◆6-2
何十合目かの打ち合いの末、剣が折れた。ちょっと力加減を間違えてしまったらしい。本物の剣と同じに振るっては駄目ね、とラヴィリエは頭の隅で反省する。その思考は、今舞台上では邪魔だ。
短くなってしまった剣を構え直し、崩れた崖の上に立つ。仕掛けはもう使えないが、中途半端に崩したせいか、奈落に繋がる斜めの坂のようになっている。これならば、脚本通りに進められるかもしれない。
「――『万策尽きたな、聖騎士よ』」
その台詞は脚本に無かったけれど、ラヴィリエの欲しかった台詞が聞けたので思わず微笑んでしまう。余裕を崩さない聖騎士の姿に見えていればいいのだけれど、とやはりこっそり考えながら、台本に載っていた台詞を続ける。
「『まだまだ。剣が折れても拳がある、拳が割れても足がある。首だけになっても、魔王の喉笛に食らいついてやるとも』」
「『ならば今此処で、その夢想を潰えさせる!』」
黒騎士が切りかかる。転がって躱す。崖に追い詰められ、最後には黒騎士を道連れに落ちる。それが脚本に描かれていた、このルグラーツェの終わり。ああ、でも、だけど、まだ。
「『……そなたも、共に夢想を得ないか』」
「『何だと?』」
黒騎士が訝し気に問う。客席もざわめく。不倶戴天の敵である黒騎士を「許し、裁く」のが、誰もが知る聖騎士ルグラーツェの在り方だ。このように、敵に誘いをかける聖騎士など、前代未聞だろう。
「『そなたが魔王に、絶対の忠誠を誓っていることは理解した。だが、そなたと同じ人達は、魔の奴隷となり理不尽を受けている。そなたはそれを良しとするのか』」
「『……力無き者は、力有りし者に従う。当然のことだ』」
「『そなたは力無き時に、魔王に救われたといったではないか。では、誠に魔王が慈悲深いのならば、何故他の人々は放っておく』」
「『戯言を!』」
「『矛盾から目を逸らすな! 自分さえ助かれば良いと、そなたは他者を切り捨てるのか? そなたの治める街で、人々は貧しいながらも、守られて暮らしていたぞ!』」
これも本来脚本にはない、別の訳書に書かれていた一節だ。人でありながら魔王に従う黒騎士は、しかし自分の領地で魔の奴隷となっている人々を集め、匿っていたのだと。其処に如何なる理由があったのか、何が真実だったのか、今のラヴィリエには解らない、けれども。
舞台袖をちらりと見ると、脚本家は無言のままでこちらを見ているので、止められる心配はなさそうだ。彼は今此処で生まれる舞台を、真剣に見据えている。
「『――そなたの慈悲に、私は感銘を受けた。この地に縛られたままでは、いずれそなたも、他の人々も、瘴気に侵され命を落とす者が出よう。どうにか助けを――』」
「『黙れッ!!』」
黒騎士が激昂した。ラヴィリエの望んだとおりに。このように話を進めて欲しい、と思ったことを彼は読んでいる。とても嬉しい、けれど、まだ足りない。もっと、もっと!
切りかかった剣を、短くなった剣で巻き取り往なす。ぐらりと崖側に傾いだ黒騎士の腕を掴んだ。当然片手だけでは支えきれず、彼の身体は舞台上の斜面に投げ出され、それをラヴィリエが支える形になった。二人分の剣が崖から奈落へと落ちていき、またわっと悲鳴のような声が客席から上がる。
「『――離せ』」
「『まだ答えを聞いていないぞ、黒騎士! 黙れと言うなら、この口を塞いで見せろ!』」
痩せているとはいえ衣装を着けたヒヤクの身体は重く、ラヴィリエの膂力では支えきれない。二人の身体はずるずると、崖に向かって滑っていき――
ラヴィリエは望む。貴方の中の黒騎士は、何を望むのか、とヒヤクに向けて。
夜空の瞳と、夕闇の瞳が交わり――黒騎士が、笑った。兜の下で、観客には見えないだろうけれど。
「『……残念だったな』」
低い声と共に、黒騎士が腰に差していた短刀を引き抜く。単なる衣装の飾りで、鞘もついたままだが、装飾が煌めいてちゃんと刃物に見えるだろう。
「『貴様の願いなど――叶えてやるものか!』」
今度は、嘲るように、嗤い。その短刀を、繋いだ手に向かって振った。触れていないのに、切られた、と感じてラヴィリエは思わず手を緩めてしまった。そのまま、黒い鎧を纏った騎士は、微笑んだまま奈落へと――
「『黒騎士――ッ!!』」
叫び、坂を蹴って、追うようにラヴィリエも飛び込んだ。しん、と舞台が静まり返り――何処からともなく拍手が沸き起こった。幕が下り、脚本家に走り書きを手渡された詩人役が、そっと舞台端に立つ。
「『――斯くして、聖騎士ルグラーツェの冒険は此処で終わる。相容れぬ相手にまで手を差し伸べた慈悲を、愚かと笑う後世の者は多いだろう。それでも彼は、己に使命を与えた神に恥じぬ行いを成し遂げたのだ。……彼の仲間達は、ルグラーツェの最期の望みを叶える為、黒騎士の領地にいた人々を救い、魔の大陸を脱出した。四魔の一、黒騎士もこの時点で姿を消し、行方はようとして知れず――』」
幕が下がっていき、再び大きく拍手が広がった。
×××
どすん、と落ちたのは、奈落の中に広げられた沢山の藁の中だ。最後に二人が落ちた時に、受け止めるためのもの。舞台の事故で裏方達も右往左往しているのか、本来なら他に詰めている筈の人達も姿が見えない。拍手と歓声が酷く遠いところから、ぱらぱらと聞こえてくるだけだ。
「――ふ、ふふふ、うふふふふ」
藁の中で堪え切れず、ラヴィリエは笑う。体の中から何か――もしかしたら、舞台で生きていたものの魂というべきものか――が抜けてしまったようで、自然と笑いが零れてしまった。少しずつ汗が冷えて、熱が解けていくのが心地良い。
ちくちくと肌を刺す藁の上で、ごろんと転がると、隣にはヒヤクが寝転がっている。彼も演技を終え、熱かったのか、兜だけを外して藁の上に放った。赤紫色の瞳が、ぼうっと開いたままの舞台の穴を見上げている。
「うふふ、私の中の聖騎士様は、私に似て考えなしだったみたいね。此処で死んでしまったら、お役目を果たせないのに」
アッルチナツィオーネに渡された台本の最終章は、最後に黒騎士が隙を突いて彼に致命傷を与え、此処で倒れるわけにはいかぬと、ルグラーツェが自ら彼と共に崖から落ちる、という形だった。
しかしラヴィリエは別の道を望んだ。自分の中のルグラーツェが、それを許さなかったから。黒騎士に手を伸ばしたのは、慈悲では決して無い。ただ、魔王に膝を折っても、民達を守り、戦い続けていた彼に対する敬意だったのではないだろうか。
「黒騎士を、あなたを、ひとりにしたくなかったのよ」
騎士失格かしら、と笑って、ラヴィリエはヒヤクの言葉を待つ。きっと彼はラヴィリエの促しもちゃんと理解している。貴方はどうだった? という。
ヒヤクの瞳が動き、ラヴィリエの方を向く。その、全てを見透かすような瞳を、恐れる者は多いだろうが、やはりラヴィリエは美しいと思う。出来れば、ずっと見ていたいし、見られていたい。
……これはあの水銀の魔に、私の方が感化されているのかしら? という嫌な気づきを見ないふりをしていると。
「……はじめて、」
ぽつりと。誰にも聞こえないぐらいの小さな声で、ヒヤクが呟いた。途方に暮れた、子供のように。
×××
「はじめて、考えた。演じる役の、ことを。黒騎士は、情けを拒んだ、けれど――」
掴まれていた自分の手から、黒い舞台用の具足を外す。其処から出てくる手は酷く白くて細い。それを見詰めたまま、やはりどこか夢見るように、ヒヤクは囁いた。
「それは、伸ばされた手を、掴みたくなってしまったからだ、と」
だからこそ、己の矜持はそれを許せず、聖騎士の腕を切って自ら落ちた。最後まで、魔王に仕える正しき騎士で在りたかったから。……大切な相手に与えられた教えを、己を形作った言葉を、守りたかった、から。
「それが、俺の中の、黒騎士だ。……お前の望みを、叶えられたか」
藁の上に寝転んだまま、二人。しっかりと視線を合わせて――弾けるようにラヴィリエは笑った。頬を上気させたまま、本当に嬉しそうに。
「ええ――ええ! 貴方は最高の役者だわ!」
その姿を、ヒヤクも見ている。彼女が、笑っている。笑っている、と解る。其処に書いているから。頬の紅潮も、笑顔自体も、其処に文字として書いているだけ。だけど、ああ、だけど――
手を伸ばす。伸ばしてしまう。確かめたいと、望んでしまった――その顔が、どんな形をしているのか。触れたら簡単に崩れ落ちてしまう、文字の塊だと解っているのに。
その手はしかし、しっかりと掴まれて、彼女の頬に引き寄せられた。怯えるように震えた指先に、そっと柔らかいものが触れる。
「大丈夫よ。私、そんなに脆くは無いわ」
ヒヤクの手に頬を摺り寄せて、ラヴィリエは本当に嬉しそうに、夜空の瞳を潤ませて笑っていた。
×××
奈落の中で、微笑んだラヴィリエの顔を、ヒヤク以外にもう一つ、見ている視線があった。
スチュアートから零れ落ちた鈍色の水。それは落ちる途中で凝り固まり、金色の山羊目となった。
鬱屈した者に一滴、自分を飲ませて操って、結界の中に入ったはいいが、この容積では碌なことが出来ない。残りは不覚を取って粉々に砕かれてしまったし、再生にもまた時間がかかるだろう。生きてはいるが、弱っていることに違いは無いのだ。
それならせめてお気に入りの瞳を拝み、あわよくば片目だけでも抉って帰れないか――と本気で思っていたのだが。
漸く見つけた美しい宝石が、自分の関わりないところで、本当に嬉しそうに微笑んで――同時に、僅かに潤むのを見た。その視線は彼女の隣で寝転ぶ男に向けられて、当然金目に振り向くことは無い。
【なんで、】
それが見えた瞬間、間違いなくヒュドラルギュルムは驚愕し、憤怒し、絶望した。してしまった。
【なんで――なんで】
ぐずり、と己の最後の身体が、魂と同時に崩れかけたことに気付き、逃走した。無様に。例え体の全てを砕かれても消えない筈のものが、変質していくのを認めたくないが為に。
【嗚呼、嫌だ】
望むものを、お前は永遠に手に入れられないのだと、突き付けられた気がしたから。




