白亜は潜入先には向かない(後編)
サクッ。
くたびれた外套の中年護衛は、最後のひと口になった肉包パイを食べ終え、特製茶を飲むと、ほう、と長く熱い息を吐き出した。
冷え切っていた胃の腑が、温かい肉汁と特製茶によってじんわりと満たされていく。
中年護衛は、茶器の陰から、様子を静かに観察し続けていた。
「ああっ、ごめんなさい! またお皿を……!」
「怪我はないか。破片は俺が片付ける」
「……お見事です。皿一枚分、今月の請求に足しておきますね」
少女が慌ててしゃがみ込み、無表情の少年――メテスが手早く箒を動かし、美しい帳場係――リヒャルトが容赦なく冷酷な宣告を下す。
「ひどいですわ!」
抗議している。
なのに、その顔には悲壮感など欠片もない。
中年護衛は、その騒がしくも温かい光景に、思わず小さく吹き出した。
「……あの、すみません」
中年護衛は、空になった皿を下げに来たレッターを呼び止めた。
「はい? お茶のお代わりですか?」
「いや……その」
歴戦の護衛であるはずの中年護衛は、ひどく気まずそうに視線を泳がせ、やがて絞り出すように言った。
「ここの居住区……家族連れでも、入居できるのか……?」
極秘潜入任務の開始から、わずか一時間。
中年護衛はもう、白亜の要塞に半ば住み着く未来を考えていた。
――それから、数時間後。
夕闇が白亜の街を包み始めた頃。
「――はっ!!」
二階の客室で、神経質そうな若い護衛が弾かれたように跳ね起きた。
窓の外を見る。
空は、すでに赤みを帯びた夕闇に染まっていた。
「な……寝た!? 俺は、任務中に、あんな無防備に爆睡を……!?」
血の気が引く。
見知らぬ天井。
圧倒的に心地よいシーツの感触。
疲労困憊だったとはいえ、護衛対象の安全確認もそこそこに、数時間も泥のように眠りこけてしまったのだ。
護衛として、万死に値する大失態である。
(殿下は!? 一階は今どうなっている!?)
若い護衛は慌てて剣を掴み、音を殺して部屋を飛び出した。
襲撃を受けていたら。
もし、相棒がすでに倒れていたら。
最悪の想像で心臓を早鐘のように打たせながら、階段を駆け下りる。
だが。
一階のロビーへ繋がる扉を開けた瞬間、若い護衛の鼻腔を強烈に殴りつけたのは、血の匂いではなく――暴力的なまでに食欲をそそる、煮込み料理の匂いだった。
「おお、起きたか。早いとこ顔と手を洗ってこい。夕飯にするぞ」
「……は?」
ロビーのテーブル席。
そこには、相棒であるはずの中年護衛が、すでに外套を脱ぎ捨て、くつろぎきった顔で特製茶を飲んでいた。
その目の前には、湯気を立てる極厚の肉の煮込みと、山盛りのパン、そして不細工なパイが並んでいる。
「お前……なにを……」
「腹が減っては力も出ないぞ」
中年護衛が、妙に落ち着いた顔で特製茶を啜る。
「殿下は無事だ。笑ってる。店の連中も全部わかった上で受け入れてる。俺たちが張るにも、ここ以上に都合のいい場所はない。……飯はうまいし、眠れるしな」
「眠れるのは同意だが……ふざけるな!
俺たちは遊びに来たわけじゃ――」
ぐきゅるるるるるる。
若い護衛の怒号を遮るように、数日まともに食事を取っていなかった彼の腹の虫が、アトリエ中に響き渡るほど盛大に鳴いた。
「ぷっ……あはははっ!」
カウンターの奥から、エプロン姿の少女
――姫殿下その人が、腹を抱えて吹き出す。
若い護衛の顔が、一瞬にして茹でダコみたいに真っ赤に染まった。
よりによって、護衛対象である王族の目の前で、こんな大恥を晒すなんて。
「……ほらよ」
呆然と立ち尽くす若い護衛の目の前に、店主が無造作に深皿を置いた。
ごろごろとした野菜と、トロトロに煮込まれた肉。
立ち昇る湯気が、抗いがたい引力で若い護衛の胃袋を掴んで揺さぶる。
「冷める前に食え。寝起きの空きっ腹には沁みるぞ」
「……っ」
若い護衛は震える手でスプーンを握り、煮込みをすくって口へ運んだ。
その瞬間。
張り詰めていた彼の内側で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
美味い。
信じられないほど美味い。
温かくて、優しくて、五臓六腑の隅々にまで染み渡るような味だった。
「……あ、ああ……」
若い護衛の目から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
極度の緊張とプレッシャー。
終わりの見えない恐怖。
そのすべてが、極上の睡眠とこの温かい食事によって、強制的に溶かされていく。
「……もう、無理だ。俺は……ここで、休む……」
若い護衛はスプーンを握りしめたまま、泣きながら肉を頬張った。
隣で中年護衛が「な? 言った通りだろ」と笑いながら、特製茶を啜っている。
その夜。
アトリエの営業が終わり、住人たちがそれぞれの部屋へ引き上げた後。
帳場のカウンターでは、二人の護衛が、静かに書類へ向かっていた。
白亜では、飲食代も家賃も、基本は多めの前払いだ。
月単位の入居が前提で、差額が出れば後から返金する。
その上で、居住者には預金からの自動引き落としも用意されている。
中年護衛も、若い護衛も、そこに何の疑いも抱かなかった。
むしろ当然のような顔で、申請書の隣へ自分の名を書き連ねていく。
さらさら、と。
静かな帳場に、インクの音だけが響いた。
「……確かに」
リヒャルトが、その紙を恭しく受け取った。
完璧だった営業スマイルの奥で、底知れない真っ黒な笑顔が、爛漫と輝く。
「……末永く、白亜と共に」
中年護衛は、なぜか少しだけ背筋が寒くなった。
だが、若い護衛はそこまで気にした様子もなく、受け取った鍵を指先で弄びながら、すでに階段とロビーの位置関係へ視線を走らせている。
「見張りは俺が残る。あんたは先に休め」
真面目な声だった。
食後の温もりが残っていても、任務そのものを忘れたわけではないらしい。
中年護衛は一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……悪い。頼んだぞ」
与えられた自室へ向かうその背中は、王都を発ってから初めて見るほど、わずかに力が抜けていた。
奥で片付けをしていた店主が、そのやり取りに鼻を鳴らした。
「……食って寝る場所が快適なのは、良いことだ」
「ええ」
リヒャルトは、受け取った紙を美しく揃えながら、満足げに微笑んだ。
「おかげで彼らは、『領主の命令』よりも先に、『この場所の快適な生活』を守るために剣を振るう、最高の番犬になるでしょう。……姫殿下にとっても、これ以上ないほど強固な盾です」
極秘の潜入先としては、あまりにも不向き。
だが、一度その居心地の良さを知ってしまえば、決して離れられない。
白亜の要塞は、そうやって静かに、けれど確実に、人間を呑み込んでいく。
リヒャルトは紙を仕舞い込み、満足げに帳簿の明かりを落とした。
また二人、この白亜に「帰る場所」を見つけた大人たちが増えた夜だった。




