第四章 ファンタジーが芸術であらねばならない理由
前章までで述べた事柄を全て活かすことができたならば、物語はこれ以上ない芸術性を帯びたファンタジーとなる。だが、その到達点までの道のりは決してたやすいものではない。趣味程度で物語を書く者には到底辿り着けないものであることも加えておく。そこで、次のような質問が当然出てくるだろう。
「自分は芸術を書きたいわけじゃない。誰もが気軽に読めて楽しめるような、いわゆるライトなファンタジーが書きたいのだ。読み手もファンタジーに対してそんな崇高なものを求めてはいない。むしろ、それが完全な作り話だからこそ、暇つぶしに読もうかという気になるのだ」
まず述べなければならないのは、この考え方は、ファンタジー小説群そのものの価値を落としてしまうということである。現在、ライトノベルという言葉に抵抗を感じる人間が多くなっていることが、このことの最も明確な証明であろう。そしてライトノベルの読者も同じように捉えられている。誤解がないように付け加えると、私はライトノベルがその他の、例えば日本の純文学と呼ばれる小説に対して、幼稚で劣っていて、知的刺激のないものだと考えているわけではない。ただし、今のライトノベルの大半は、本来のファンタジーとして未成熟である。しかしそれは、未成熟なライトノベルと呼ばれる小説は、前述した事柄に即した書き方をされた時、どの純文学にも負けず劣らない芸術作品となれることを意味している。そもそも、純文学が芸術だとする考えは間違っている。純文学のうちでも、真に芸術的だと言える作品は一部にすぎない。そこには、純文学として成熟しているかどうかは関係ない。問題は、作品にファンタジーの力が流れているかどうか、ただそれだけだからだ。その点からすると、ファンタンジー小説はどれも、書き方次第で芸術足りえるのである。
では次に、本題でもある、なぜファンタジー小説が芸術でなければならないのか、という点だが、それはファンタジー小説がそもそも持っている性質に依る。未成熟であっても、ファンタジーはファンタジーであり、そこには質や真偽の問題はあっても、ファンタジーの力が大なり小なり流れているのである。読み手はもちろん、このファンタジーの力を受け取る。問題はここにある。質の悪いファンタジーの力や、仮に誤ったファンタジーの力が、小説という形を介して読み手に伝わったとすれば、それは幻想の世界(五感で捉えることのできない世界)そのものの、間違った認識の伝播となる。幻想の世界の間違った認識は、決して人間に良い力を与えない。むしろそれは、人間を堕落させる方向に働く場合が多い。間違ったエネルギーは、人間を現実味に欠けた空想家のようにしてしまう。活動が外界に向くことも少なくなる。日本ではこのような者に対する負の呼び名として、「オタク」という言葉がある。良いファンタジー小説かどうかの最も簡単な見分け方は、その物語が「オタク」を生むかどうかという点であろう。
ファンタジー小説は、誰にでも書くことができる。だが半面、書き手は常に、自らの書くものが読み手にどのようなエネルギーを与えるかについて自問自答しなければならない。ファンタジー小説を書く者は、おそらく大半の書き手が思っている以上の責任を背負わなければならない。「オタク」市場は現在広がりつつあるが、それはあまりにも唯物論的な市場であり、本来のファンタジーの力の成果とは言えない。物質的なものではなく、人間を精神的な面から豊かにする力がファンタジーである。物質的なものに支配されたファンタジーは、やがて人間を滅ぼす方向へ進むだろう。ファンタジー書きは、そのような間違った方向性を正す力を持っている。だがその力が今のライトノベルには備わっていない。それが、読み手としての私が抱く不満である。