泥眠の寝息と、日常の音。
静かすぎる部屋だった。
裏手に、急ごしらえで空けた小部屋。
リヒャルトが置いていった結界魔導具の術式熱が、まだ空気の底に残っている。
その中で、ひとりの少女が眠っていた。
泥眠の底へ沈んだまま、長いまつ毛はぴくりとも動かない。
ただ、規則正しい寝息だけが、静謐な空気をわずかに揺らしていた。
レッターが水差しを取り替える。
コト、と。
なるべく音を立てないように。
濡れ布を固く絞り、少女の額へそっと当てた。
熱はない。
脈も安定している。
その流れるような動きの横で、アルテルナは部屋の隅をそわそわとうろついていた。
「……ねえ。起きたら、どうしよう」
親指の爪を軽く噛みながら、声を潜めて漏らす。
ゲッセネスは扉に背中を預けたまま、逆にひどく静かだった。
「……起きる前に全部終わらせるって、言ってた」
「……何をよ」
「……分かんない。でも、全部」
その「全部」が何なのか、二人にはわからない。
ただ、途方もないものを連れてきてしまったという事実だけが、重い鉛みたいに腹の底へ沈んでいた。
外の世界では、王家の人間に触れることすら許されない。
ましてや、後頭部に虫除けの香薬を全力で叩き込み、気絶させて担ぎ込むなんて、不敬罪で縛り首になっても文句は言えない。
部屋の外からは、いつもの白亜の音が聞こえてくる。
チーン。
魔導リフトの軽快な到着音。
カラン。
一階に客が入る音。
ゴリ、ゴリ。
店主が乳鉢を回す音。
日常の音が、いつも通りに続いている。
けれど、この扉一枚を隔てた内側には、ひどく場違いな寝息だけが落ちていた。
アルテルナはいたたまれなくなって、寝台へ近づいた。
泥で汚れた外套。
その下から覗く、金糸の刺繍。
「……これ、ちょっとくらい拭いた方がいいのかな」
手を伸ばしかけて、ぴたりと止まる。
触っていいのだろうか。
そもそも、自分みたいな路地裏上がりが、こんな高貴な布地に触れていいのか。
手が、空中で固まる。
「ルナ。……一回、座って」
「座れないわよ」
アルテルナが声を潜めたまま噛みつく。
「だって……あんな全力でぶつけたんだよ!? 虫から必死に逃げてたのに、訳も分からないまま、すっごい痛みと一緒に意識飛ばされちゃったんだよ……?」
王家がどうとか、不敬罪がどうとか、もうそういう問題じゃなかった。
自分たちの手から放たれた瓶が直撃した感触だけが、嫌に生々しく残っている。
理不尽に意識を叩き落としたのだと思った瞬間、喉の奥が塞がり、呼吸が浅くなった。
「大丈夫ですよ」
レッターが、絞った布を整えながら静かに言った。
「今は、ちゃんと眠れていますから」
手元は、少しもぶれていなかった。
アルテルナが、そろそろと顔を向ける。
「深く落ちてます。
痛みも、怖かったことも、届いてません」
その一言に、アルテルナの強張っていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……そっか」
空中で固まっていた手が、ゆっくり下りる。
ゲッセネスも、壁から背中を離して静かに息を吐いた。
カチャ。
扉が開いた。
店主だった。
無表情のまま寝台へ歩み寄り、少女の顔色と呼吸を一瞥する。
「……容態は」
「安定しています。熱もありません」
レッターが即答する。
「泥眠の残りは」
「あと二日と半日です」
店主は短く頷き、踵を返した。
部屋を出る直前。
扉の取っ手に手をかけたまま、
店主はアルテルナとゲッセネスを振り返った。
「……勝手に扉を開けるな。異変があればすぐ呼べ」
「は、はい」
「うん」
「……手を出した以上は、最後まで見ろ」
扉が、静かに閉まる。
アルテルナは、しばらくその場で動けなかった。
喉の奥が、ひりつく。
でも、部屋の外へ放り出されたわけでもなかった。
その夜。
「ネスが先に寝て!」
「僕が見張るから、ルナこそ目を閉じなよ」
ランプの灯りが落ちた部屋で、そんなやり取りが何度か往復した。
けれど、結局二人とも丸椅子から腰を上げることはなかった。
規則正しい呼吸だけが、薄暗い部屋に残っていた。
アルテルナは、冷たい石壁に深く背を預けた。
石の冷たさが、このアトリエの強固な守りを教えてくれる。
そのたびに、逃げられないこともよく分かった。




