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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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帰りたくないと思う心。


「……いってくる。留守は頼んだぞ」


アトリエの扉の前で、外出用のコートを羽織った店主が短く言った。

向かう先は、冒険者ギルド。先ほどの職員が残していった、不自然な虫の大量発生の裏を取るためだろう。


「はい。道中お気をつけて。あとはすべてお任せください」


リヒャルトが、完璧な礼とともに見送る。


カラン、とベルが鳴り、重い扉が閉まった。

店主の気配が完全に遠ざかった、その次の瞬間。


リヒャルトの完璧な営業スマイルが、すっと形を変えた。

口角だけが意地悪く吊り上がり、氷のように美しい顔に、隠しきれない黒い愉悦が浮かぶ。


「……さて。店主が戻るまで、この白亜は僕の城です」


あまりにも堂々とした乗っ取り宣言に、メテスはこくりと頷いた。

レッターは苦笑し、クリムとルゥは呆れたように大きなため息を吐いた。


一方、アトリエの隅のテーブル席では。


少女は、両手で包み込むようにして、一枚の硬貨をずっと握りしめていた。

先ほど肉包パイを売って得た、自分の人生で初めての稼ぎ。


指先を開いては、冷たい銀色の輝きを確かめ、またぎゅっと握りしめる。

そのたびに、リヒャルトの『お見事です』という美しすぎる微笑みが脳内で再生され、顔が熱くなった。


「……ねえ。さっきから何回見てるのよ、その硬貨」


仮眠から起きてきたアルテルナが、呆れたように横から顔を出した。

後ろでは、ゲッセネスが欠伸を噛み殺しながら笑っている。


「べ、別に……! 見てませんっ!」


顔を真っ赤にして否定し、慌てて硬貨をエプロンのポケットへねじ込もうとする。

だが、焦りすぎて手元が狂い、硬貨はテーブルの上でチャリンと音を立てて転がった。


それを、長い指が、すっと拾い上げる。


「大事にしていただけて光栄です」


「――っ!?」


顔を上げると、いつの間にか帳簿を抱えたリヒャルトが立っていた。

先ほどよりもさらに柔らかい、至近距離での微笑み。


少女は声にならない悲鳴を上げ、顔から火が出そうな勢いで硬貨を受け取った。

アルテルナとゲッセネスは、そろって「あーあ」という顔で肩を竦めている。


「……あの、リヒャルトさん」


少女は、熱を帯びた頬を両手で押さえながら、意を決して顔を上げた。


「私、もっと働きます。ツケを払うために、私にできることはありませんか?」


本気だった。

お金を払えなければ、ここにいられない。


だが、朝の惨劇――割れた皿と、爆発したパイ――を思い返せば、彼女を再び厨房や洗い場に立たせるのは、あまりにも危なっかしい。


リヒャルトは思案するように小首を傾げ、少女の綺麗な、けれど少し粉の残る指先を見た。


「……字は、書けますね?」


帳場の中。


リヒャルトの隣に並んで座らされた少女は、差し出された控えの写しや、在庫の数字の整理を任されていた。


「……素晴らしい。数字の計算も速く、何より字がとても綺麗ですね」


「このくらい、当然ですわ」


少女は少しだけ胸を張り、誇らしげにペンを走らせる。

王宮の厳しい教育が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

リヒャルトの役に立てていることが、どうしようもなく嬉しい。


本人は白亜の役に立てているつもりだった。

けれど、気づけば目はいつも、彼を追っていた。


だが、甘い時間は長くは続かない。


カラン。


来店を知らせるベルが鳴った。


「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用命でしょうか?」


リヒャルトが、客の応対に向かう。

その顔には、先ほどまで少女に向けていたのと同じ、完璧で美しい営業スマイルが張り付いていた。


常連らしい女客が、リヒャルトに微笑み返されただけで、頬を赤くして財布を開いた。

それを見た瞬間、少女の胸の奥がひどくざわついた。


「…………」


ペンを握りしめたまま、無意識に唇が尖る。

なぜか無性に腹が立つ。

あの笑顔は、自分だけに向けられたものだと思っていたのに。


この理不尽な不機嫌さの理由を、彼女はまだ知らない。


やがて客足が落ち着き、リヒャルトが帳簿を閉じる。


「お疲れ様でした。本日の業務はここまでとしましょう」


リヒャルトが、少女が整理した数字を本帳簿へと書き写していく。

少女は、その手元を覗き込んで――はっとした。


帳簿の端。

滞在者ツケ』の項目の隣に、

『帳場手伝い』として、自分の名前が書き込まれていたのだ。


保護されているだけの厄介な居候ではない。

白亜の歯車として、明確に組み込まれた証。


それを見た瞬間、少女は胸の奥がきゅっと締めつけられ、少しだけ泣きそうになってしまった。


客の流れが落ち着いたアトリエ。


メテスが、アトリエのドアの札を『準備中』へ変える。


厨房から、信じられないほど食欲をそそる香りが漂ってきた。


「お待たせしました! 地鶏の香草焼きです!」


レッターが、満面の笑みで大皿を運んでくる。


テーブルには、アルテルナ、ゲッセネス、そして少女が並んで座っていた。

メテスが無言で切り分け、それぞれの皿へ配っていく。


「美味しいっ!」

「これ、お店で出せるレベルだよね」


アルテルナとゲッセネスが、熱々の鶏肉を頬張りながら笑い合う。

少女も一口食べて、その豊かな味わいに目を丸くした。


「王宮って、毎日こんな美味しいお肉とか食べるの?」


ふと、アルテルナが屈託なく聞いてきた。


「……いいえ。こんな風に、笑いながらは食べませんわ」


ぽつり、と。

少女の口から、飾らない本音がこぼれ落ちた。


「お食事は、静かに、優雅に。少しでも音を立てればやり直し。護衛や侍女の目があって……味がしたことなんて、あまりありませんでした」


そこから、堰を切ったように言葉が溢れ出した。


暗殺が怖いだけじゃない。

王宮へ戻れば、またすべてが決められる。

笑い方も、食べ方も、交友関係も、息の仕方まで。

失敗すれば恥とされ、常に完璧な王女という記号であることを求められる。


「……でも、ここでは。お皿を割ったら怒られるだけ。粉を被ったら笑われるだけ」


少女は、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。


「それが、どれほど……息がしやすいか」


パッと顔を上げる。


「ルナさん、ネスさん。私を助けてくれてありがとう」


アルテルナとゲッセネスが、そろって目を瞬いた。


あの泥と羽音の地獄から引きずり出してくれたこと。

白亜へ連れてきてくれたこと。

一人にしないよう、眠い目をこすりながら側についていてくれたこと。


その全部が、今さらみたいに胸へ押し寄せてきたのだ。


「……い、いまさら!?」

「……そこ、ちゃんと言えるんだ」


アルテルナが照れ隠しみたいに声を上げ、ゲッセネスが少しだけ目を細める。


少女は、ぎゅっと握っていた手の力を少しだけ抜いた。

礼を言えたことで、胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少しほどけた気がした。


だからだろうか。

喉の奥に引っかかっていた本音まで、今にも零れ落ちそうになる。


アルテルナとゲッセネスは、食事の手を止め、真顔でその言葉を聞いていた。


「……戻りたくないの?」


アルテルナが、軽口みたいな顔のまま聞いた。


「それは……」


少女は、答えられない。


「ここにいたいなら、そう思っててもいいでしょ」


ゲッセネスが静かに言った。


その言葉が、少女の胸の奥に深く、深く刺さった。


――帰りたくない。


少女は心の中で、初めてはっきりと願った。

王宮という冷たい盤面になんて戻りたくない。

私は、ここにいたい。


そう思った瞬間、視線は自然と帳場の方へ流れていた。


カラン。


その時、重い扉が開いた。

ギルドでの情報収集を終えた店主が帰還したのだ。


リヒャルトが即座に「僕の城」の空気を消し去り、何事もなかったかのように店主の弟子の顔へ戻る。


外套を脱ぐ手つきが、いつもよりわずかに重い。

それだけで、外で軽くない話を回してきたのだと分かった。


店主は、テーブルの空気と、切実に「ここにいたい」と願う少女の顔を、静かに見下ろした。


「あ、あの……!」


少女が、弾かれたように立ち上がる。


ここに置いてほしい。自分も働くから。


そう口を開きかけた、その瞬間。


緊張で手元が狂い、少女の指がテーブルの上のグラスにクリーンヒットした。


ガシャアァァァンッ!!


鋭い粉砕音が、アトリエに響いた。

水飛沫が跳ね、ガラスの破片が床に散らばった。


「……あ」

「言ったそばから!!」

「ほらー、またツケが増えたー」


アルテルナとゲッセネスが盛大に頭を抱え、メテスが無言で掃除用具を取りに行く。


「急がないで、怪我をすると危ないですよ」


レッターが慌てて声をかける。


少女は顔を真っ赤にして、

「ごめんなさいっ」と半泣きで床の片付けに這いつくばった。


店主は、そんなひどく騒がしく、滑稽で、温かい光景をしばらく無言で見つめていた。


やがて、ゆっくりと歩み寄る。

破片を拾い集める少女の頭に、大きな手をぽん、と乗せた。


「……楽しそうでなによりだ」


ぶっきらぼうに、ただ一言。

それだけを言い残し、店主は奥の部屋へと歩き去っていった。


しん、と静まるアトリエ。


少女は、撫でられた熱の残る頭を押さえたまま、ぱちぱちと瞬きをした。


それから、胸の奥で何かがほどけたみたいに、小さく笑った。


「……ふふっ」


やがてそれは、明るい笑い声に変わった。


小さな要塞の昼下がり。

その明るさに、終わりがあることも知らないまま。

少女の心からの笑い声が、温かい匂いと一緒に、どこまでも明るく響いていた。


その日の夜。


部屋の明かりを落とした後。

少女は、寝台の上でそっとポケットから硬貨を取り出した。


月明かりに照らされた、一枚の銀貨。

初めて自分で稼いだ、労働の対価。


少女はそれを、王宮にあるどんな高価な宝石よりも、どんな美しい装飾品よりも大切に思えた。


この硬貨を積み重ねて、リヒャルトの役に立って、この場所にふさわしい自分になろう。


そんな途方もない夢を抱きながら、そっと枕の下の奥深くにしまい込む。


それがいつまで手の中に残るのかも知らないまま。


白亜の要塞の、ふかふかの寝台の上で。


少女は、初めて心からの安心に包まれながら、静かな眠りへと落ちていった。



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