第十一話「冷徹の仮面が剥がれた夜」
意識の底から這い上がってきたとき、ノアの五感を満たしたのは、白檀と冷たい雪峰の匂いだった。
視界を覆っていた深い霧が、少しずつ晴れていく。
まぶたを開けると、見慣れた竜王私室の重厚な梁と、天井から吊り下げられた柔らかな魔導灯の光が目に飛び込んできた。
部屋の暖炉では、薪がパチパチと赤く燃えており、心地よい温もりを部屋全体に広げている。
(私……あのあと……)
指先を動かそうとしたが、鉛のように重い。
左の手のひらには、清潔な白い包帯が幾重にも巻かれていた。
短剣で切り裂いた傷口は、微かな疼きを残すのみで、すでに丁寧に治療が施されている。
布団の端に目をやると、白銀の子竜ルカがノアの足元に丸くなり、心配そうに翡翠の瞳を潤ませてこちらを見つめていた。
ノアが目を覚ましたことに気づくと、ルカは甘えた声で短く鳴き、ノアの指先にそっと鼻先を擦り寄せてきた。
ルカの柔らかな温もりに触れ、ノアは自分が生きていることを実感した。
枕元から、衣擦れの音が耳に届く。
ゆっくりと首を巡らせたノアは、寝台の脇の椅子に腰掛けている人物の姿を捉えた。
アグニヴだった。
漆黒の短髪は乱れ、その彫刻のような美貌は青白くやつれていた。
いつも端正に整えられている衣服の胸元はわずかに着崩れ、黄金の双眸には赤い血走りが浮かんでいる。
どれほどの時間を、この寝台の傍らで過ごしていたのだろうか。
竜の王としての威厳の裏に、隠しようのない疲弊と憔悴がにじんでいた。
アグニヴの膝の上には、乾いた冷水用のタオルが置かれていた。
「……アグニヴ、様……」
かすれる声で呼ぶと、アグニヴの視線が跳ねるようにノアを捉えた。
その瞳に、一瞬だけ安堵の光が過る。
ノアは小さく安堵の息を吐き、包帯の巻かれた左手を、傷の癒えたアグニヴの左肩へと伸ばそうとした。
「よかった……お怪我は、もう痛まないですか……」
だが、差し伸べられたノアの手は、パチンと乾いた響きとともに払いのけられた。
「……っ」
払われた手のひらが、シーツの上に落ちる。
ノアは拒絶された痛みにまばたきを繰り返した。
見上げたアグニヴの顔は、かつて見たどの瞬間よりも冷たく、凍てついていた。
「……二度と、そのような真似をするな」
低く、押し殺した声音。
激しい怒りが、冷たい刃となって部屋の空気を切り裂く。
「誰が貴様に、己の血を流せと命じた。誰が己の命を削って余を救えと頼んだ」
「アグニヴ様……? でも、あの時は毒が心臓に届きかけていて……」
「余が死のうが狂おうが、貴様が知ったことではない!」
怒声が部屋に響き渡った。
アグニヴは立ち上がり、寝台の上のノアを見下ろした。
その全身から、制御を失った威圧の冷気が吹き荒れる。
部屋の隅にいたルカが耳を伏せ、怯えたようにノアの毛布の中へと潜り込んだ。
「余のために己の身体を切り裂くなど、二度と許さん! 貴様が死ねば……貴様がこのまま冷たくなれば、余がどれほどの地獄を味わうか……貴様には分からぬのか!」
アグニヴの喉が激しく震えていた。
その瞳には、ノアへの怒りではなく、大切なものを失いかけた者の、剥き出しの絶望と恐怖が燃え盛っていた。
払われた手を胸元でぎゅっと抱きしめながら、ノアの翡翠の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「どうして怒るんですか……! どうして、そんな酷いことを言うんですか……!」
ノアはシーツを蹴飛ばすように身を起こし、泣きながらアグニヴを睨み返した。
いつも控えめで、言われるがままに小さくなっていた薬師の口から、激しい感情の奔流が溢れ出した。
「私は……あなたに生きていてほしかっただけです! 死んでほしくなかった! 帝国で無能と罵られ、捨てられた私を、あなたが救ってくれたんじゃないですか! 温かいご飯をくれて、素晴らしい工房をくれて、誰も触ってくれなかった私の手を、あなたが握ってくれた! 新月の夜も、祝祭の夜も、あなたが血を流してまで守ってくれた!」
ノアの声は涙で途切れそうになりながらも、決して止まらない。
「私にとって、アグニヴ様はもう……ただの雇い主じゃないんです! 世界で一番優しくて、一番尊い私の王様なんです! その人が目の前で死にそうなのに、黙って見ていることなんて……私にはできません!」
ノアの叫びが、静寂の寝室を満たした。
打算も損得もない、魂の底からの真実の愛の告白。
アグニヴの黄金の瞳が大きく見開かれた。
竜王の唇が微かに震え、何かを言いかけようとした。
だが、次の瞬間、アグニヴは苦しそうに顔を背けた。
「……余は、貴様を利用しているだけだと言ったはずだ」
絞り出すような、冷たい拒絶の言葉。
「契約上の道具に情を抱く気はない。余の傍にいる限り、貴様は命を縮めるだけだ」
「嘘です……! そんなの、嘘です……!」
ノアが涙を流して叫ぶ声を聞きながら、アグニヴはそれ以上、ノアの泣き顔を見ていられなかった。
バサリとマントを翻し、アグニヴは逃げるように大股で寝室を飛び出していった。
重い鉄の扉が、重苦しい地鳴りを残して閉ざされる。
寝室に残されたノアは、シーツに顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
潜り込んできたルカが、ノアの濡れた頬を小さな舌で何度もなめ、寄り添っていた。
一方、回廊へと飛び出したアグニヴは、荒い呼吸のまま、目の前の頑丈な石壁に自らの拳を叩きつけた。
ドガァン、と凄まじい衝撃音が響き、石壁に蜘蛛の巣のような深い亀裂が走る。
拳から皮が剥け、赤い血がにじみ出たが、アグニヴは痛みすら感じていなかった。
柱の陰から姿を現した宰相ヴェルナーが、足音を忍ばせて歩み寄ってきた。
「我が主、それ以上石壁を破壊されては修理費が嵩みます。……ノア様にお気持ちを伝えられなかったのですか」
「……黙れ、ヴェルナー」
アグニヴは血のにじむ拳を強く丸め、苦悶に満ちた声を絞り出した。
「あの者は、余を生かすために己の血を流したのだぞ。余のために命を削ったのだ。……これ以上、あの無垢な者を余の業火に巻き込むわけにはいかん」
「王、ノア様は命を惜しんでなどおられません。貴方様と共に生きることを望んでおられるのです」
「余と共にいれば、いずれ死ぬ! 余の呪いが暴走すれば、次こそあの者を引き裂いてしまうかもしれんのだ!」
アグニヴの咆哮が、無人の回廊に響き渡る。
利用しているだけなど、大嘘だった。
ノアが意識を失っていた三日間、アグニヴは文字通り生きている心地がしなかった。
冷たくなっていくノアの小さな手を握り締めながら、自らの命も、竜の誇りも、この国すらも、ノアの命と引き換えにできるなら惜しくないと本気で思った。
冷徹な王の仮面など、とっくに崩壊している。
アグニヴはただ、一人の小さな薬師を渇望し、彼を失う恐怖に狂わされた、愚かな男に成り果てていた。
(余の呪いが……余の存在そのものが、あの者を死の淵へ追い詰める……)
ノアの澄んだ翡翠の瞳。
自分を生かすために自らの血を流したあの小さな傷口。
それを思い出すたびに、アグニヴの心臓は万力で締め上げられるように痛んだ。
これ以上、ノアを危険に晒すわけにはいかない。
たとえノアに憎まれようと、冷酷な暴君と蔑まれようと、ノアの命を守るためなら、アグニヴはどんな選択でもする覚悟だった。
ヴェルナーが深いため息とともに問いかけた。
「……では、王はどうされるおつもりですか」
「聖樹の塔へ移す。結界を二重に張り、余の呪いからも帝国の刃からも隔離せよ」
アグニヴは振り返ることなく、暗い回廊の奥へと立ち去っていく。
夜の静寂の中、冷たい風が、砕けた石壁の破片を寂しげになでていた。




