白亜の朝は、請求書と共に。
朝の光が、白い石壁をやわらかく撫でていた。
目覚めは、信じられないほど穏やかだった。
用意された寝台が、身体をやさしく包み込んでいる。
王宮の寝具とは違うのに、身を沈めるたび、張りつめていたものが少しずつほどけていく。
少女は、ゆっくりと瞬きをした。
耳を澄ませても、不快な羽音はない。
誰かが忍び寄るような気配もない。
代わりに、階下から微かに漂ってくる美味しそうな香りと、誰かが立ち働く穏やかな生活音だけが、部屋を満たしていた。
「……あ。起きた?」
横から、ひどく気安い声が降ってきた。
見れば、寝台のすぐ隣で、アルテルナが大きな欠伸を噛み殺している。
その横では、ゲッセネスが椅子に座ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいた。
どうやら、自分を一人にしないよう、ずっと側にいてくれたらしい。
「水、飲む? まだ身体重いでしょ」
アルテルナが、水差しから無造作にコップへ水を注ぐ。
そこに、王宮の侍女たちが見せるような恭しさも、怯えもなかった。
その少し雑な優しさに、少女はコップを持つ指先の力を、ほんの少しだけ抜いた。
「……ありがとう」
両手で受け取って、喉を潤す。
冷たすぎない水が、からからだった身体に静かに落ちていった。
コン、コン。
その時、絵に描いたように整ったノックの音が響いた。
「失礼いたします。お目覚めですか」
扉が開き、リヒャルトが入ってくる。
少女の心臓がトクン、と ひとつ大きく跳ねた。
リヒャルトは、完璧な営業スマイルを浮かべていた。
手には、小さな瓶がひとつ。
「まずはこちらを。朝の微回復です。空腹でも負担の少ないものを選んであります」
そう言って差し出された小瓶を、少女はおそるおそる受け取った。
「……飲めば、もう少し身体が楽になりますよ」
柔らかな声に促され、少女はこくりと喉を鳴らした。
やさしい効き目のポーションが、冷えた身体の内側へ静かに広がっていく。
リヒャルトは、それを最後まで見届けてから、流れるような所作で一枚の紙を差し出した。
「滞在中の治療費、食費、雑費。ならびに『極秘VIPルーム』の宿泊費のツケでございます。お支払いは後日、必ず」
「えっ?」
少女が目を丸くする。
「この守銭奴! 怪我人相手に朝から何やってんのよ!」
「……リヒャルトさん、本当にブレないなぁ」
アルテルナがすかさず噛みつき、ゲッセネスが呆れたように苦笑する。
王族に向かって、当たり前みたいに差し出されたツケの請求書。
少女はしばらくそれを見つめ、
それから、ふっと肩の奥の力を抜いた。
(……ここは、そういう場所なんだ)
王宮での「無償の優しさ」には、必ず裏があった。
派閥の思惑、政略の道具、あるいは毒。
何も要求されないことほど、恐ろしいことはない。
けれど、白亜の優しさには、すべて明確な値札がついている。
金を取る。対価を求める。
それは裏を返せば、対価を払う客である限り、簡単には切り捨てないという約束でもあった。
(払えるなら……ここに、いてもいいのよね)
そう気づいた直後、目の前の美しい男の顔が再び熱の理由みたいに浮かんで、少女はますます俯いた。
「どうかされましたか?」
瞳が合い、リヒャルトが小首を傾げて柔らかく微笑む。
胸の鼓動が、今度は羽虫の恐怖とはまるで違う熱で、落ち着かなく跳ねた。
「い、いえ! 必ず、お支払いしますっ!」
顔を真っ赤にして頷く少女に、リヒャルトは満足げに微笑んで一礼し、部屋を後にした。
入れ違うように、朝食のトレイを持ったレッターと、その後ろからメテスが入ってくる。
「おはようございます! 朝ごはん、持ってきました」
花が咲いたような笑顔と一緒に差し出されたのは、胃に負担をかけないよう煮込まれた具沢山のスープだった。
湯気がやさしく立ちのぼり、鼻先をくすぐる。
「お昼は地鶏の香草焼きを作りますね」
その横で、メテスが無言のまま硬めのパンをひとつ置いていく。
自分の分から抜いたのだと、なんとなく分かった。
「もっと食べろ」と言われた気がした。
少女は、そっとスプーンを入れた。
一口飲む。
じんわりと温かいものが、身体の隅々まで染み渡っていく。
王宮の皿の方が、きっと値は張る。
それでも、今口にしている温かさの方が、ずっと身体の奥まで届いた。
レッター特製の朝食は、信じられないほど美味しかった。
食事を進めながら、脳裏にあの日の冷たい記憶がかすめた。
眠っていたはずの自分。
何者かに連れ出され、あの泥と羽音の地獄へ放り込まれたこと。
ゾクリ、と背中が冷える。
王宮へ帰れば、またあの冷たい盤面の上に引きずり出される。
自分が「生きている」こと自体が、誰かの都合を悪くする。
けれど。
今ここにいる自分は、確かに息をして、温かいものを食べて、ツケを押しつけられて、笑い声の中に座っている。
ここでは、肩に乗っていた重さが少しだけ薄い。
息を吸ってもいい気がした。
そのことに気づいた瞬間、
少女の中で「今すぐ帰らなければ」という焦りが、静かに形を変えた。
そこへ。
「……起きたか」
低い声とともに、店主が部屋へ入ってきた。
部屋の空気が、一瞬だけぴり、と引き締まる。
少女はスープの匙を置き、姿勢を正した。
この要塞の絶対的な主。
彼に追い出されれば、自分はまた、あの冷たい世界へ戻らなければならない。
「あの……!」
少女は、祈るような、すがるような目で店主を見上げた。
「私、必ず払います。だから……もう少しだけ、ここに置いてください」
震える声での懇願。
店主は、少女の真っ直ぐな瞳をしばらく無言で見下ろしていた。
やがて、短く鼻を鳴らす。
「……ツケが払えねぇなら、皿洗いでもして働け」
ぶっきらぼうにそれだけ言い放ち、店主は背を向けて出ていった。
しん、と静まり返る部屋。
数秒の空白のあと、アルテルナとゲッセネスが同時に頭を抱えた。
「ちょっと! 王族に皿洗いさせる気!? あの店主!!」
「……本当に、誰が相手でも通常営業だね……」
二人の悲鳴みたいなツッコミを聞いて。
少女は、思わず吹き出した。
「ふふっ……あはははっ!」
声を立てて笑うなんて、いつぶりだろう。
笑い方が正しいかどうかも、誰の目があるかも、その瞬間だけは綺麗に抜け落ちていた。
護衛も侍女もいない、小さな部屋で。
少女の心からの笑い声が、温かいスープの匂いと一緒に、どこまでも明るく響いていた。




