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追放された平凡薬師は、冷徹な竜王の偽りの番になり溺愛される 〜呪いを解いたのは、無自覚な奇跡の手でした〜  作者: 水凪しおん


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第十四話「暴虐の嵐と理性の崩壊」

 粉砕された城門前の石畳は、黒い竜脈の奔流によって激しく波打っていた。

 大気を焼き尽くす禍々しい瘴気の炎。

 背後で繰り広げられる帝国軍と竜王軍の激戦の騒乱すら、この一角では遥か遠くの出来事のように霞んでいる。

 ルカのブレスによって凍結した帝国部隊をイグニスたちが追撃する中、ノアはただ一人、黒煙渦巻く中心へと駆け出していた。

 吹き荒れる突風には、骨を凍らせる冷気と、肌を焦がす瘴気の熱が混ざり合っている。

 散らばる瓦礫に足を取られながらも、ノアの視線は前方の一点だけを見据える。

 かつてオルディス帝国で無能や出来損ないと罵られ、生きる意味すら見失いかけていた自分。

 そんな自分に生きる場所を与え、大切に慈しんでくれたのは、他ならぬ目の前の王だった。

 たとえ身体が引き裂かれようと、あの人を孤独な闇の中に置き去りにすることなどできなかった。

 だからこそ、ノアは前へ進む。

 震える足に力を込め、死の嵐が吹き荒れる中心へと一直線に駆けていく。


「アグニヴ様――ッ!!」


 声を限りに叫ぶノアの視線の先にいたのは、すでに人の輪郭を失いかけた異形の存在だった。

 漆黒の巨躯。

 背中からは三対の巨大な竜翼が広がり、全身を鎧のような硬質な黒鱗が覆い尽くしている。

 頭部からは天を衝く禍々しい角が生え、その口元からは、触れるものすべてを灰燼に帰す紅蓮の業火が漏れ出ていた。

 邪竜の魂蝕の呪いに呑み込まれ、理性を焼き切られたアグニヴの狂竜化だった。

 かつて澄んでいた黄金の瞳は、血の海のように昏い深紅へと濁り、敵味方の区別すら失っている。


「グルルルルァァァッ――!!」


 天を裂くような暴虐の咆哮。

 ノアの叫び声に反応し、巨竜の首がギチギチと骨を軋ませて回った。

 血塗られた赤眼が、広場を駆けてくる小さな人影――ノアを捉える。

 そこに、かつてノアを愛おしそうに見つめていた知性のかけらは微塵もなかった。

 あるのは、ただ目の前の生命を破壊し尽くさんとする、純粋な殺戮の衝動のみ。

 巨竜の巨大な前足が、轟音とともに振り上げられた。

 山をも砕く竜の鉤爪が、容赦なくノアの頭上めがけて振り下ろされる。


「ノア様、逃げてください! 今の王には誰の声も届きません!」


 遠くからヴェルナーの悲鳴のような絶叫が届いた。

 だが、ノアは足を止めなかった。

 振り下ろされた爪の直撃を避けるように横へ転がったが、地面を叩き割った衝撃波だけで身体が吹き飛ばされる。

 石畳に叩きつけられ、着ていた薬師服が裂けた。

 肩や額を擦りむき、白い柔肌から赤い血がじわりとにじみ出る。

 激痛に息が詰まりそうになる。

 だが、その傷口から流れ出た血の匂い――白百合と蜂蜜が混ざり合う濃厚なオメガフェロモンが、風に乗って戦場へと拡散した。

 自分を呼ぶ香りに巨竜がわずかに動きを止め、血走った眼球をぎょろりと動かした。


(逃げない……逃げるものか……!)


 ノアは震える両腕で地面を押し、血塗れの膝で再び立ち上がった。

 首筋の仮の契約印が、火傷しそうなほどの熱さで脈打っている。

 ノアは翡翠の瞳を見据え、再び爪を振り上げようとする巨竜の正面へと、真っ直ぐに歩み出た。


「逃げません……! 私はあなたの番です!」


 澄んだ叫びが、暴風を突き抜けて響き渡る。


「契約の道具なんかじゃない! 偽りの番なんかじゃない! 私は、世界でたった一人の……あなたの番です!」


 ノアは両手を大きく広げた。

 逃げるためではなく、自らを砕こうとする暴力のすべてを受け止めるように。

 命を捨てる覚悟で、無防備な胸元を晒した。

 帝国で虐げられていた頃の自分なら、ただ縮こまって死を受け入れていたかもしれない。

 だが、今のノアには守りたい人がいた。

 愛してくれる人がいた。

 たとえここで命が尽きようとも、アグニヴの孤独をこの命で終わらせられるなら、悔いなど微塵もなかった。

 巨竜の腕が、疾風の勢いで振り下ろされる。

 空気が爆縮し、死の爪がノアの額へと迫る。

 その瞬間。

 ノアの瞳から零れ落ちた大粒の涙と、血の香りに混ざり合う甘いフェロモンの匂いが、巨竜の鼻腔を真っ直ぐに貫いた。

 爪が、ノアの額のわずか数ミリ手前で、ピタリと静止した。

 風圧だけでノアの亜麻色の前髪が激しく跳ね上がる。


「……グ……ァ……」


 巨竜の喉から、軋むような苦悶の呻きが漏れた。

 紅蓮に染まりきっていた両目が、激しく明滅を繰り返す。

 破壊の衝動の奥底、何層もの黒い呪詛に閉ざされていた魂の核に、ノアの叫びと香りが光の楔となって打ち込まれたのだ。

 その瞳に、一瞬だけ、黄金の光彩が揺らめいた。


「アグニヴ様……私を見て……思い出してください……!」


 ノアは震える手を伸ばし、目の前の鋭い黒鱗に覆われた巨大な前足に、そっと自らの血のついた手のひらを重ねた。

 温かな体温と、清らかな魂癒の魔力が、皮膚を通して巨竜の神経へと流れ込んでいく。

 その瞬間、巨竜の巨躯が激しく痙攣した。

 バキバキと凄まじい破壊音を轟かせ、黒い角や巨大な翼が崩落するように縮退していく。

 黒煙と光の粒子が巻き起こり、巨竜の姿は急速に人の形へと押し戻されていった。

 ドサリ、と重い衝撃で石畳に膝をつく男の姿。

 漆黒の短髪を汗で濡らし、血を吐きながら荒い息を繰り返すアグニヴだった。

 その黄金の瞳には、先ほどの狂気は消え去り、消え入りそうな理性の光が戻っていた。


「……ノ……ア……?」


 かすれ切った、信じられないものを見るような声。

 アグニヴは震える右手を伸ばそうとしたが、自らの爪が血に染まっているのを見て、怯えたように手を引っ込めようとした。


「なぜ……逃げろと……言ったのに……貴様を、殺すところだったのだぞ……!」


 自分を責めさいなむ痛切な呻き。

 その言葉を聞いた瞬間、ノアの胸の奥で張り詰めていた感情の糸が、プツンと切れた。

 ノアは泣き叫びながら駆け寄り、泥と血にまみれたアグニヴの首元にしがみついた。


「逃げるわけないでしょう……!!」


 ノアは両腕にありったけの力を込め、アグニヴの広い首筋を固く、固く抱きしめた。

 アグニヴの熱い体温が、ノアの全身を包み込む。

 抱きしめられたアグニヴの身体が、微かに震えていた。

 強大な力で国を守り、孤独に呪いと戦い続けてきた男が、今、子供のように怯えていた。


「あなたを置いて逃げるくらいなら、一緒に死んだほうが何千倍もマシです……! どうして分からないんですか、この大ばか者……!」


 涙でぐしゃぐしゃになったノアの顔が、アグニヴの首筋に押し付けられる。

 温かな涙が、アグニヴの皮膚を濡らしていく。

 アグニヴの黄金の瞳が大きく見開かれた。

 自らを怪物と恐れず、命を投げ出してまで抱きしめてくれる、この小さな薬師の無償の愛。

 アグニヴの喉が激しく震え、その逞しい両腕が、折れそうなほど強くノアの腰を抱き返した。


「……ノア……我が、愛しい者よ……」


 二人の混ざり合う吐息が、冷たい夜風の中で白く溶け合っていた。

 夜空の満月が、血の赤色から清らかな白銀の輝きへと、緩やかに色を変え始めていた。

 アグニヴの腕に込められた力は、壊れ物を抱きしめるように切実で、温かい。

 ノアはその温もりに包まれながら、自らのうなじに触れるアグニヴの熱い息を感じていた。

 だが、アグニヴの胸元で脈打つ呪痕は、まだ消え去ったわけではない。

 心臓の奥底で、最後の呪詛の火種が、アグニヴの命を呑み込もうとうごめいていた。

 アグニヴの身体が再び苦痛に震え、喉から小さな呻きが漏れる。

 残された時間は、もう数分もなかった。

 夜空に冴え渡る満月の光が、寄り添い合う二人の姿を静かに照らし出していた。

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