甘い夢と現実の狭間。
アトリエの営業が終わり、重い扉に鍵が下ろされた夜。
仄暗いランプの灯りだけが、帳場の上を淡く照らしていた。
昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返った空間に、白亜の大人たちだけが残っている。
店主は、脱いだ外套を椅子の背に引っかけた。
ギルド長と交わした話の重さが、まだ布地の奥に染みついている気がした。
森での不自然な虫の大量発生。
早すぎた王家の動き。
領主側はすでに、この流れをひっくり返すために、水面下で証拠集めへと動き始めている。
準備が整うまでの間だけ。
もっとも警戒されにくい死角として、白亜の要塞が選ばれた。
彼女は、ここで極秘に預かる。
数日のうちに、領主側の息がかかった護衛も、客を装って少しずつこの要塞へ紛れ込んでくる手筈だった。
店主は、感情で抱え込む人間ではない。
命を拾った。
だから守る。
だが、それと永遠に抱えることは別の話だ。
この預かりは、あくまで準備が整うまでの一時的な措置。
時が来れば、彼女は然るべき場所へ帰す。
それが、あの少女に定められた着地点だった。
本人の願いとは関係なく。
逃げたくても逃げられない構造の中で。
昼間、ギルドから戻った店主が見たのは。
帳場を手伝い、同世代の者たちと並んで飯を食い、
「ここにいたい」と、顔じゅうで願っている少女だった。
硬貨を握りしめていた。
あの一枚で、ここに残れるかもしれないと信じているみたいに。
だが、店主はもう知っている。
彼女がどれほどこの場所を愛そうと。
どれほど真剣に働こうと。
どれほど切実に、帰りたくないと願おうと。
あの少女に、「帰るか帰らないか」を選ぶ権利はない。
だからこそ、あの時。
店主は、ここに置く、とは言わなかった。
残っていい、とも言わなかった。
叶うはずのない未来を、口先だけで与える気はなかった。
ただ。
今この瞬間だけ許された猶予に、ひとつ言葉を落としただけだ。
――楽しそうでなによりだ。
それは祝福ではない。
許可でもない。
今そこにある時間を、今だけのものとして見届けた言葉だった。
「――というわけだ」
店主の低い声が、静かな帳場に落ちた。
「数日のうちに、領主の息がかかった護衛が何人か、身分を偽って客として入る」
メテスが腕を組んだまま、静かに頷く。
レッターは少しだけ目を伏せた。
リヒャルトは完璧な姿勢のまま、手元の帳簿をぱたりと閉じる。
「護衛が来るまでは、彼女を極力表に出さない方がいいでしょうね」
リヒャルトが、淡々と言った。
「今まで通り、厨房か帳場の裏で仕事をさせる。……本人には、どこまで知らせますか?」
「言わなくていい」
店主は即答した。
「聞かれたら誤魔化せ。余計な不安も、余計な希望も持たせる必要はない」
その言い方に、リヒャルトがふっと息だけで笑う。
「……どこの国も、上は綺麗に腐ってますね」
やわらかな声音だった。
だが、そこに混じる毒は澄みきっている。
消される側の理屈を、骨の髄まで知っている人間にしか吐けない言葉だった。
それに反応したのは、メテスだった。
「……リヒャルトは、返り咲きたいのか?」
静かな問いだった。
けれど、芯を真っ直ぐ射抜いてくる。
リヒャルトは一瞬だけ目を丸くし、それから肩を揺らして笑った。
「まさか」
あくまで軽やかに。
あくまで冗談めかして。
「僕は店主の弟子ですよ。将来、この白亜の城が手に入るというのに、なぜわざわざ出ていく必要があるんです?」
「……お前なぁ」
店主が、深く呆れたような声を出す。
だが、その横で。
レッターがぽつりと、ひどく小さな声を零した。
「姫様……今日、すごく幸せそうに笑ってました」
その一言で、場が少しだけ静かになった。
不格好なパイを焼いて。
初めての対価をもらって。
自分の意思で働いて、自分の意思でここにいられるのだと、心から信じていたあの顔。
あの明るさを。
あの安心を。
いずれ、自分たちの手で終わらせなければならない。
レッターはそれがつらかった。
言葉にしきれないまま、ただ目を伏せる。
店主は黙ったまま、卓上に置かれた空のグラスへ一度だけ目を落とした。
リヒャルトの指先が、閉じた帳簿の縁を静かに撫でる。
沈黙が落ちる。
ランプの火が、小さく揺れた。
その静けさを切り裂いたのは、リヒャルトだった。
「……ええ」
低く、よく通る声。
ランプの灯りに照らされた彼の顔には、微かな笑みが張り付いていた。
それがあまりにもやわらかな形をしているからこそ、底の見えない冷たさが、かえって隠しきれずに滲んでいた。
「一時の夢は、甘く、忘れられないものにしてあげましょう」
それが慈悲なのか。
叶わないと知っているからこそ、せめて幸福な記憶を与えるつもりなのか。
それとも。
夜の白亜の要塞。
少女が幸福な夢を見て眠っている、そのすぐ裏側で。
大人たちの思惑が交差する濁流の中、逃れられない終わりまでの時間が、静かに刻まれ始めていた。




