第十五話「魂を繋ぐ真実の番」
正気を取り戻したのも束の間、アグニヴの身体を再び激しい痙攣が襲った。
胸元の皮膚の下で、青黒い邪竜の呪詛が血管を締め上げるように脈打ち、心臓の核を握り潰そうと暴れ狂っている。
アグニヴは荒い息を吐きながら床の石畳に突っ伏し、口元から血の泡をこぼした。
残された時間は、もう数分もなかった。
このままでは、アグニヴの魂核そのものが粉々に砕け散ってしまう。
そのとき、吹き飛んだ城門の瓦礫の陰から、狂気に満ちた叫び声が響いた。
「死ねぇぇッ! 出来損ないの分際で、私の栄華を邪魔するなぁッ!」
泥と煤にまみれたジェラルドが、血走った眼球を見開き、最後の呪具である黒い短筒をノアめがけて構えていた。
かつてオルディス帝国の宮廷でノアを嘲笑い、手柄を奪い、死地へと追放した悪徳薬師。
己の失脚を悟り、逆上した男の指が引き金にかけられる。
放たれようとした凶弾。
だが、その引き金が引かれるよりも早く、上空から巨大な白銀の影が舞い降りた。
ルカの尾の一撃がジェラルドの腕を薙ぎ払い、短筒が宙を舞って粉砕される。
同時に、駆けつけてきた近衛騎士団長イグニスの一刀が、ジェラルドの足元の石畳を両断した。
「動くな、帝国のネズミ野郎! これ以上の無礼は、このイグニスの首を賭けて許さねえ!」
近衛兵たちが一斉に群がり、悲鳴を上げる悪徳薬師を力づくで組み伏せる。
ジェラルドは地面に顔を押し付けられ、泥を噛みながら悔しげに喚き散らしていた。
「離せ! 私は帝国の宮廷筆頭薬師だぞ! あんな出来損ないオメガに、何ができるというのだ!」
だが、その見苦しい叫びに耳を貸す者は誰もいなかった。
イグニスは冷淡に唾を吐き捨て、縄で男を戒めた。
帝国が企てた卑劣な謀略は、ここに露と消え去る。
だが、ノアの視界には、ジェラルドの姿など最初から映っていなかった。
ノアのすべては、苦悶に身をよじるアグニヴだけに注がれていた。
アグニヴの皮膚の熱さは限界を超え、今にも自壊しようとしている。
薬草も、手当ての軟膏も、もう何の意味も持たなかった。
残された道は、古文書に記されていた魂の儀式ただ一つ。
ノアは自ら、震える手で着ていた服の襟元を力任せに引き裂いた。
布地が裂け、夜風に晒されたのは、白く柔らかな自らのうなじだった。
そこには、初めてドラグナーの地に足を踏み入れた日、アグニヴの手によって刻まれた『仮の契約印』が、淡い藍色に光っていた。
いつでも解除できる、仮初の番の証。
「アグニヴ様、噛んでください」
ノアは膝をつき、倒れ伏すアグニヴの顔を両手で包み込んだ。
澄んだ翡翠の瞳が、苦痛に歪む黄金の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「この仮の印を、あなたの牙で消してください。私を噛んで……あなたの本当の番にしてください!」
アグニヴの喉が激しく震えた。
血塗れの指先が、ノアの白い頬に震えながら触れる。
「……阿呆が……何を言っている……」
かすれ切った、痛切な拒絶。
「余の真の番になれば……貴様は一生、余の魂と繋がれ、二度と離れられなくなるのだぞ……余のような、呪われた男の毒に染まって……後悔しないと言えるのか……!」
失うことへの恐怖。
愛するがゆえに、ノアを己の呪縛に巻き込みたくないという、アグニヴの最後の理性だった。
その不器用で高潔な優しさに、ノアの目から温かい涙が溢れ出した。
ノアは泣き笑いの表情を浮かべ、自ら顔を近づけた。
そして、アグニヴの熱く乾いた唇へと、自らの柔らかな唇をそっと重ねる。
甘く、切なく、互いの血と涙の味が混ざり合う、二人の初めての口づけ。
重なり合う吐息の中で、ノアは微笑んだ。
「呪われた男なんかじゃありません。あなたは世界で一番優しくて、一番強い私の竜王様です。私を、あなたのものにしてください。あなたとなら……どんな運命でも、喜んで受け入れます」
その言葉に、アグニヴの黄金の瞳から、一筋の熱い涙が零れ落ちた。
もう、迷いはなかった。
アグニヴの逞しい腕がノアの後頭部を力強く引き寄せ、剥き出しになった白い柔肌へと唇を埋める。
鋭く伸びた竜の牙が、仮の印の刻まれたうなじへと、深々と突き立てられる。
肉を貫く鋭利な激痛。
ノアの喉から小さな悲鳴が漏れかけたが、次の瞬間、痛みを遙かに凌駕する熱い歓喜の奔流が全身を貫いた。
アグニヴの牙を通して、二人の魂の核がダイレクトに結合する。
ノアの体内に眠っていた【魂癒の魔力】の全霊が、ダムを決壊させた奔流のようにアグニヴの体内へと注ぎ込まれていく。
それは、言葉や肉体を越えた、魂そのものの融解だった。
ノアの意識の中に、アグニヴがこれまで一人で背負ってきた激痛の記憶が流れ込んでくる。
先代の死、民を守るための重責、他者を寄せ付けぬ孤独、そして自壊の恐怖。
そのすべてを、ノアの清らかな愛が包み込み、癒やしていく。
一方、アグニヴの心の中にも、ノアの過去の傷が流れ込んでいた。
香りの薄いオメガとして蔑まれた日々、地下室での孤独、誰にも信じてもらえなかった絶望。
傷つき、泣いていた小さな魂を、アグニヴの強靭で深い愛情が力強く抱き留めた。
アグニヴは腕の中のノアをさらに強く抱きしめ、二度と離さないと魂の芯で誓った。
二人のフェロモンが激しく混ざり合い、天と地が共鳴した。
白百合の甘美な香りと、白檀と冷たい雪峰の香りが一つに溶け合い、戦場全体を清らかな香気で包み込む。
二人の身体を中心に、白銀と黄金が混ざり合う神聖な光の柱が天を突き抜けた。
戦場を覆っていた暗雲が吹き飛ばされ、夜空が昼間のように白く染まる。
光の奔流の中で、アグニヴの全身を蝕んでいた邪竜の黒痕が、パリンと硝子の割れるような澄んだ響きとともに砕け散った。
何百年もの間、竜王の魂を苛み続けてきた太古の呪詛が、清らかな光の粒子となって朝焼けの空へと溶けていく。
光が穏やかに収まり、戦場に夜明けの静寂が訪れた。
石畳の上に座り込む二人の姿。
呪いを祓い終えたアグニヴの肌は、黒痕の欠片もなく、神々しい金色の輝きを取り戻していた。
左の首筋には、邪竜の呪痕の代わりに、ノアの魂と永遠に結ばれた白百合の神聖な紋章が美しく浮かび上がっている。
そして、その腕の中には、役目を果たして安らかな寝息を立てるノアがいた。
アグニヴは、腕の中の愛しい伴侶をこの上なく大切に抱きしめ、その額に何度も愛おしそうに口づけを落とした。
満ち足りた歓喜の涙が、アグニヴの頬を伝ってノアの白い頬に落ちる。
東の稜線から、眩い朝日の光が差し込んできた。
新時代の幕開けを告げる春の陽光が、抱き合う二人を温かく包み込んでいた。
ノアが微かに身じろぎし、長いまつげを震わせてゆっくりと目を開けた。
至近距離で見つめ返す、澄み切った黄金の瞳。
そこには、かつての氷のような冷徹さは微塵もなく、蕩けるような甘さと熱烈な愛情だけが湛えられていた。
「……アグニヴ、様……?」
「ノア。余の、唯一無二の伴侶よ」
アグニヴは慈しむようにノアの頬に手を添え、柔らかく微笑んだ。
生まれて初めて見る、アグニヴの心からの柔らかな笑顔。
その美しさに、ノアの胸は歓喜で満たされた。
「呪いは……もう痛まないですか」
「ああ。お前が、余を救ってくれたのだ。生涯かけて、余のすべてでお前を幸せにすると誓おう」
アグニヴは再びノアの唇を甘く塞いだ。
ルカが誇らしげに翼を広げ、勝利の咆哮を朝焼けの空へと高らかに響かせた。
城壁の上から見守っていた竜の兵士たちから、歓喜の叫びが地鳴りのように湧き起こる。
春の柔らかな風が、二人の結ばれた愛を祝福するように、吹き抜けていった。




