後頭部のこぶと、特大の火種。
羽音の渦が、森の木々を不気味に揺らしていた。
葉擦れの音に混じって、ぶうん、ぶうん、と湿った羽音が幾重にも重なる。
耳の奥へじかに擦り込まれるような、不快な音だった。
「……信じらんない!」
アルテルナが茂みの陰で顔をしかめ、吐き捨てるみたいに囁いた。
背中に負った麻袋の口からは、採ったばかりの花蜜瓶の甘い香りが漏れている。
本来ならそれだけで上機嫌になってもいい成果だった。
なのに今、この場を支配しているのはそんな可愛らしい匂いじゃない。
腐りかけた肉みたいな、生臭い体液の臭い。
鼻の奥を刺す、青臭く湿った虫の気配。
森の奥から押し寄せてくる、ぞわぞわとした羽音の壁。
肌の上を見えない脚が這っていくみたいで、アルテルナはたまらず片腕を擦った。
「花蜜も十分採取できたから、逃げよう」
隣でゲッセネスが低く言った。
声は落ち着いている。
けれど剣の柄に置かれた手は、いつでも抜ける形のままだった。
あれはもう駆除じゃない。
二人で踏み込んだら、採取帰りの自分たちがそのまま餌になる。
白亜へ戻る。
それ以外、なかった。
アルテルナも頭ではわかっていた。
わかっていた、のに。
「……っ」
木々の隙間で、何かが揺れた。
黒い羽虫の群れの向こう。
人影だ。
ひとり。
ふらつきながら、枝を払い、木の根につまずきそうになりながら、必死に走っている。
外套の裾が引っかかり、よろけ、また無理やり体勢を立て直す。
遅い。
あれじゃ追いつかれる。
「誰かが襲われてる!」
思わず声が漏れた。
ゲッセネスが短くそちらを見る。
状況を見た一瞬で、もう全部察した顔だった。
「……どうする?」
止める気はない問い方だった。
止めたいなら、最初から腕を掴んでいる。
でもしない。
アルテルナが決めるのを待っている。
それが、ゲッセネスだった。
アルテルナは奥歯を噛んだ。
助ける。
でも二人で群れに飛び込むのは違う。
馬鹿と勇敢は別だ。
どうする、どうする、どうする。
次の瞬間、彼女の顔がひきつった。
「あー! もう!! 投げるよ!!」
「助けるんだね? わかった」
一切ぶれなかった。
ゲッセネスは即座に腰のポーチへ手を入れ、今朝リヒャルトから買ったばかりの小瓶を抜き出した。
『虫除けの香薬』
青みがかった液体が、小瓶の中でかすかに揺れる。
「これ」
「ありがと!」
アルテルナが受け取る。
手に馴染む重さを確かめて、指先で瓶の首を挟んだ。
自称・投擲のプロ。
冗談半分でいつも言っている肩書きだったけれど、この距離、この角度、この動く標的。
失敗はできない。
逃げる人影と、それを呑み込もうとしている羽虫の塊。
そのちょうど真ん中へ。
アルテルナは茂みから飛び出した。
「行くよ!」
足を踏み込み、肩を開く。
腕がしなる。
放る、というより、射抜く一投だった。
ゴンッ!
「えっ」
バシャァッ!
乾いた打撃音の直後、青い液体が派手に弾けた。
空気が一気に苦くなる。
鼻の奥を刺す、薬草と樹脂を煮詰めたような強烈な匂いが、森いっぱいに広がった。
羽虫たちがぶわっと乱れた。
軌道を失い、狂ったように散り、木々の向こうへ四散していく。
効果は抜群だった。
抜群すぎた。
パタリ……。
「あっ!!」
逃げていた人影が、前のめりに綺麗に地面へ突っ伏した。
「ルナ!!?」
「ち、違っ、今のはその、虫を、虫を狙って――」
言いながら、アルテルナは自分でも何を弁解しているのかわからなかった。
虫は散った。
確かに散った。
でも先に人が落ちた。
あれは完全に、後頭部へ直撃している。
しかもかなりいい音がした。
自分の手から離れた瓶が。
狙って振り抜いた自分の一投が。
あの頭に、きれいに入った。
喉の奥がひゅっと狭くなる。
「……よし! 救ったから逃げよ!」
自分でもびっくりするくらい、薄情な台詞が飛び出した。
「そ、そうだね!」
ゲッセネスも即座に同調した。
二人はくるりと踵を返し、その場から全速力で立ち去ろうとする。
三歩。
ぴたり。
「…………」
「…………」
止まった。
同時だった。
森の音が戻ってくる。
遠くへ散った羽虫の羽音。
木の葉から落ちる雫。
自分たちの荒い呼吸。
そして、背後に転がったままの、あの人影。
アルテルナがゆっくり振り向いた。
ゲッセネスも、ものすごく嫌そうな顔で振り向いた。
目が合う。
言葉はいらなかった。
二人は無言で進路を変え、忍び足で倒れた人影へ戻っていった。
「……息はあるね」
ゲッセネスがしゃがみ込み、背中へそっと手を当てる。
ほっと小さく息を吐いた。
「よかった……」
アルテルナも膝をつく。
よかった、じゃない。
気絶させたのは自分だ。
でも死んでないなら、まだ取り返しはつく。
まだ。
多分。
お願いだから。
倒れた人物の後頭部には、もう立派なこぶが育ち始めていた。
見ているだけで胃が痛い。
自分が育てたこぶだ、と思った瞬間、アルテルナの喉がひくっと鳴った。
「……一応、怪我人だし。このまま放置は、寝覚め悪いし」
言い訳だった。
自分でも情けないくらい雑な言い訳。
「うん……まあ……そうだね……」
ゲッセネスも、優しいのか優しくないのかわからない顔で乗ってくれる。
アルテルナは震える手で、土に汚れたフードの端へ指をかけた。
持ち上げる。
現れたのは、泥に少し汚れた白い頬と、閉じた睫毛。
年頃は自分たちとそう変わらない、若い少女の顔だった。
「……女の子?」
アルテルナが目を丸くする。
その瞬間だった。
「ひぃー! ルナ! これはダメでしょ!?」
ゲッセネスが裏返った声を上げ、思いきり後ろへ飛び退いた。
「な、何が!?」
アルテルナもびくっとして、慌てて視線を落とす。
外套の襟元。
泥の下でも隠しきれない、なめらかな光沢。
見たこともないほど上等な絹だ。
旅装に見せかけていても、布そのものの格が違う。
そして、その襟に。
金糸で緻密に縫い込まれた刺繍があった。
見間違えようがない。
その瞬間、アルテルナの指先から熱が抜けた。
膝の裏がかくんと揺れる。
胸の奥で心臓がどくんと跳ねて、次の一拍がやけに遅い。
見た瞬間に終わる印だった。
王家の紋章。
「…………」
息が止まる。
アルテルナの背筋を、冷たいものが一気に走り抜けた。
今朝、耳に入った噂が、最悪の形で蘇る。
『王都から王族が来るらしい』
『視察とか何とか』
ぱちん、と嫌な音を立てて、全部が繋がった。
「……え」
声が掠れる。
「え、え、え、え」
ゲッセネスも同じ顔をしていた。
自分たちは今。
おそらく極秘でお忍び中の王族のご令嬢を。
虫から救うためとはいえ。
後頭部に虫除けの香薬を全力投擲し。
かなり綺麗に気絶させた。
「ちょ、ちょっと! ネス! 急いで白亜へ連れ帰るよ!!」
「えええええっ!? ギ、ギルドじゃなくて!?」
「ギルドなんか無理!! 持ち込んだ瞬間、私が不敬罪で縛り首でしょ!!」
「そんな即日執行ある!?」
「ある気がするの!! 雰囲気で!!」
「雰囲気で死刑を決めないでよぉ!」
泣きそうな声になりながらも、ゲッセネスはしゃがみ込み、気を失った少女を背負い上げた。
軽い。
軽い、のに。
背にのしかかるものだけが、やたら重い。
ただの少女を負った重さじゃない。
下手をすれば、自分たちの首までまとめて背負い込んだみたいだった。
ゲッセネスの喉が情けなく鳴る。
少女の腕がだらりと垂れる。
ほつれた袖口から覗いた指先は、驚くほど細かった。
アルテルナは慌ててその手を外套の中へ押し戻す。
こんなところで擦り傷でも増えたらどうする。
いやどうするも何もないけど。
ないけど、増やしたくない。
これ以上ひとつも。
「頭、揺らさないでよ!」
「もう揺れてるよぉ! 走るんでしょ!?」
「走るよネス!!」
「やっぱり走るんだ!?」
二人は顔を引きつらせたまま、同時に地を蹴った。
森を抜ける。
枝を避ける。
根を飛び越える。
花蜜の麻袋が背で暴れ、ゲッセネスの肩越しで少女の髪が揺れる。
アルテルナは何度も後ろを振り返りながら、歯を食いしばって先導した。
さっきまでの採取帰りの気楽さなんて、もう欠片もない。
抱えたのは戦利品じゃない。
火種だ。
しかも、うっかり握ったら手どころか家ごと燃えるやつ。
しかもその火種をぶん投げて着火したのは、多分自分だ。
その事実が遅れて腹の底へ落ちてきて、アルテルナは走りながら顔を引きつらせた。
「ルナぁ……」
「なによ!」
「店主、絶対怒る……」
「知ってる!!」
「すごく怒る……」
「知ってるって!!」
「僕たち、しばらく目を合わせてもらえないかも……」
「その前に生きてたらね!!」
半泣きで怒鳴り返した声が、森に響く。
でも足は止めない。
止められない。
白亜へ。
とにかく白亜へ。
大人たちに押し付けるために。
いや違う、助けを求めるために。
……でも、かなり押し付けるために。
店主の顔が浮かぶ。
あの無言のやつ。いちばん怖いやつ。
次にメテス。
絶対に「馬鹿か」で終わらない。
リヒャルトは笑う。
あれも怖い。
レッターはたぶん青ざめる。
だめだ。
全員怖い。
でも、自分たちだけで抱えていい相手じゃない。
ここで頼る先を間違えたら、本当に終わる。
だから走る。
二人は虫の消えた森を、命懸けの速度で駆け抜けていった。
背中で揺れる少女は、まだ目を覚まさない。
後頭部に育ったこぶだけが、やけに元気そうだった。




