白亜は潜入先には向かない(前編)
カラン。
アトリエに、静かにベルの音が響いた。
扉を開けて入ってきたのは、二人の男だった。
一人は、くたびれた外套を着た中年男。
もう一人は、背筋を神経質なほど真っ直ぐに伸ばした若い男。
一見すれば、長旅に疲れた行商人と、その護衛にでも見えるだろう。
だが、白亜の目は誤魔化せない。
二人の視線は、扉をくぐった瞬間から不自然なほど精密に動いていた。
窓の位置、死角、階段への動線、リフトの構造。
そして、厨房と帳場の奥。
靴の裏の泥の落とし方から、剣を持つ手の甲に刻まれた古いタコまで。
カウンターの奥で乳棒を回していた店主が、手元を見たまま短く鼻を鳴らした。
昨日ギルド長と取り決めた、領主の息がかかった極秘の護衛たちだ。
リヒャルトが、帳場から一瞥をくれ、完璧な営業スマイルを浮かべる。
メテスは、無言のまま彼らの歩幅と重心を視線だけで測り、興味を失ったように奥へ引っ込んだ。
「いらっしゃいませ!」
そんな張り詰めた裏の事情など一切知らず、レッターだけが、花が咲いたような笑顔で二人を迎え入れた。
二人は小さく目配せをする。
若い護衛は居住の相談として帳場へ。
くたびれた外套の中年護衛は、ロビーの隅にある、全体を見渡せるテーブル席へ腰を下ろした。
「こちら、どうぞ」
レッターが、湯気の立つ特製茶をそっとテーブルへ置く。
中年護衛は、外套を着たまま硬い息を吐いた。
長く王都で要人警護に就いていた。
だが、上の腐敗に嫌気がさし、家族を残しているこの領地へ志願して戻ってきたばかりだった。
それなのに、いきなり降ってきたのは
『死亡したとされている姫殿下の極秘護衛』という、胃に穴が開きそうな任務である。
(……とにかく、殿下の無事を確認し、不測の事態に備える。気を抜くな)
中年護衛は、テーブルに置かれた特製茶にも手をつけず、様子を静かに観察した。
その時だ。
厨房の奥から、エプロンを着た小柄な少女が、トレイを持ってひょこひょこと出てきた。
「お待たせいたしました! 特製茶と、焼き菓子ですわ!」
たどたどしい手つきで、別の客のテーブルへ注文の品を置く。
客から「ありがとう、お嬢ちゃん」と声をかけられ、少女はぱあっと花が咲くような、見たこともないほど明るい笑顔を向けた。
(……は?)
中年護衛の思考が、完全に停止した。
間違いない。
あの淡い髪と、高貴な顔立ち。
自分が守るべき、姫殿下だ。
だが、王宮で遠目から見ていたあの『氷のように冷たい、無表情の王女』はどこへ行った?
あの王女が。
粉で頬を汚し、エプロン姿で、庶民の客相手に心からの笑顔を向けている。
王宮で最高級のドレスを着ていた時より、ずっと、ずっと人間らしい顔で。
(……どういう、ことだ……?)
「お疲れですか?」
不意に。
横から温かい声がして、中年護衛の肩がびくりと跳ねた。
見れば、レッターが小さなパイを皿に乗せて、テーブルへ置いていた。
「これ、よかったらどうぞ。ちょっと形が不細工ですけど、すごく美味しいですよ」
レッターの裏表のない笑顔。
ふわりと香る、焼きたての匂い。
王都での権力闘争。
終わりの見えない任務。
残してきた家族への申し訳なさ。
張り詰めて、擦り減っていた胸の奥に、その温もりが容赦なく染み込んでいく。
「あ……いや、俺は……」
「腹が減ってりゃ、目は光らねぇぞ」
すれ違いざま。
店主が、中年護衛のテーブルを指先でトン、と一度だけ叩いた。
中年護衛は息を呑んだ。
バレている。
自分たちが何者か、完全に。
店主はただ『任務中でも腹は減るだろう』と、一人の客として扱ったのだ。
中年護衛は震える手で、不細工なパイを口に運んだ。
サクッ、と音を立てて、温かい肉汁が口の中に広がる。
(……美味い)
なんだここは。
どうなっている。
ここは本当に、あの危険な姫殿下を匿う潜入先なのか。
王都の毒と陰謀の中で、常に氷のような仮面を被らされていた姫殿下が。
ここでは、菓子を運んで笑い、年相応の少女の顔で息をしている。
守るべきなのは、王女という名札の方ではなかった。
彼女がこんなにも人間らしく笑えるこの場所ごと、外の腐った連中から守り抜くこと。
それこそが、この要塞での本当の任務なのだと、中年護衛はようやく見誤らなくなった。
一方、真面目そうな若い護衛は、帳場でリヒャルトと向き合っていた。
「長期入居をご希望ですね。では、二階の空き部屋へご案内いたします」
リヒャルトの完璧すぎる案内に従い、若い護衛は階段を上る。
彼は極めて真面目で、任務第一の男だ。
だが、その真面目さゆえに「もし自分が守り切れなかったら」という重圧に押し潰され、ここ数日はまともな睡眠を取れていなかった。
目の下には濃い隈が落ちている。
「こちらのお部屋になります」
案内された部屋を見て、若い護衛は警戒心を限界まで引き上げた。
まずは窓の位置。
逃走経路。
死角の有無。
「……防音は?」
護衛として、周囲の異音を探るための質問だった。
「完璧です」
リヒャルトが、ひどく優しい、見透かすような微笑みを浮かべる。
「外の喧騒も、不要な足音も、すべて遮断されます。……あなたはここで、誰の脅威にも怯えることなく、泥のように眠ることができますよ」
「――っ」
痛いところを突かれ、若い護衛は言葉に詰まった。
寝不足で判断力が鈍っていることまで、見抜かれている。
「では、私はこれで。ごゆるりとお過ごしください」
リヒャルトが退室し、扉が閉まる。
完全な静寂が、部屋を満たした。
本当に、何の音もしない。
外の不穏な気配から、完全に切り離されたような絶対的な安全圏。
若い護衛は、部屋の真ん中に置かれた、見慣れないほど分厚い寝台に近づいた。
「……少しだけ、感触を確かめるだけだ。これも、護衛の任務のうちだ……」
誰に言い訳するでもなく呟き、彼はそっと腰を下ろし――そのまま、吸い込まれるように背中からシーツへ倒れ込んだ。
ぽふんっ。
(なっ……!?)
若い護衛は目を見開いた。
なんだこの、雲に包まれるような、柔らかさと反発力の絶妙なバランスは。
身体の重さが、すべて寝具に吸い取られていく。
張り詰めていた筋肉が、嘘みたいに弛緩していく。
「……あ、ダメだ、これ……」
微かな心地良い香りが鼻腔をくすぐる。
まぶたが、鉛のように重い。
「……これは、任務のためだ。姫殿下を……守る、ための……」
薄れゆく意識の中で、彼は自分に必死に言い聞かせる。
だが、その強がりは五秒も持たなかった。
(……更新できるなら、居住申請……出してもいいかもしれない……)
極秘潜入任務のはずだった。
だが若い護衛はもう、白亜の寝具に完全に陥落していた。
数日ぶりの、深く穏やかな眠りが、あっさりと彼を呑み込んでいく。




