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追放された平凡薬師は、冷徹な竜王の偽りの番になり溺愛される 〜呪いを解いたのは、無自覚な奇跡の手でした〜  作者: 水凪しおん


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第十三話「黒き邪竜と帝国の急襲」

 満月の夜、竜王城を取り囲む険しい峡谷は、紅蓮の炎と立ち込める黒煙によって凄惨な戦場へと変貌していた。

 空を赤く染める血のような月光の下、オルディス帝国の重装歩兵三万と、最新鋭の魔導戦車部隊が、防衛峡谷の石橋を力任せに突破しつつあった。

 大砲の轟音と魔導閃光が夜空を絶え間なく引き裂く。

 峡谷の両岸に築かれた竜王国の防衛陣地では、近衛騎士団長イグニス率いる戦士たちが必死の防戦を繰り広げていた。


「野郎ども、一歩も退くな! 我が国の王が後ろにおられるんだ! 帝国の犬どもを峡谷の底へ叩き落とせ!」


 イグニスの大剣が閃光を描き、襲いかかる帝国の魔導歩兵を薙ぎ払う。

 その隣では、宰相ヴェルナーが銀のレイピアを構え、冷静沈着に防衛結界の維持を指示していた。


「イグニス殿、前線を押し上げすぎないように。敵の狙いは主をおびき出すことにあります」


「分かってる! だが、このままじゃ結界が持たねえぞ!」


 帝国軍が持ち込んだ太古の遺物『魔封じの荊檻』から放たれる呪詛の結界が、竜人族の魔力を著しく減衰させていた。

 黒い霧が陣地を覆い、竜の戦士たちの動きを鈍らせていく。

 大地を揺るがす戦車の大砲が、防壁を次々と粉砕していった。


「進め! 竜の首を討ち取った者には、望むだけの領地と金貨を与えるぞ!」


 拡声魔道具を通して響く、下品で傲慢な怒声。

 金色の刺繍を施した華美な法衣をまとう男――オルディス帝国筆頭薬師ジェラルドが、安全な後方の指揮車の上で勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 ジェラルドの視線の先、砕け散った城門前の大広場には、ただ一騎で敵の大軍を迎え撃つ漆黒の巨影があった。

 竜王アグニヴ・ドラグニール。

 だが、その姿はすでに、人間の形を辛うじて留めているにすぎなかった。

 背中から生え出た巨大な漆黒の竜翼が、吹き荒れる暴風を巻き起こす。

 かつて彫刻のように美しかった相貌は、首筋から右頬、さらには額にかけて黒く脈打つ邪竜の鱗に覆い尽くされていた。

 左半身を蝕んでいた呪痕は、今や右半身にまで蛇のように這い回り、体内の血管という血管を紫黒の炎で焼き焦がしている。

 満月の引力と、連日の激痛。

 限界を迎えた太古の呪詛が、アグニヴの魂核を内側から食い破り、狂暴な邪竜の衝動を解き放っていた。


「グオオオオオッ――!!」


 天を震わせる苦悶の咆哮。

 アグニヴが竜の爪を振るうだけで、突進してきた帝国の重装戦車が紙屑のように両断され、爆炎を上げて吹き飛ぶ。

 近衛兵たちを背後に庇いながら、アグニヴは単身で敵の猛攻を押し留めていた。

 だが、どれほど敵を薙ぎ払おうと、アグニヴを真に苦しめていたのは敵の攻撃ではなかった。

 体内で暴れ狂う邪竜の呪詛が、アグニヴ自身の肉体と精神を引き裂いていたのだ。

 口元から黒い血を吐き散らしながら、黄金の瞳が徐々に紅蓮の狂気に呑み込まれていく。


(……ノア……逃げろ……遠くへ……)


 理性の残滓が、狂気の嵐の中で必死にノアの名を呼んでいた。

 あの愛しい少年を、自らの暴走で傷つけることだけはあってはならない。

 だが、破壊の衝動は津波のようにアグニヴの思考を塗り潰していく。

 それを見下ろすジェラルドの口元が、醜く歪んだ。


「くくく……見ろ、あの無様な姿を! 呪いに呑まれ、ただの狂竜に成り果てたわ!」


 ジェラルドが掲げた杖から、青黒い魔方陣が展開された。

 帝国の魔導士たちが一斉に呪文を詠唱し、地中から無数の黒い茨の鎖を射出する。

 帝国の秘宝『魔封じの荊檻』

 竜脈の力を強制的に遮断し、獲物を拘束する呪具だった。

 激痛に膝をついたアグニヴの巨躯へ、太い茨の鎖が何重にも巻きつき、その動きを力づくで封じ込める。

 皮膚に茨の棘が食い込み、青黒い血が石畳に滴り落ちた。


「ガ、アアッ……!」


 動けなくなった竜王を見下ろし、ジェラルドは嘲笑いながら魔導弓を構えさせた。


「死ね、呪われしトカゲの王よ! 貴様を屠った後、あの無能の出来損ないオメガを実験台として回収してやるわ!」


 ジェラルドの合図とともに、数百の魔導兵が一斉に呪縛の槍を投擲しようとした。

 竜王国の近衛騎士団長イグニスやヴェルナーが血路を開こうとするが、大軍の壁に阻まれ、到底間に合わない。

 そのときだった。

 はるか天空、聖樹の塔の頂から、まばゆい白銀の光芒が天を衝いた。

 夜空の厚い暗雲を切り裂いて、一筋の銀色の閃光が舞い降りる。

 キィィィィン、と空気を震わせる澄んだ飛翔音。

 白銀の光の中から現れたのは、巨大な翼を広げた一頭の雄大な白銀の竜だった。

 かつて工房の棚で甘えていた手のひらサイズの子竜ルカが、神代の薬によって真の姿を覚醒させた威容だった。

 ルカの頭上には二本の美しい白銀の角が生え、その瞳は翡翠のように澄み渡っている。

 巨大な翼がはためくたびに、清冽な冷気の風が巻き起こり、戦場の焦げ臭い煙を吹き散らしていく。

 そして、その白銀の背の上には、風に亜麻色の髪をなびかせるノアの姿があった。

 聖樹の塔から戦場へと向かう途中、ノアの脳裏をよぎったのは、これまでのアグニヴの温もりだった。

 冷たい雪山で凍え死にそうだった自分を拾い上げてくれたこと。

 新月の夜、激痛に耐えながら自分を愛おしそうに抱きしめてくれたこと。

 他国の貴族に侮辱されたとき、激しい怒りとともに守ってくれたこと。

 あの人はいつだって、言葉ではなく行動で、ノアに惜しみない優しさを注ぎ続けてくれたのだ。


「ルカちゃん、急いで! アグニヴ様のところへ!」


 ノアの呼びかけに応え、白銀の竜は速度を上げ、満月の光を背に受けて一直線に戦場へと急降下した。

 ノアはルカの首筋の柔毛をしっかりと握りしめ、戦火に呑まれた城門広場を見下ろしていた。

 黒煙の中、茨の鎖に縛られ、血を流して苦悶の咆哮を上げるアグニヴの姿が目に飛び込んでくる。

 胸が張り裂けそうな激痛がノアを貫く。


「アグニヴ様――ッ!!」


 ノアの叫びが、戦場全体に響き渡った。

 ルカが天空から急降下し、口元から純白の冷気ブレスを放射した。

 神聖な冷気の息吹が、アグニヴを取り囲んでいた帝国の魔導部隊と『魔封じの荊檻』を一瞬にして凍結させ、ガラス細工のように粉々に砕け散らせる。

 凍てついた魔導兵たちが悲鳴を上げて四散し、城門前に巨大な氷の防壁が形成された。

 ルカの咆哮が戦場を揺るがし、白銀の吹雪が敵陣の炎を消し止めていく。

 驚きに顔を引きつらせるジェラルドの眼前を飛び越え、白銀の竜は城門前の広場へと凄まじい地響きとともに着地した。


「な、なんだあの竜は!? 背に乗っているのは……ノアか!?」


 ジェラルドが動揺に叫ぶ中、ノアはルカの背からためらうことなく飛び降りた。

 手にしていたのは、薬草袋だけだった。

 武器も鎧も持たない、質素な薬師の服を着た華奢な身体。

 ノアの瞳は、目の前で黒い瘴気の炎に包まれ、理性を失いかけて咆哮する漆黒の巨影――アグニヴだけを捉えていた。


「ノア様、下がってください!」


 遠くから駆け寄るイグニスの叫びも、ノアの耳には届かなかった。

 アグニヴの身体から噴き出す凄まじい呪詛の突風が、ノアの頬を切り裂く。

 だが、ノアは一歩も引かなかった。

 自らのうなじに刻まれた仮の契約印が、呼応するように激しく熱を放っている。

 ノアは翡翠の瞳を真っ直ぐに見据え、暴れ狂う漆黒の竜王の懐めがけて、ためらうことなく駆け出した。

 もう、誰もノアを止めることはできなかった。

 自分を愛してくれた人の痛みを、その魂の叫びを、今度こそこの手で受け止めるために。

 満月の赤い光の下、ノアの足音が、砕けた石畳を踏みしめる乾いた音となって響いていた。

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