闇に堕ちた者共が伸ばした手。
西の森は、静まり返っていた。
羽音の地獄が去ったあとに残ったのは、泥と疲労と、剣を握る手の鈍い震えだけだった。
「……見つからない、だと?」
騎士団長が、血走った目で部下を睨みつける。
泥にまみれた銀の鎧。眠りも取らず森をひっくり返してきた顔には、焦燥と疲労がこびりついていた。
「申し訳ありません!
魔術の痕跡も、遺留品も、何一つ……」
「探せ!!
根の裏から泥の底まで、這いつくばってでも探すんだ!!」
騎士団長が怒号を飛ばす。
そこへ。
「――そこまでで結構です、騎士団長殿」
泥濘の森にはおよそ似つかわしくない、手入れの行き届いた馬蹄の音と、冷ややかな声が響いた。
王宮からの使いだった。
汚れ一つない外套を羽織った特使が、馬の上から見下ろすように冷酷な言葉を落とす。
「王宮からの決定です。
これ以上の捜索は無用。……姫殿下は、
虫の魔物に襲われ死亡したものとして扱われます」
風が、止まった。
騎士団長が、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりの音を立てる。
「……馬鹿なことを言うな!!」
泥に塗れた騎士団長が、王宮の特使へ向かって吠えた。
「まだ遺体すら見つかっていないのだぞ!
生きている可能性が万に一つでもある限り、我々騎士団が剣を収めることなどあり得ない!!
そもそも、なぜ殿下がこのような辺境の視察などへ――」
「決定事項です」
特使は、感情の欠片もない声でそれを遮った。
そして、懐から重々しい蝋封が施された一通の書簡を取り出し、騎士団長へ差し出す。
「直ちに兵を退き、この書簡をこの地の領主へお渡しください」
騎士団長は、その書簡を受け取り――息を呑んだ。
(……早すぎる)
姫殿下が行方不明になってから、まだ数日。
王都へ通信魔導具や急馬を走らせたとしても、事態を把握して正式な書簡がここまで届くには、どう計算しても時間が合わない。
最初から、待っていたみたいだった。
騎士団長の手の中で、書簡がミシリと嫌な音を立てた。
脳裏に、氷のような推測がよぎる。
殿下の死は、偶然ではない。
この森で虫の餌食になるという結果が、最初から盤面の上に置かれていたのだ。
「……総員、撤退! 領主の城へ向かうぞ!!」
吐き捨てるような号令が、虚しく森に響き渡った。
同時刻。領主の城、執務室。
分厚い机を挟み、領主とギルド長は、静かに報告書を突き合わせていた。
「……以上が、西の森および南の街道における、被害の全容です」
ギルド長が、最後の報告書を机に置いた。
領主は微かに眉を動かしただけだった。
「……死者が、これだけか?」
「はい。信じがたいことですが」
ギルド長が、疲れた顔の奥で苦笑する。
「負傷者の数は膨大ですが、致命傷を負った者はみな一命を取り留めました。街の防衛も崩れておらず、民の間にパニックは起きていません。虫の掃討も、残党狩りの段階に入っています」
本来なら街道は死屍累々になっていておかしくない。
それを、崩壊の一歩手前で踏みとどまらせている。
「……白亜の連中か」
領主が、ぽつりとこぼした。
「ええ。店主の劇薬と、帳場を預かる男の指揮で、有志の者たちが現場をこじ開けました。金は取る。ですが、命だけはこぼしません」
「ふん。相変わらず、食えない奴らだ」
領主の口元が、わずかに吊り上がった。
怒りではない。盤面の上の不確定要素がもたらした最高の結果への、確かな安堵がそこにあった。
そこへ、慌ただしいノックの音が響き、側近が駆け込んできた。
「申し上げます! 王宮からの特使と、騎士団長殿がこちらへ向かっております!」
側近の切羽詰まった声。
だが、領主とギルド長は顔を見合わせ……同時に、ふっと息を漏らした。
「……あまりに手回しが良すぎる。姫殿下の行方不明も、この特使も、最初からセットだったわけですか」
ギルド長が、氷のような目で応じる。
「私に護衛失敗の烙印を押し、鉱山の利権ごと代官をすげ替える。……街が崩れ、民がどれだけ死のうが、上の連中には『必要なコスト』でしかなかったのだろうな」
「綺麗に腐っていますね」
「それが上に立つ者たちの現実主義だ」
領主は、冷たく吐き捨てた。
そしてゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。
夕闇に沈みゆく街の向こう。ひっそりと、だが強固に建つ白亜の要塞の方向を。
「……だが、上の連中の計算は狂った。現場の被害が軽微に収まりすぎた。あの白亜の連中が、上の思惑など知ったことかと、利益のために目の前の命を根こそぎ拾い上げてしまったからな」
今、上の連中が死んでいてほしいと願う最大の起爆剤が、どこで、誰に匿われているのか。
領主にも知る由はない。
だが、盤面はもう、王宮の連中が思うほど素直には進んでいなかった。
「さて」
領主の声は、静かに低く、けれど確かな反撃の熱を帯びていた。
「闇に堕ちた者共が伸ばした手を……どう料理するか」




