第十六話「戴冠の夜と永遠の誓い」
戦火の嵐が去り、白氷峡谷に本格的な春の雪解けが訪れてから、ひと月が過ぎていた。
霊峰を取り囲む峻険な山々は、萌え出る新緑と可憐な高山植物の花々によって瑞々しく彩られている。
長く閉ざされていた峡谷の関所は解放され、春の柔らかな日差しが、雪解け水をきらきらと輝かせていた。
オルディス帝国は、筆頭薬師ジェラルドの独断による侵略と呪具を用いた暗殺未遂の罪を正式に認め、竜王国ドラグナーに対して莫大な賠償金の支払いと不可侵条約の締結を申し入れてきた。
帝国の薬師ギルドは抜本的に再編され、ノアに被せられていた不当な横領の罪はきれいに雪がれ、宮廷薬師としての名誉は回復された。
帝国からは特使を通じて、高禄をもって宮廷筆頭薬師として迎え入れたいという復権の要請が届いていたが、ノアは迷うことなくそれを辞退する。
なぜこれほどの厚遇を断るのかと呆然とする使者の前で、ノアは柔らかに微笑んで答えた。
「私の薬を必要としてくださる大切な方々が、この城におられます。私の居場所は、ここしかありません」
ノアの居場所は、心優しい子竜と、自分を魂から愛してくれる不器用な王がいる、この雪峰の城だけに他ならない。
爛漫の春光が降り注ぐ大聖堂の控えの間で、ノアは大きな姿見の前に立っていた。
(本当に……夢みたいだ……)
ノアが身にまとうのは、竜王国国宝である白銀の絹織物に、無数の細やかな翡翠宝飾が施された最高格式の王妃礼装である。
繊細な銀糸のレースが手首を飾り、足元まで優美に広がる裾には、竜脈の加護を宿す宝石が縫い込まれている。
胸元には、アグニヴの漆黒の鱗を磨き上げて作ったペンダントが、ノアの心臓の上で温かく脈打っていた。
数ヶ月前、吹雪の白氷峡谷で凍死寸前だった、あの惨めな追放者の姿はどこにもない。
手袋を外したノアの左の手のひらには、あの日アグニヴを救うために刻んだ傷跡が、うっすらと白く残っている。
それは、二人のかけがえのない絆の証だった。
薬草の染み付いた平凡な指先を、アグニヴはいつも愛おしそうに口づけてくれた。
部屋の隅から、トコトコと足音が近づいてくる。
ノアの足元によじ登ってきたのは、白銀の子竜ルカだった。
神代の薬の効果が切れ、再び愛らしい手のひらサイズに戻ったルカは、首に小さな翡翠のリボンを結んでもらい、得意げに胸を張っていた。
ルカはノアの肩へとよじ登り、頬にすりすりと顔を寄せて甘える。
「ルカちゃん、くすぐったいよ。冠を落としちゃうから、じっとしていてね」
ノアが指先で顎の下をそっとなでてやると、ルカは目を細めて甘えた声で短く鳴いた。
聖堂の外から、祝福のトランペットが高らかに吹き鳴らされた。
控えの間の重厚な扉が音もなく左右へと開く。
そこに立っていたのは、純白と濃紺の華麗な大礼服に身を包んだ竜王アグニヴだった。
邪竜の黒痕がすっかり消え去ったアグニヴの美貌は、神々しいほどに整い、均整の取れた長身を際立たせていた。
かつてその双眸を覆っていた冷徹な氷の仮面は、どこにも見当たらない。
扉の向こうで佇むノアの姿を捉えた瞬間、アグニヴの黄金の瞳が蕩けるような熱い光を宿した。
アグニヴは大股で歩み寄り、ノアの前に片膝をついた。
竜の君主が、一人の人間の少年に向けて、恭しく頭を垂れたのだ。
アグニヴはノアの左手を両手で大切そうに包み込み、手の甲に深い口づけを落とす。
「……見惚れるほど美しい、余の愛しい伴侶よ」
「アグニヴ様……! 立ってください、皆様が見ておられます……!」
顔を真っ赤にして慌てるノアの手を引いて、アグニヴは立ち上がった。
アグニヴはノアの腰を抱き寄せ、その細い首筋――白百合の番の刻印に、熱い吐息を吹きかけながら囁く。
「見せつければよい。お前が余の伴侶であり、この国の魂であることを、全土の民に知らしめる日だ」
甘く低く響くアグニヴの声。
かつての命令口調の裏に隠されていた過保護と独占欲は、今や隠す気すらない堂々たる溺愛へと昇華していた。
ノアは赤面しながらも、アグニヴの胸元の襟を小さく整えてやった。
「アグニヴ様も、とても素敵です。世界で一番かっこいい私の竜王様です」
ノアが控えめに微笑み返すと、アグニヴは不意を突かれたようにまばたきし、それからたまらないといった風にノアの額に額をコツンと当てた。
「……まったく、無自覚にお前は余を骨抜きにする」
低く苦笑するアグニヴの声音は、砂糖菓子よりも甘い。
二人の間に流れる、満ち足りた温かな空気。
控えの間の扉の向こうから、ヴェルナーが穏やかな声で声をかけてきた。
「主、ノア様、そろそろお時間でございます。全軍および民衆が、お二人の入場を心待ちにしております」
「ああ、今いく」
アグニヴはノアの手を愛おしそうに握り直した。
大きな手のひらから、力強い体温がじんわりと伝わってくる。
大聖堂の巨大な鐘が鳴り響き、式の始まりを告げた。
アグニヴの手を握り締め、ノアは大聖堂の巨大な扉をくぐり抜けた。
パイプオルガンの荘厳な調べが響き渡る中、二人は大理石の回廊を歩んでいく。
色鮮やかなステンドグラスから、虹色の光が二人の歩みを祝福するように降り注いでいた。
両脇に並ぶ竜人族の将軍たち、近衛兵たち、そしてかつてノアを侮辱した保守派の貴族たち。
近衛騎士団長イグニスが眩しそうに破顔して胸を叩き、宰相ヴェルナーが眼鏡の奥の目を細めて穏やかに一礼する。
貴族たちは今や、国を救った薬師妃に対して、誰よりも深々と敬意を込めて平伏していた。
祭壇の前で、竜王国の最高位の神官が恭しくひざまずき、神聖なる誓約の祝詞を唱えた。
神官の手からアグニヴへと渡されたのは、白銀の霊峰と薬草の花弁を象った、純白の王妃冠だった。
アグニヴはその冠を両手で掲げ、ノアの翡翠の瞳をじっと見つめる。
二人の瞳が絡み合い、言葉のない愛の対話が交わされる。
出会った日の吹雪、新月の夜の苦痛、温室での戸惑い、そして戦場での命がけの叫び。
二人が積み重ねてきたすべての時間が、この瞬間のためにあったのだと実感する。
アグニヴはノアの亜麻色の髪の上へと、厳かに、慈しみを込めて戴冠した。
大聖堂の鐘が一斉に鳴り響き、万雷の祝福が堂内を満たした。
二人は手を携え、太陽の光が降り注ぐ中央バルコニーへと進み出た。
城壁の下を埋め尽くした十万の民から、地鳴りのような大歓声が湧き起こる。
竜人たちの拍手と、空を旋回する飛竜たちの祝砲のブレス。
広場には色とりどりの花びらが敷き詰められ、子供たちが手作りの薬草花冠を掲げて笑っていた。
青空に七色の煙が舞い上がり、春風が二人の髪を心地よく揺らしていた。
アグニヴはノアの肩を抱き寄せ、民衆の前で、正面からノアの顔を包み込んだ。
「余の命も、魂も、この国のすべてをお前に捧げよう。生涯、余の腕の中から逃がす気はない」
力強く、揺るぎのない至高の誓約。
ノアの翡翠の瞳から、嬉し涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「はい……どこへも行きません。生涯、あなたの隣にいます」
アグニヴはノアの唇を、深く、熱く奪った。
衆人環視の前で交わされた、甘美で永遠の口づけ。
ノアはアグニヴの首元に両手を回し、全身でその深い愛を受け止めた。
広場から沸き起こる割れんばかりの歓声と、ルカの誇らしげな鳴き声。
春の柔らかな陽光が、見つめ合い微笑む二人を、永遠の祝福とともに包み込んでいた。
かつて捨てられた薬師の手のひらに、世界で一番温かい幸福の花が満開に咲き誇っていた。
吹き抜ける春風が、白銀の花吹雪を空高く舞い上げていった。




