第九話「忍び寄る帝国の毒牙」
長く厳しい冬がようやく緩み始め、竜峰の切り立った崖から解け出した雪水が、谷底へと細い滝となって落ちていく季節となった。
霊峰の山肌にはわずかに新芽の緑が芽吹き、春の訪れを告げている。
だが、季節の変わり目は、アグニヴの身体に刻まれた『魂蝕の黒呪』にとっても最も不安定な時期だった。
アグニヴの首筋の黒痕は日増しに熱を帯び、執務中に机に突っ伏す回数が増えていた。
ノアは自室の書物と工房を行き来しながら、少しでも強い薬効を持つ解毒素材を探し求めていた。
(春一番にしか採れない霊草『雪解けの雫』があれば、アグニヴ様の魔力回路を保護する新しい煎じ薬が作れるのに……)
その希少な霊草が、竜王国と帝国の国境近くに位置する外縁交易都市『カナン』の春市に出品されるという情報を耳にした。
だが、アグニヴからは、余の許可なく一歩も城から出るなと厳格に言い渡されていた。
ノアの安全を案じるがゆえの過保護な命令であることは痛いほど分かっている。
それでも、日々苦痛に耐えるアグニヴの姿を見ていられなかったノアは、近衛騎士団長イグニスに頭を下げた。
「イグニス様、どうかお願いです。一時間だけでいいんです。どうしてもアグニヴ様の薬に必要な草が手に入るんです」
「うーん……王にバレたら俺の首が飛ぶどころじゃ済まねえんだがな……」
イグニスは赤毛をガシガシと掻き毟りながら、困り果てたように眉を八の字にした。
だが、ノアの真摯な翡翠の瞳に宿る必死の懇願に、武人は根負けしたように息を吐いた。
「分かったよ、先生。ただし、俺と精鋭五名で周囲を固めて、市に着いたら即座に買って即座に戻る。いいな?」
「はい! ありがとうございます!」
厳重な護衛のもと、竜車に乗って山を降りたノアは、交易都市カナンの活気ある市場へと足を踏み入れる。
大陸各地の商人が集う広場には、色鮮やかな天幕が所狭しと立ち並び、異国の香辛料や鉱石の匂いが入り混じっている。
行き交う人々は毛皮をまとった竜人だけでなく、人間の商人や旅人も多く、騒がしい熱気に満ちていた。
イグニスたちが鋭い視線を周囲に走らせ、ノアの周囲に誰も近づけさせないよう壁を作っている。
ノアは申し訳なさを覚えつつも、目当ての薬草商人の天幕へと急ぎ足で向かった。
天幕の主人は、ノアの薬草に対する深い知識に感心しながら、桐の箱に入った『雪解けの雫』を差し出してくれた。
薄青い花弁の先端に、朝露のような透明な結晶を宿す見事な逸品だった。
無事に『雪解けの雫』を買い求めたノアが天幕を出ようとしたとき、擦れ違いざまに一人の痩せこけた男が声をかけてくる。
「……そこの旦那。薬師とお見受けするが、極上の『白銀草』に興味はないかね」
薄汚れた外套をまとったその男は、懐から湿った油紙の包みを取り出す。
包みを開けると、銀色に輝く見事な薬草が三株、大切そうに収められていた。
白銀草。
魔力を高め、体内の巡りを滑らかにする最高級の霊草である。
帝国でも宮廷の奥深くにしか保管されていなかった代物だ。
「これ……本当に白銀草ですか? どこで手に入れたのですか」
「帝国の商人から安く買い取ったのさ。故郷を追われた可哀想な薬師様への施しだと思って、銀貨三枚で譲ってやるよ」
男は卑屈な笑みを浮かべ、値打ちの十分の一にも満たない破格の値段を口にした。
ノアは不審に思いつつも、白銀草がアグニヴの衰弱した魔力回路を補強する貴重な助けになると考え、銀貨を支払ってその草を買い取った。
男は銀貨を受け取ると、人混みの中へと素早く姿を消していく。
約束の時間を守り、ノアたちは何事もなく竜王城へと帰還した。
自室の工房に戻ったノアは、安堵の息を吐きながらエプロンを着け、買ってきた白銀草を作業台の上に広げた。
棚の上では、留守番をさせられて拗ねていたルカが、不満そうに喉を小さく鳴らしている。
「ごめんね、ルカちゃん。すぐにご飯にするからね」
ノアは小刀を手に取り、白銀草の根を流水で丁寧に洗い流した。
泥を落とし、細い繊維を一本ずつ確認する。
念のため、毒性がないかを確かめるための試験液を調合し、根の断面に垂らした。
その瞬間だった。
じゅっと白煙を上げ、根の断面からどす黒い紫色の泡が吹き出した。
ノアの指先が凍りつく。
(……えっ……?)
泡を拭い取り、拡大鏡を覗き込む。
白銀の美しい表皮の下に、血管のように細い紫色の斑点がびっしりと張り巡らされていた。
これは白銀草ではない。
精巧に偽装された『魔脈枯らしの猛毒草』だった。
竜族がこれを口にすれば、体内の魔力回路が内側から焼き切られ、耐え難い暴走を引き起こす暗殺専用の猛毒である。
ただでさえ邪竜の呪いに侵されているアグニヴがこれを摂取すれば、数分と持たずに魂核が破裂し、狂竜化して命を落とす。
(ジェラルド……!)
ノアの脳裏に、帝国宮廷で筆頭薬師ジェラルドが自慢げに語っていた調合の記憶が鮮明に蘇った。
外見を白銀草に偽装し、加熱しても匂いを変えないこの悪辣な毒草の加工法は、ジェラルドが独自に開発した暗殺技術そのものだった。
あの交易都市の商人は、帝国の手先だったのだ。
帝国は、竜王が病死するのを待つだけでは飽き足らず、追放したノアが竜城にいることを突き止め、ノアの手を通じて竜王を毒殺させようと目論む。
もし自分が気づかずに、この毒草を煎じてアグニヴに飲ませてしまっていたら。
愛しい人の命を、自らの手で奪うことになっていた。
想像しただけで、ノアの膝は激しく震え、背中に冷たい汗が噴き出した。
「こんなもの……すぐにアグニヴ様に知らせて、捨てないと……!」
ノアが毒草を布に包み、工房を飛び出そうとした、その時だった。
ジャァァァン、ジャァァァン、と城中に耳をつんざくような警鐘の乱打が鳴り響く。
「敵襲――ッ! 城門付近で爆発! 火災が発生!」
回廊から兵士たちの怒号と足音が響き渡る。
混乱の気配。
次の瞬間、工房の石壁に嵌め込まれた硝子窓が、外側からの凄まじい衝撃によって粉砕された。
鋭い破片が飛び散る中、漆黒の外套に身を包んだ二人の刺客が、音もなく床へと着地した。
その手には、青い毒薬が塗られた曲刀が握られている。
「いたぞ。出来損ないの薬師だ。王を毒殺できなんだなら、貴様を連れ去るまで」
低く濁った帝国の言葉。
刺客の刃が、硬直するノアの胸元へと向けられた。
棚の上のルカが全身の毛を逆立て、鋭い威嚇の声を上げて飛び出した。
子竜は先頭の刺客の顔面へと小さな爪を突き立てた。
「ぐわっ!? なんだこのトカゲは!」
刺客が叫び、腕を振り回す。
「ルカちゃん!」
子竜は必死に翼を羽ばたかせ、鋭い牙で刺客の鼻先に噛みついた。
言葉にはならないが、子竜が命がけで時間を稼ごうとしているのが痛いほど伝わってきた。
ノアは震える腕で毒草の包みを抱え込み、扉を力任せに押し開けて回廊へと走り出した。
冷たい石の回廊を、背後から迫る足音に追われながら必死に駆ける。
足の裏に冷気が突き刺さり、荒い呼吸で喉が焼けるように熱い。
だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
この毒草の存在をアグニヴに知らせ、帝国軍の工作を未然に防がなければならない。
そして何より、自分を信じてくれたこの城の人々と、不器用な愛をくれた竜王を守らなければならなかった。
(アグニヴ様……! アグニヴ様、どうかご無事で……!)
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打ち、ノアの視界は涙と恐怖で激しく揺れていた。
回廊の向こう、立ち込める黒煙の先から、大地を引き裂くような凄まじい竜の咆哮が轟いていた。
壁を揺るがすその衝撃波が、ノアの足元を激しく揺さぶる。




