目を覚まされる前に。
表のロビーに殺気が充満する中、アトリエの裏手は別の混乱に呑み込まれていた。
「……え」
担ぎ込まれた少女へ駆け寄ったレッターが、外套の泥を払う手を止めた。
襟元。
泥の下でも隠れきらない金糸。
見間違えようのない、王家の紋章。
「ど、どええぇぇぇっ!?」
裏手に、ギルド職員の盛大に裏返った悲鳴が響き渡る。
その瞬間、アルテルナがびくっと肩を跳ねさせた。
ゲッセネスも、ひきつった顔でそっと目を逸らす。
レッターは顔面を蒼白にしながらも、震える手で杖を構えた。
「と、とにかく治癒を……!
頭部の打撲、軽い裂傷、疲労、脱水……っ」
淡く温かい治癒の光が、少女の額から巨大なこぶの周辺へ流れ込む。
泥に汚れた髪が、浅い呼吸に合わせて微かに揺れた。
ギルド職員は両手で口を押さえたまま、膝から崩れ落ちそうになっていた。
「終わった……。俺の胃も終わったし、ギルドもたぶん終わった……」
「まずは、状況確認だ」
店主の低く重い声が、裏手の混乱をぴたりと止めた。
店主は、泥だらけのアルテルナを見下ろした。
「ルナ」
アルテルナは肩で激しく息をしながらも、反射的に即答する。
「虫の魔物の群れが災害級!!」
店主の視線が、その先を促す。
「人型は?」
「見てない! 追ってきたのは羽虫だけ!」
店主が次に、ゲッセネスを見る。
ゲッセネスは、小刻みに震える両手を強く握りしめながら、店主の側へ顔を寄せた。
泥に汚れた唇が、ごく小さく動く。
虫除けの香薬。
投擲。
直撃。
後頭部。
王家の紋章。
店主は、一度だけ深く目を閉じた。
「あー……」
心底面倒くさそうな、そして呆れ果てた重い息だった。
「……追っ手は無しだ」
その一言で、表のロビーに満ちていた殺気がわずかに引いた。
構えられていた杖先が下がり、壁際の刃も音もなく収まる。
ギルド職員だけが、まだ顔色を失ったまま食い下がった。
「無し!? 本当に!? 無しでいいの!?」
「最悪だ」
店主が即答する。
「だが、今ここへ雪崩れ込んでくる気配は無い」
その時だった。
「……なるほど」
リヒャルトの口元に、薄く、ひどく綺麗な笑みが浮かんだ。
「戦力不足と仰っていましたよね」
ギルド職員が、びくっと肩を震わせる。
「え……はい……」
「ならば、姫様をお探しの騎士団にも働いていただきましょう」
空気が、一瞬だけ不自然に静まった。
アルテルナがぱちぱちと瞬きをする。
ゲッセネスは、本能的に顔を引きつらせた。
ギルド職員だけが、その中身を悟って、さっと顔色を失った。
「えっ。ちょっと待って。利用する気!?」
「人聞きの悪い」
リヒャルトの顔は崩れなかった。
「姫様の捜索と虫害の制圧。目的は一致しております。戦力があるなら、使うだけです」
「うわ……」
アルテルナが思わず引いた。
「ルナ」
ゲッセネスが小声で止める。
「今は黙ってて」
リヒャルトの視線が、治癒光の下でまだ意識を戻さない少女へ落ちた。
「今、目を覚まされると厄介ですね」
穏やかな、世間話のような声だった。
けれど、そこに温度は一滴もない。
「事情説明の前に騎士団が到着すれば、盤面が壊れます」
「泥眠だ」
店主が短く切った。
「三日寝かせる。身体も精神も、その間に戻す」
ギルド職員が、ぎょっとして目を剥いた。
「三日!?」
「ちょうどいいでしょう」
リヒャルトがさらりと引き継ぐ。
「その間に、騎士団には森を徹底的に引っ掻き回していただく。ギルドの戦力は虫害へ。姫様は安全圏で保護」
声はやわらかい。
だからこそ、どこにも逃げ道がない。
「双方に利があります」
「姫様本人の意思が一個も入ってないんだけど!?」
「意識の無い者に、意見は聞けませんからね」
今度は、言葉より先に目だけが冷えた。
「怖い!!」
ギルド職員が半泣きで叫んだ。
店主が、カウンターの下から泥眠の小瓶をひとつ抜き出す。
液体が、裏手の薄暗がりで鈍く光った。
リヒャルトは、眠ったままの少女を見下ろした。
「姫様が目を覚まされる前に」
メテスが、壁際から短く落とす。
「……終わらせる」
レッターがびくりと肩を揺らし、それでも杖をぎゅっと握り直した。
「は、はい……! 僕も、やれることをやります!」
アルテルナとゲッセネスは、思わず顔を見合わせた。
三日。
短いのか長いのかも、もうわからない。
変成魔術師が杖を握り直す。
職人が、腰の道具袋へ手をやる。
常連客たちも、もう笑ってはいなかった。
もう、それで足りた。
「……協力できることはする」
誰かが低く言った。
「指示をくれ」
「表は押さえる」
「森の様子なら、すぐ見に行けるぞ」
その声へ、リヒャルトが静かに振り返る。
そこにあったのは、帳場の顔だった。
「ご協力くださる有志の方は、先にギルドで討伐クエストを受注してきてください」
一拍。
誰かの眉が上がる。
リヒャルトは、何一つ乱さないまま続けた。
「白亜に住まう方々の労力が、無報酬で切り売りされるなどあってはなりませんので」
「……ああ、なるほどな」
職人のひとりが、口の端を吊り上げた。
「そういうことなら、遠慮はいらねぇな」
「ギルドの金で、堂々と虫を潰せるってわけだ」
「賢明なご判断です」
リヒャルトの声は澄んでいた。
けれど、その目元には薄い愉悦が差していた。
店主はそのやり取りを聞き、短く言った。
「……三日だ」
それだけで十分だった。
リヒャルトが、散りかけた背へ静かに声をかける。
「ギルドが購入されたポーションも、お忘れなく」
受け取った虫対策ポーションを、皆が無言で腰ポーチへ収めていく。
そして、表の気配が一気に散る。
誰も騒がない。
迷いのない足音だけが、白い石を打って外へ広がっていく。
カラン、カラン。
ドアのベルが響き渡る。
店主が、あらためて二人を見る。
「アルテルナ、ゲッセネス」
びくっと肩を揺らしたアルテルナが、顔を上げる。
「は、はい」
震える唇で、ゲッセネスも続いた。
「はい」
「姫様から目を離すな」
一拍。
「お前らが拾ってきた火種だ。最後まで面倒見ろ」
アルテルナの顔が引きつる。
「うっ」
「や、やっぱり怒ってるよね……?」
ゲッセネスが小さく震える。
店主は鼻を鳴らした。
「当たり前だ」
即答だった。
「だが、放り出さずに連れて帰ったのは正解だ」
アルテルナが目を瞬く。
ゲッセネスも、はっと顔を上げた。
「裏手の部屋をひとつ空ける。レッター、寝台と水。リヒャルト、泥眠と結界魔導具。メテス、外の気配を見ろ」
「かしこまりました」
その返事は、速かった。迷いもなかった。
「……了解」
「は、はいっ!」
短い呼応とともに一斉に動き出す。
無駄口は一切ない。
アルテルナは、まだ泥だらけの手を見下ろした。
その手で、王家のご令嬢のフードをめくり、その手で、ここまで連れてきた。
「……ネス」
「うん」
「私たち、すごいの連れてきちゃったね」
ゲッセネスが、ものすごく遠い目をした。
「うん……でも、もう戻せない」
アルテルナは小さく息を吐いた。
二人は揃って、
泥眠へ落とされる少女を見る。
もう、目を逸らして済む相手ではなかった。
裏手ではレッターが慌ただしく水差しを運び、
リヒャルトが術式板へ細い指を走らせ、
メテスは音もなくロビーの警戒へ戻っていく。
その背中を見送りながら、ギルド職員が青い顔で呟いた。
「……俺、本当にこの家に引っ越し決めたけど……早まったかな」
クリムが、店主の肩の上で短く鳴く。
「きゅ!(手遅れ!)」
ルゥが床で低く喉を鳴らした。
「……わふ(……もう巻き込まれている)」
ギルド職員は、とうとう両手で顔を覆った。
裏手の空気はまだ張り詰めている。
それでも、ギルド職員を除いて
もう誰も立ち尽くしてはいなかった。
レッターは青ざめたまま杖を握り、
リヒャルトの指先は術式板の上を走り、
メテスは音もなく表へ戻る。
店主は無言で小瓶を選び取っていた。




