第十二話「すれ違う願いと聖樹の塔」
竜王城の北端、断崖絶壁の上にそびえ立つ『聖樹の塔』
太古の神木を取り囲むように建てられたこの石塔は、竜王国で最も堅固な結界が幾重にも張り巡らされた鉄壁の聖域だった。
ノアはその最上階の部屋に軟禁されていた。
清潔な寝台、豊富な書物、霊峰の薬草。
不自由なものは何一つなかったが、部屋の外へ出ることは固く禁じられている。
そして何より、あの夜以来、アグニヴは一度もノアの前に姿を見せていなかった。
(アグニヴ様……)
窓の外には、遠く霞む白氷峡谷と、国境の山並みが広がっている。
冷たい風がガラスを揺らすたび、ノアの胸に孤独な痛みが走った。
床に座り込み、膝を抱えるノアの膝元へ、白銀の子竜ルカがトコトコと歩み寄ってきた。
ルカはノアの膝の上に小さな前足を乗せ、翡翠の瞳を潤ませながら、ノアの頬に伝う涙をそっと舌でなめた。
まるで、泣かないでと慰めてくれているかのようである。
「ルカちゃん……ありがとう。私、情けないね」
ノアは力なく笑い、ルカの柔らかな頭をそっとなでた。
アグニヴに拒絶されたあの夜の言葉が、耳の奥から離れない。
本当に、自分はただの都合のいい道具だったのだろうか。
もう用済みになって、この塔に閉じ込められてしまったのだろうか。
不安と哀しみが渦を巻く中、重い樫の木の扉がギィと鈍い軋みをあげて開いた。
入ってきたのは、手帳と薬草の包みを抱えた宰相ヴェルナーだった。
「ノア様、ご体調はいかがですか。傷口の痛みはございませんか」
「ヴェルナー様……はい、手の手当てはもう大丈夫です。いつも薬草を運んでくださって、ありがとうございます」
ノアは立ち上がり、頭を下げた。
ヴェルナーは卓の上に新しい薬草の束を置き、ノアのやつれた横顔を痛ましげに見つめる。
「お顔の色がすぐれませんな。食事が喉を通らないとお聞きしておりますが」
「……すみません。どうしても、考えてしまって……アグニヴ様は、私のことが嫌いになってしまわれたのでしょうか」
絞り出すようなノアの問いかけに、ヴェルナーは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、首を横に振る。
「滅相もございません。我が主が貴方様を嫌うなど、天地が逆転してもあり得ぬことです」
「でも、一度も顔を見せてくれません……!」
ノアの悲痛な訴えに、ヴェルナーは深いため息を落とし、重々しく部屋の扉を閉ざした。
「……王は今、自室で荒れ狂う呪いの発作と、必死に戦っておられます」
「発作……!? また、アグニヴ様が苦しんでおられるのですか!?」
ノアは思わずヴェルナーに詰め寄る。
「なら、どうして私を呼んでくれないのですか! 私の血があれば、あの痛みを和らげられるのに!」
「まさに、それゆえでございます、ノア様」
ヴェルナーの声は沈痛に満ちている。
「王は、貴方様がご自身の血を流すことを、何よりも恐れておいでなのです。ご自身の命が削れることよりも、貴方様の身体が傷つくことに耐えられないのです。――それに、事態はそれだけではございません」
ヴェルナーは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、卓の上に広げる。
そこには、国境付近の地形図と、不穏な軍勢の配置が記されていた。
「オルディス帝国軍が、三万の精鋭魔導部隊を率いて国境峡谷へと進軍しております。奴らは、先日の暗殺未遂でノア様が奇跡の治癒力を見せたことを知りました。帝国の筆頭薬師ジェラルドは、王が呪いで衰弱死するのを好機と捉え、竜王国を侵略し、ノア様を自国の生体兵器として奪還する腹づもりです」
「帝国軍が……私を……?」
「左様でございます。王は今、呪いの激痛に耐えながら、帝国軍を迎え撃つための全軍の指揮を執っておられます。王が貴方様をこの聖樹の塔へ隔離されたのは、戦火から、そして帝国の毒牙から、何としても貴方様の命を守り抜くためなのです」
ヴェルナーの言葉が、ノアの胸を強く打つ。
アグニヴは自分を嫌って閉じ込めたのではなかった。
自らの命が風前の灯火であるにもかかわらず、ノアを守るためだけに、一人で絶望的な戦いに挑もうとしていたのだ。
(泣いている場合じゃない……! 私を守るために、あの人が命を捨てようとしているのに……!)
ノアの翡翠の瞳に、強い光が灯る。
弱々しくうつむいていた薬師は、もうどこにもいなかった。
「ヴェルナー様。この塔の図書室にある古文書を、すべて見せてください」
「古文書……でございますか?」
「太古の邪竜の呪いを、根源から解呪する方法を探すんです。私の治癒力と、竜王国の伝承を組み合わせれば、必ずアグニヴ様を救う道があるはずです!」
ノアの揺るぎない決意に、ヴェルナーは目を見張り、そして深々と一礼する。
「……承知いたしました。王には内密で、古文書室の鍵をお渡しいたします」
その日から、ノアの不眠不休の研究が幕を開ける。
塔の最下層にある古文書室には、竜王国の建国以前から蓄積された膨大な記録が眠っていた。
煤けた書架には、竜皮紙に刻まれた古代文字の記録が幾重にも積まれている。
ノアは薬草の知識を総動員し、ルカの助けを借りながら、羊皮紙を一枚ずつ紐解いていった。
難解な古代竜語の文法に頭を悩ませながらも、一文字ずつ丁寧に指でなぞり、意味を組み立てていく。
ルカは器用に高い棚から巻物を咥えて下ろし、ノアの足元で文字を照らすように魔導灯の角度を調整して手伝った。
小さな子竜もまた、大好きなアグニヴとノアを救うために必死だった。
ノアの胸元には、かつて祝祭で下賜された翡翠のブローチが微かに光を帯びていた。
触れれば、アグニヴの熱い手のひらの感触が昨日のことのように蘇る。
冷徹な仮面の下に隠されていた、不器用で狂おしいほどの愛。
あんなにも自分を大切にしてくれた人を、見殺しになどできるはずがなかった。
そして、満月の夜が近づいた三日目の深夜。
ノアは、埃まみれの神話の記述の中に、決定的な一節を発見した。
『太古の邪竜の黒痕は、魂の裂け目に巣食う虚無の毒なり。これを祓うは薬石にあらず、魂の波長が合致する運命の番による、全霊の結合のみ』
ノアの指先が震えた。
なぜ、自分のオメガフェロモンが帝国では誰にも感じ取れず、希薄と罵られていたのか。
欠陥などではなかった。
ノアの魂は、何百年に一度しか生まれない、竜王アグニヴというただ一人のアルファのためだけに調律され、鍵が閉じられていただけだったのだ。
二人は、出会うべくして出会った運命の番だった。
そして、うなじに刻まれた仮印を破棄し、アグニヴが真の番として牙を立て、互いの魂を深く融合させたとき、ノアが秘める魂癒魔力がアグニヴの竜核を満たし、邪竜呪詛を根源から消滅させることができるという。
「これなら……救える……!」
ノアは古文書を胸に抱きしめ、窓の外を見つめる。
夜空には、不気味に赤く輝く満月が昇り始めている。
そして、遠くの峡谷から、地響きのような爆発音と、帝国軍の進軍ラッパが響き渡った。
「待っていてください、アグニヴ様。今、参ります……!」
ノアは薬草袋を肩に掛け、決意を胸に立ち上がった。
棚から取り出したのは、かつて工房で調合した成長促進の秘薬だった。
幼竜の潜在能力を一時的に引き出し、巨竜へと成長させる神代の霊薬。
ルカはその小瓶を翡翠の瞳で見つめ、自ら進み出て薬液をごくりと飲み干した。
足元で、ルカの身体が眩い銀光に包まれ、逞しい巨躯へと姿を変えていく。
白銀の翼を大きく広げたルカが、ノアの前にひざまずくように首を垂れた。
ノアは迷うことなくその背に跨り、破壊された窓から戦場が広がる夜空へと飛び立った。
満月の冷たい光が、暗闇を切り裂いて飛翔する二つの影を力強く照らし出していた。




