ただの頭文字ではなかった。


彼の名。

彼のいる場所。

その全部を、少女は指先の中でそっと結んでいく。


ひどく幸せだった。


針を進めるたび、胸の奥がきゅうと鳴る。

頬が熱い。


今日、帳場で。


顔に粉をつけた自分へ、彼が伸ばしてきた、あの長くて白い指。

笑いもせず、ただ静かに頬を拭ってくれた、ひやりとした感触。

そのすぐそばで揺れた睫毛まで、思い出そうとすればいくらでも思い出せてしまう。


彼の手元には、いつだって折り目正しいハンカチがあった。

汗を拭き、客の汚れを拭い、帳簿の端を押さえるための、静かで整った布。


それを、自分も贈りたいと思った。


自分のお金で。

自分が選んだ糸で。

自分の手で縫ったものを。


(……喜んで、くださるかしら)


青い糸の先へ、金を重ねる。

その瞬間だけ、少女の口元がふっとやわらいだ。


言葉にする勇気はない。

けれど、せめて布の上にだけは、願っても許される気がした。


あなたのそばに。

あの穏やかな場所に。

いつか、自分も触れられたら。


そんなものが本当にあるのかも知らないまま、少女は祈るみたいに針を進めていた。


「……よし」


最後に糸を切って、少女は小さく息を吐いた。


布の隅に、少しだけ歪な『R』。

その傍らに小さな白亜の紋章と、拙いチューリップ。

金の糸も、ところどころ不揃いに光っている。


王宮の教師が見れば、やり直しを命じるだろう。

均一ではない。

美しくもない。

けれど少女は、その不格好なハンカチを両手で包み込み、そっと胸へ抱きしめた。


布越しに、自分の体温が移る気がした。


翌日。


昼下がりのアトリエには、客足の途切れた静かな時間が落ちていた。


店主はカウンターの奥で乳鉢を回している。

メテスは備蓄庫へ向かった。

レッターは厨房で仕込みの最中だ。


帳場には、リヒャルトがひとりで座っていた。


少女は、エプロンのポケットに手を入れたまま、帳場の前を行ったり来たりしていた。


落ち着かない。

止まれない。

足音を忍ばせているつもりなのに、挙動はひどく不自然だった。


やがて、帳簿の上に落ちていた視線が、すっと持ち上がる。


「……どうかされましたか?」


完璧な営業スマイル。

けれどその声には、ほんの少しだけ、子どもをあやすようなやわらかさが混じっていた。


「あっ、いえ! その……」


少女はびくりと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にした。

心臓が耳の奥でうるさいほど鳴っている。


「……あの、これ」


震える手で、ポケットから小さく畳んだ白い布を取り出す。


「お世話になっている、お礼です」


そこで一度、喉が詰まった。

けれど引き返せない。


「……いつも、その、よくしていただいているので……っ」


昨夜から何度も練習した言い訳だった。

けれど本人を前にすると、声はひどく上ずる。


リヒャルトは、少女の差し出した白い布を見つめた。


その隅に縫い取られた青い文字に、目が留まる。

さらに、その脇に置かれた小さな紋章と、拙いチューリップ。

金の糸の、控えめな光。


「……これは」


「私、お料理はまだ下手ですけれど、刺繍には自信があって……っ。あ、でも、その、少し歪んでしまって……」


早口になった言葉を、リヒャルトは遮らなかった。

ただ、すっと手を伸ばした。


少女の震える指先から、白い布をそっと受け取る。


「……お見事です」


静かな声だった。

澄んでいて、冗談の混じる余地がない。


リヒャルトは、不格好な『R』の文字を、白魚のような指先でゆっくりとなぞった。


その脇に縫い込まれた小さな紋章と、拙いチューリップにも、静かに目を留める。


白。

金。

青。


そこに込められた意味を、見誤るほど彼は無知ではなかった。


「私のためだけに、時間を割いてくださったのですね」


「……っ」


少女の頬が、かっと熱くなった。


その一言だけで。

昨夜、指を刺して痛かったことも。

夜更かしをして眠いことも。

全部、どうでもよくなった。


リヒャルトは、完璧な所作でハンカチを折る。


そして。


ゆっくりと、目を伏せた。


金糸みたいな睫毛が影を落とす。

そのまま、手の中の白い布へ顔を寄せた。


チュ、と。


静かなアトリエに、小さな音が落ちた。


「え……」


少女の呼吸が、完全に止まる。


リヒャルトは、少女自身に触れたわけではない。

少女が作ったハンカチに。

彼女が縫い取った文字に。

小さな紋章と、拙いチューリップに。

ただ静かに、口付けを落としたのだ。


「……大切に、使わせていただきます」


顔を上げたリヒャルトが、微笑む。


完璧で。

穏やかで。

そのくせ、どうしようもなく艶っぽかった。


「あ……う、ぁ……っ」


少女は声にならない声を漏らし、そのまま顔を両手で覆って、逃げるみたいに厨房へ続く短い廊下へ駆け込んでいった。


ぱたぱたと遠ざかる足音。


その背中を見送ってから、リヒャルトの顔から、ゆっくりと笑みが消えた。


「……悪い男だ」


背後から、低い声が降る。


ゴリ、ゴリ、と乳鉢を回し続けていた店主が、手元を見たまま鼻を鳴らした。


「……何のことです?」


リヒャルトが、感情の抜け落ちた声で返す。


「勘違いさせるような真似をするな」


短い。

けれど重かった。


少女がどんな身分で、いずれどこへ帰らなければならないか。

そして、リヒャルト自身が、そちら側へは行かない人間であることも。


互いに分かっている。


リヒャルトは、手の中のハンカチを見つめた。


不格好な青い糸。

小さな紋章。

拙いチューリップ。

王宮の職人なら決して作らない、いびつで、けれど懸命な跡。


「……勘違いなど、させていませんよ」


指先が、縫い目をなぞる。


「ただ……彼女が自分の意思で作った、初めてのものを受け取っただけです」


「……質が悪い」


店主が吐き捨てる。


リヒャルトは、そのハンカチを丁寧に折りたたみ、懐のいちばん深い場所へ仕舞い込んだ。


営業用の布とは違う。

決して客の汚れを拭くことのない、彼だけの場所へ。


「ええ」


その声は静かだった。


「私は、ひどく欲深い商人ですから」


暗い瞳の奥で、何かが静かに燃えていた。


一方。


廊下の陰へ逃げ込んだ少女は、胸を強く押さえたまま、その場へへたり込んでいた。


(……どうしよう)


顔が熱い。

心臓がうるさい。

息を吸うたび、あの小さな音と、伏せられた睫毛の影が何度も何度も蘇る。


彼が。

自分の作ったものに。

口付けをしてくれた。


その事実だけで、頭がいっぱいだった。


どうしよう。

どうしよう。

そんなことばかりが回って、まともに息もできない。


手のひらで頬を押さえる。

けれど熱は少しも引かなかった。


もう、前みたいには戻れない気がした。

胸の奥で、甘くて痛いものだけが、はっきりと残っていた。


少女はまだ知らない。


昨夜、幸せそうに縫い込んだその願いが。


白と金と青に託した未来への祈りが。


この先どれほど長く、自分の奥に残り続けるのかを。



「あなたと一緒に、光り輝く幸せな人生を歩んでいきたい」

未来への祝福を縫い込んだ祈りに、彼は誠実に彼女へは触れず、贈り物そのものへ敬愛を込めた口付けで応えた。

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