不格好なパイと、初めての対価。
ガシャアァァァンッ!!
「きゃーっ!?」
白亜の厨房に、けたたましい音が響き渡った。
「……嘘でしょ。ほんとにやらせてる……」
ロビーの隅から顔を覗かせたアルテルナが、戦慄したように呟く。
「そりゃあ……ここ、白亜の要塞だからね」
隣でゲッセネスが、呆れと納得が半分ずつ混ざったような顔で乾いた笑いを漏らした。
厨房の中では、洗い立ての清潔な服の上に、エプロンを着せられた少女が、泡だらけの手で割れた皿を見下ろして固まっていた。
「ツケが払えないなら働け」。
店主のあの言葉は、冗談でも比喩でもなかった。
王家の姫君だろうが関係ない。
そのひと言は、そのまま現実になったのだ。
ぼふんっ!!
「ひゃあっ! パ、パイが爆発しましたわ!?」
今度はオーブンの方から、小麦粉の煙が景気良く吹き出した。
少女が慌てて駆け寄り、すすだらけになりながら扉を開ける。
「あははっ! すごく頑張ってますね!」
隣の調理台で手際よく仕込みをしていたレッターが、花が咲いたような笑顔で言った。
「ち、違います! 私、真剣にやってますっ!」
顔を真っ赤にして抗議する少女に、大量の素材を軽々と抱えて入ってきたメテスが、無表情のままこくりと頷いた。
「ああ。よく頑張っている」
真っ直ぐ肯定されて、少女はさらに顔を赤くした。
慌てて泡だらけの皿と格闘を再開する。
不器用で、要領が悪くて、失敗ばかり。
けれど、その横顔は不思議なほど生き生きとしていた。
失敗しても命は狙われない。
怒られるのは、皿を割ったことや、生地を駄目にしたことに対してだけ。
それが彼女にとって、どれほど息のしやすい空間であることか。
それを見届けてから、アルテルナが首を傾げた。
「……で。私たち、どうする?」
「どうするって?」
「お前たちは寝ろ」
背後から、低い声が降ってきた。
いつの間にか立っていた店主に、アルテルナとゲッセネスの肩が揃って跳ねる。
「さっさと休め」
ぶっきらぼうだが、明確な気遣いだった。
そこへ、完璧な営業スマイルを張り付けたリヒャルトが、どこからともなく小瓶を差し出してくる。
「泥眠ポーション、いりますか? 今なら少しお安く――」
「「いや、要らないからね!?」」
二人の声が見事にハモり、そのまま逃げるように二階の自室へと駆け上がっていった。
カラン……。
ロビーが活気で満ちていた頃、ふらふらとした足取りでギルド職員が魔導リフトを降りてきた。
「……寝坊した。信じられないくらい、ベッドが気持ち良すぎた……」
死んだ魚のようだった目は、極上の睡眠によっていくらか生気を取り戻している。
だが、その顔には「社会人としての絶望」が張り付いていた。
「おいおい、ギルド行かなくていいのか?」
カウンターでコーヒーを飲んでいたベテラン冒険者が、ニヤニヤしながら声をかける。
「……ここまで派手に寝坊したら、もはやギリギリまで遅刻を粘る!!」
職員は、謎の覚悟を決めた顔でロビーのソファにドスッと腰を下ろした。
急にダメっ子と化した有能なギルド職員の姿に、ロビーで寛いでいた居住者たちが一斉に鼻で笑う。
「あはは! お前、普段働き過ぎなんだよ!」
「たまには休め休め!」
「……よかったら、どうぞ」
そこへ、レッターが小皿を運んできた。
乗っていたのは、ところどころ焦げ目がつき、中身がはみ出しそうになっている、ひどく不細工な肉包パイだった。
「なにこれ? レッターくんの失敗作?」
職員が首を傾げながら、おそるおそるそれを口に運ぶ。
サクッ。
「……ん? あれ、見た目は悪いのに、味は全然悪くない! むしろ美味しい!」
「良かったです」
レッターがにっこり笑うと、背後からリヒャルトが冷たい笑みを浮かべて口を挟んだ。
「ええ。二度と食べられないかもしれない幸福に、せいぜい感謝してください」
「え、なにその言い方。……あっ! まさか毒入り!?」
職員が顔を青くした、その瞬間。
「ち、違いますからね!? 毒なんて入れてませんっ!」
厨房の奥から、エプロン姿の小柄な影が、粉だらけの顔を出して必死に抗議した。
「……えっ?」
ギルド職員の動きが、完全にフリーズした。
瞬きを二回。
厨房の奥の顔と、自分の記憶の中にある超重要人物の顔を照らし合わせる。
(ま・だ・い・るーーーーーーっ!!!!!!)
王宮が血眼になって探している爆弾が、よりによってエプロン姿でパイを焼いている。
職員の心臓が、早鐘を打つどころか悲鳴を上げた。
彼は無言のまま立ち上がり、震える手で懐を探り、スッ……と、金貨を一枚、リヒャルトの前のカウンターに滑らせた。
「……毎度ありがとうございます」
リヒャルトが、金貨を指の間に挟んで完璧な笑顔を向ける。
「……領収書の宛名は」
職員の声は、ひどく掠れていた。
「ギルド長へ、ですね」
コクリ。
職員が、幽鬼のように頷く。
「……後で、ギルドへ行くと伝えろ」
不意に。
カウンターの奥で乳棒を回していた店主が、手元を見たまま低く言った。
その一言で。
賑やかだったアトリエの空気が、一瞬だけ、完全に凍りついた。
カップを置く音も、笑い声も、すべてがぴたりと止まる。
だが、その凍りつきも長くは続かなかった。
「んじゃ、俺は仕事行くわー!」
居住者の一人が、何事もなかったかのように伸びをして立ち上がる。
それを合図に、止まっていた空気が再び解け、いつもの日常の喧騒が戻ってきた。
誰も、店主の言葉に干渉しない。
深入りしない。
それがこの場所の暗黙のルールだ。
「行ってきまーす!」
「おう、怪我すんなよ!」
カラン、カランとベルを鳴らし、住人たちが次々と朝の街へ出ていく。
「……はぁ。今日も頑張ろ」
ギルド職員が、パーン! と両頬を強く打ち、気合いを込めた。
どれだけ恐ろしい秘密を抱え込もうと、現場の人間は目の前の仕事を回すしかないのだ。
「レッターくん! 飴玉一袋お願い!」
「はいっ!」
「あと、その不細工な肉包パイも、あるだけ全部ね!」
職員は会計を済ませた。
キュポンッ!
ゴク、ゴク、ゴク。
ぷはッ!!
「いってきます!」
足早にアトリエを出ていった。
その後ろ姿は、来た時よりもずっと力強く、腹が括れていた。
ロビーの波が引いた後。
「……はい。こちらをどうぞ」
リヒャルトが、厨房にいた少女の元へ歩み寄り、その掌の上に硬貨を乗せた。
ずしり、とした重み。
肉包パイの売上だった。
「え……」
少女は、自分の掌に乗った冷たい硬貨を、呆然と見つめた。
それは、税金として吸い上げたものでも、王族として与えられた小遣いでもない。
自分の手で粉にまみれ、不格好ながらも作り上げたものが、誰かに「美味しい」と認められ、対価として支払われた。
彼女が自分の手で稼いだ、人生で初めての硬貨だった。
じわ、と。
瞳の奥が熱くなる。
胸の奥から湧き上がる感動で、硬貨を握りしめる指先が小さく震えた。
そんな彼女を見て、リヒャルトがにこりと、営業用ではない本物の微笑みを浮かべた。
「初めての稼ぎですね。お見事です」
「……っ!」
その美しすぎる微笑みに、少女の顔が一瞬にして林檎のように真っ赤に染まる。
感動と熱で、少女の頭は真っ白になった。
「……サボってないで働け」
奥から飛んできた店主のぶっきらぼうな声に、少女はビクッと肩を揺らし、慌てて「は、はいっ!」とエプロンを翻して洗い場へ戻っていく。
白亜の要塞の、新しくて騒がしい日常が、今日も始まっていく。
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