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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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301/337

後頭部のこぶと、特大の火種。

羽音の渦が、森の木々を不気味に揺らしていた。


葉擦れの音に混じって、ぶうん、ぶうん、と湿った羽音が幾重にも重なる。

耳の奥へじかに擦り込まれるような、不快な音だった。


「……信じらんない!」


アルテルナが茂みの陰で顔をしかめ、吐き捨てるみたいに囁いた。


背中に負った麻袋の口からは、採ったばかりの花蜜瓶の甘い香りが漏れている。

本来ならそれだけで上機嫌になってもいい成果だった。


なのに今、この場を支配しているのはそんな可愛らしい匂いじゃない。


腐りかけた肉みたいな、生臭い体液の臭い。

鼻の奥を刺す、青臭く湿った虫の気配。

森の奥から押し寄せてくる、ぞわぞわとした羽音の壁。


肌の上を見えない脚が這っていくみたいで、アルテルナはたまらず片腕を擦った。


「花蜜も十分採取できたから、逃げよう」


隣でゲッセネスが低く言った。


声は落ち着いている。

けれど剣の柄に置かれた手は、いつでも抜ける形のままだった。


あれはもう駆除じゃない。

二人で踏み込んだら、採取帰りの自分たちがそのまま餌になる。


白亜へ戻る。


それ以外、なかった。


アルテルナも頭ではわかっていた。

わかっていた、のに。


「……っ」


木々の隙間で、何かが揺れた。


黒い羽虫の群れの向こう。

人影だ。

ひとり。


ふらつきながら、枝を払い、木の根につまずきそうになりながら、必死に走っている。

外套の裾が引っかかり、よろけ、また無理やり体勢を立て直す。


遅い。


あれじゃ追いつかれる。


「誰かが襲われてる!」


思わず声が漏れた。


ゲッセネスが短くそちらを見る。

状況を見た一瞬で、もう全部察した顔だった。


「……どうする?」


止める気はない問い方だった。

止めたいなら、最初から腕を掴んでいる。

でもしない。

アルテルナが決めるのを待っている。


それが、ゲッセネスだった。


アルテルナは奥歯を噛んだ。


助ける。

でも二人で群れに飛び込むのは違う。

馬鹿と勇敢は別だ。


どうする、どうする、どうする。


次の瞬間、彼女の顔がひきつった。


「あー! もう!! 投げるよ!!」


「助けるんだね? わかった」


一切ぶれなかった。


ゲッセネスは即座に腰のポーチへ手を入れ、今朝リヒャルトから買ったばかりの小瓶を抜き出した。


『虫除けの香薬』


青みがかった液体が、小瓶の中でかすかに揺れる。


「これ」

「ありがと!」


アルテルナが受け取る。

手に馴染む重さを確かめて、指先で瓶の首を挟んだ。


自称・投擲のプロ。


冗談半分でいつも言っている肩書きだったけれど、この距離、この角度、この動く標的。

失敗はできない。


逃げる人影と、それを呑み込もうとしている羽虫の塊。

そのちょうど真ん中へ。


アルテルナは茂みから飛び出した。


「行くよ!」


足を踏み込み、肩を開く。

腕がしなる。


放る、というより、射抜く一投だった。


ゴンッ!


「えっ」


バシャァッ!


乾いた打撃音の直後、青い液体が派手に弾けた。

空気が一気に苦くなる。

鼻の奥を刺す、薬草と樹脂を煮詰めたような強烈な匂いが、森いっぱいに広がった。


羽虫たちがぶわっと乱れた。

軌道を失い、狂ったように散り、木々の向こうへ四散していく。


効果は抜群だった。

抜群すぎた。


パタリ……。


「あっ!!」


逃げていた人影が、前のめりに綺麗に地面へ突っ伏した。


「ルナ!!?」

「ち、違っ、今のはその、虫を、虫を狙って――」


言いながら、アルテルナは自分でも何を弁解しているのかわからなかった。


虫は散った。

確かに散った。


でも先に人が落ちた。


あれは完全に、後頭部へ直撃している。

しかもかなりいい音がした。


自分の手から離れた瓶が。

狙って振り抜いた自分の一投が。

あの頭に、きれいに入った。


喉の奥がひゅっと狭くなる。


「……よし! 救ったから逃げよ!」


自分でもびっくりするくらい、薄情な台詞が飛び出した。


「そ、そうだね!」


ゲッセネスも即座に同調した。


二人はくるりと踵を返し、その場から全速力で立ち去ろうとする。


三歩。


ぴたり。


「…………」

「…………」


止まった。

同時だった。


森の音が戻ってくる。

遠くへ散った羽虫の羽音。

木の葉から落ちる雫。

自分たちの荒い呼吸。


そして、背後に転がったままの、あの人影。


アルテルナがゆっくり振り向いた。

ゲッセネスも、ものすごく嫌そうな顔で振り向いた。


目が合う。


言葉はいらなかった。


二人は無言で進路を変え、忍び足で倒れた人影へ戻っていった。


「……息はあるね」


ゲッセネスがしゃがみ込み、背中へそっと手を当てる。

ほっと小さく息を吐いた。


「よかった……」


アルテルナも膝をつく。


よかった、じゃない。

気絶させたのは自分だ。

でも死んでないなら、まだ取り返しはつく。

まだ。

多分。

お願いだから。


倒れた人物の後頭部には、もう立派なこぶが育ち始めていた。

見ているだけで胃が痛い。

自分が育てたこぶだ、と思った瞬間、アルテルナの喉がひくっと鳴った。


「……一応、怪我人だし。このまま放置は、寝覚め悪いし」


言い訳だった。

自分でも情けないくらい雑な言い訳。


「うん……まあ……そうだね……」


ゲッセネスも、優しいのか優しくないのかわからない顔で乗ってくれる。


アルテルナは震える手で、土に汚れたフードの端へ指をかけた。

持ち上げる。


現れたのは、泥に少し汚れた白い頬と、閉じた睫毛。

年頃は自分たちとそう変わらない、若い少女の顔だった。


「……女の子?」


アルテルナが目を丸くする。


その瞬間だった。


「ひぃー! ルナ! これはダメでしょ!?」


ゲッセネスが裏返った声を上げ、思いきり後ろへ飛び退いた。


「な、何が!?」


アルテルナもびくっとして、慌てて視線を落とす。


外套の襟元。

泥の下でも隠しきれない、なめらかな光沢。

見たこともないほど上等な絹だ。

旅装に見せかけていても、布そのものの格が違う。


そして、その襟に。


金糸で緻密に縫い込まれた刺繍があった。


見間違えようがない。


その瞬間、アルテルナの指先から熱が抜けた。

膝の裏がかくんと揺れる。

胸の奥で心臓がどくんと跳ねて、次の一拍がやけに遅い。


見た瞬間に終わる印だった。


王家の紋章。


「…………」


息が止まる。


アルテルナの背筋を、冷たいものが一気に走り抜けた。


今朝、耳に入った噂が、最悪の形で蘇る。


『王都から王族が来るらしい』

『視察とか何とか』


ぱちん、と嫌な音を立てて、全部が繋がった。


「……え」


声が掠れる。


「え、え、え、え」


ゲッセネスも同じ顔をしていた。


自分たちは今。

おそらく極秘でお忍び中の王族のご令嬢を。

虫から救うためとはいえ。

後頭部に虫除けの香薬を全力投擲し。

かなり綺麗に気絶させた。


「ちょ、ちょっと! ネス! 急いで白亜へ連れ帰るよ!!」


「えええええっ!? ギ、ギルドじゃなくて!?」


「ギルドなんか無理!! 持ち込んだ瞬間、私が不敬罪で縛り首でしょ!!」


「そんな即日執行ある!?」


「ある気がするの!! 雰囲気で!!」


「雰囲気で死刑を決めないでよぉ!」


泣きそうな声になりながらも、ゲッセネスはしゃがみ込み、気を失った少女を背負い上げた。


軽い。


軽い、のに。


背にのしかかるものだけが、やたら重い。

ただの少女を負った重さじゃない。

下手をすれば、自分たちの首までまとめて背負い込んだみたいだった。


ゲッセネスの喉が情けなく鳴る。


少女の腕がだらりと垂れる。

ほつれた袖口から覗いた指先は、驚くほど細かった。


アルテルナは慌ててその手を外套の中へ押し戻す。

こんなところで擦り傷でも増えたらどうする。

いやどうするも何もないけど。

ないけど、増やしたくない。

これ以上ひとつも。


「頭、揺らさないでよ!」


「もう揺れてるよぉ! 走るんでしょ!?」


「走るよネス!!」


「やっぱり走るんだ!?」


二人は顔を引きつらせたまま、同時に地を蹴った。


森を抜ける。

枝を避ける。

根を飛び越える。


花蜜の麻袋が背で暴れ、ゲッセネスの肩越しで少女の髪が揺れる。

アルテルナは何度も後ろを振り返りながら、歯を食いしばって先導した。


さっきまでの採取帰りの気楽さなんて、もう欠片もない。


抱えたのは戦利品じゃない。

火種だ。

しかも、うっかり握ったら手どころか家ごと燃えるやつ。


しかもその火種をぶん投げて着火したのは、多分自分だ。


その事実が遅れて腹の底へ落ちてきて、アルテルナは走りながら顔を引きつらせた。


「ルナぁ……」


「なによ!」


「店主、絶対怒る……」


「知ってる!!」


「すごく怒る……」


「知ってるって!!」


「僕たち、しばらく目を合わせてもらえないかも……」


「その前に生きてたらね!!」


半泣きで怒鳴り返した声が、森に響く。


でも足は止めない。

止められない。


白亜へ。

とにかく白亜へ。


大人たちに押し付けるために。

いや違う、助けを求めるために。

……でも、かなり押し付けるために。


店主の顔が浮かぶ。

あの無言のやつ。いちばん怖いやつ。


次にメテス。

絶対に「馬鹿か」で終わらない。


リヒャルトは笑う。

あれも怖い。


レッターはたぶん青ざめる。


だめだ。

全員怖い。


でも、自分たちだけで抱えていい相手じゃない。

ここで頼る先を間違えたら、本当に終わる。


だから走る。


二人は虫の消えた森を、命懸けの速度で駆け抜けていった。


背中で揺れる少女は、まだ目を覚まさない。

後頭部に育ったこぶだけが、やけに元気そうだった。




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