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追放された平凡薬師は、冷徹な竜王の偽りの番になり溺愛される 〜呪いを解いたのは、無自覚な奇跡の手でした〜  作者: 水凪しおん


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第十話「暴かれた真実と奇跡の代償」

 黒煙が立ち込める回廊の奥から、鋭い風切り音が迫っていた。

 逃げるノアの背後、すぐ数歩の距離まで、二人の刺客が肉薄していた。

 青い毒が光る曲刀が、容赦なくノアの背中を狙って振り下ろされる。

 刃が空気を切り裂く冷たい金属音が耳元をかすめた。


「死ね、小僧!」


 逃げ場のない一直線の石造り回廊。

 ノアは思わず身を縮め、抱きかかえた毒草の包みをかばうように目を閉じた。

 その瞬間だった。

 ドォォォン、と大気を引き裂く凄まじい衝撃音が轟いた。

 回廊の頑丈な石壁が外側から爆砕され、立ち込める土煙と瓦礫を突き破って、巨大な漆黒の影が舞い降りる。

 漆黒の竜翼。

 天を突く二本の角と、爛々と燃え盛る黄金の瞳。

 空間そのものが凍りつくような、怒り狂う竜王の覇気が回廊全体を激しく圧壊させた。


「――余の伴侶に、その汚らわしい刃を向けるな」


 低く轟く地鳴りのような声。

 アグニヴが巨大な竜翼を一閃させただけで突風が巻き起こり、二人の刺客は木の葉のように吹き飛ばされて石壁に叩きつけられた。

 骨が砕ける鈍い音が響き、刺客たちは床に崩れ落ちる。

 石の床には深い爪痕が刻まれ、アグニヴの全身からは黒い竜脈の魔力が陽炎となって立ち上っていた。


「アグニヴ様……!」


 ノアが涙声で顔を上げた、その刹那だった。

 崩れ落ちた刺客の一人が、最後の力を振り絞って懐から小型の連射弓を引き抜いた。

 放たれたのは、紫黒の不吉な霧をまとう一本の黒矢――竜の肉体を腐食させる禁忌遺物『竜殺しの呪毒矢』である。

 狙われたのは、床に座り込む無防備なノアの胸元。

 矢の切っ先が、ノアの心臓めがけて一直線に飛来する。


「ノアッ!」


 アグニヴの咆哮が響いた。

 考える時間などなかった。

 アグニヴは瞬時に自らの巨体を割り込ませ、ノアを胸元に抱きかかえるようにして覆いかぶさった。

 ザシュッ、と肉を裂く鈍い音。

 黒矢はアグニヴの左肩を深く貫き、石壁に突き刺さって粉砕した。


「ぐ、うっ……!」


 アグニヴの喉から、押し殺した苦悶の呻きが漏れた。

 傷口から、ジュウジュウと皮膚を焼く紫黒の煙が立ち上る。

 矢に塗られた呪毒は、アグニヴの体内に巣食う太古の邪竜の黒痕と激しく共鳴し、傷口から血管を伝って黒い毒素を爆発的に拡散させていった。

 首筋の呪痕が狂ったようにうごめき、アグニヴの皮膚を真っ黒に染め上げていく。

 アグニヴはその場に片膝をつき、口元からドス黒い血の塊を吐き出した。

 その血は床の石畳に触れた瞬間、ジュウと焦げつく匂いを放ちながら石を溶かした。


「アグニヴ様――ッ!!」


 ノアの悲鳴が回廊に木霊した。

 駆けつけてきたイグニス率いる近衛兵たちが、倒れた刺客たちを取り押さえる。

 だが、アグニヴの全身から噴き出す禍々しい瘴気と暴走する竜の魔力嵐の前に、屈強な兵士たちすら近づくことができず、ただ蒼白になって立ち尽くすしかなかった。


「王の傷口から呪毒が……! 魔脈が破壊されている!」


「いけません、近づけば我らの魂まで呑まれます!」


 兵士たちの悲痛な叫びが遠く聞こえる。

 回廊の石壁はひび割れ、砕けた石片が雨のように降り注いでいた。

 だが、ノアは立ち止まらなかった。

 吹き荒れる黒い風をものともせず、ノアは血を吐いて倒れ伏すアグニヴの元へと駆け寄り、その逞しい肩を抱き起こした。

 アグニヴの体温は異常な高熱を発しており、触れるだけで皮膚が焼けそうである。

 その熱さは、新月の夜の比ではなかった。

 骨が軋み、筋肉が裂けるような激痛に、アグニヴの身体が弓なりに反りかえる。


「アグニヴ様、しっかりしてください! アグニヴ様!」


 アグニヴの黄金の瞳は、急速に赤く濁り始めていた。

 理性が狂気の淵へと引きずり込まれ、全身の筋肉が激しく痙攣している。

 傷口から広がる黒い毒素は、すでに心臓の近くまで届いていた。

 手持ちの薬草や軟膏では、この恐ろしい呪毒を中和することなど到底不可能だった。

 あと数分もしないうちに、アグニヴの命は内側から焼き尽くされてしまう。


(嫌だ……そんなの、絶対に嫌だ……!)


 帝国で誰にも顧みられなかった自分を、名指しで拾ってくれた人。

 不器用で、言葉足らずで、けれど誰よりも優しく、己の手を血に染めてまで自分を守り抜いてくれた人。

 この人を失うくらいなら、自分の命などいらない。

 その瞬間、ノアの脳裏に、幼い頃からの記憶が走馬灯のように駆け巡った。

 なぜ、自分が丁寧に調合した薬だけが、どんな名医の薬よりも早く傷を塞いだのか。

 なぜ、香りの薄い欠陥品と蔑まれた自分が、アグニヴの強大な瘴気に触れても倒れなかったのか。

 薬草の効能などではなかったのだ。

 ノア自身の手のひらに、魂の傷を直接塞ぎ、呪詛を光へと還元する【魂癒《こんゆ》の力】が宿っていたのだ。

 自分はずっと、自分の力に気づかないまま、薬草の力だと信じ込んでいただけだった。


「お願い……消えて……! この人を、私から奪わないで……!」


 ノアは腰のベルトから、薬草採取用の銀の短剣を引き抜く。

 迷いはなかった。

 自らの左の手のひらに刃を当て、思い切り真一文字に引き裂いた。

 鮮血が勢いよく噴き出す。

 鋭い痛みが走ったが、ノアはまばたき一つしなかった。

 ノアは血で染まった自らの手のひらを、アグニヴの左肩の黒ずんだ傷口へと真っ直ぐに押し当てた。

 傷と傷が重なり合い、二人の血が混ざり合う。

 その瞬間、回廊全体が昼間のような眩い光で満たされた。

 ノアの手のひらから、翡翠色に輝く莫大な魔力の奔流が解き放たれたのだ。

 清らかな光の粒子が、アグニヴの体内に侵入した呪毒を包み込み、猛烈な勢いで分解していく。

 黒く染まっていた血管が本来の血色を取り戻し、暴れ狂っていた邪竜の瘴気が、朝露のように蒸発して消えていった。

 アグニヴの体内深くに眠る竜の核が、ノアの温かな血に触れて歓喜の震えを上げる。


「……あ……ノ、ア……」


 アグニヴの喉から、かすかな声が漏れた。

 瞳から濁りが引いていき、本来の澄んだ黄金の光彩が戻ってくる。

 左肩の傷口はきれいに塞がり、黒い毒素は跡形もなく消滅していた。

 だが、その代償はあまりにも重かった。

 全身の生命力と治癒魔力を絞り尽くしたノアの身体から、急激に熱が失われていく。

 ノアの肌は陶器のように白く透き通り、瞳の焦点がゆっくりと合わなくなっていく。

 傷口から流れ出た血が、ノアの小さな手のひらを冷たく染めていた。


「よかっ……た……無事で……」


 小さく微笑んだ瞬間、ノアの小さな身体からふっと力が抜けた。

 糸の切れた人形のように、アグニヴの胸元へと前のめりに倒れ込む。


「ノア――ッ!!」


 正気を取り戻したアグニヴの絶叫が、回廊に響き渡った。

 抱き上げたノアの身体は、氷のように冷たく、呼吸は消え入りそうなほど微弱だった。

 切られた左の手のひらからは、まだ赤い血がぽたぽたと滴り落ち、アグニヴの漆黒の衣を濡らしている。

 イグニスやヴェルナーが血相を変えて駆け寄ってくるが、アグニヴの目には何も入っていなかった。

 世界が崩れ去るような絶望が、アグニヴの胸を打ちのめしていた。

 自分を救うために、ノアが自らの身体を切り裂いたのだ。

 自分の呪いが、この無垢で優しい少年を殺しかけている。


「死ぬな……死ぬな、ノア……! 目を開けろ!」


 アグニヴは自らの胸元で意識を失った小さな薬師を固く抱きしめ、狂乱したようにその名を叫び続けていた。

 夜の回廊には、打ち砕かれた硝子の破片と、消え去った光の残滓だけが虚しく横たわっていた。

 冷たい風が、二人の混ざり合った血の匂いを遠くへと運び去っていった。

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