番外編 第一話「氷の竜王の独白」
◇アグニヴ視点
世人は余を『冷徹なる竜王』と呼ぶ。
太古の邪竜の呪いをその身に宿しながら、オルディス帝国の野心を退け、霊峰の覇者として君臨する無慈悲な君主。
だが、その仮面の下にある真実を知る者は、この世界に一人もいない。
余は最初から、冷徹な王などではなかった。
あの小さく華奢な薬師――ノア・エルディアンと出会ったあの日から、余はただ一人のオメガに狂わされた、哀れで飢えた野獣にすぎなかったのだ。
白氷峡谷の吹雪の中、ヴェルナーに命じて連れてこさせた馬車の中で、余は初めてノアの寝顔を見た。
継ぎ接ぎだらけの粗末な外套に包まれ、寒さに震えながら眠る姿。
帝国で無能や欠陥品と罵られ、死刑宣告にも等しい追放を言い渡されたと報告を受けていた。
だが、青白い雪明かりに照らされたその顔立ちを見た瞬間、余の胸の奥深く、呪いに侵されていた竜の核が、ドクンと激しく脈打った。
鼻腔をかすめたのは、かすかだが、どこまでも清らかな白百合と陽だまりの香り。
魂の奥底で、竜の本能が咆哮を上げていた。
見つけた、と。
太古の昔より定められた、余の唯一無二の伴侶を。
翌朝、謁見の間で対面したときのことを、余は昨日のことのように覚えている。
玉座から見下ろしたノアは、怯えきった小動物のように小柄だった。
余の全身から漏れ出る邪竜の瘴気は、並の戦士であれば息をすることすらためらうほどの毒気である。
それなのに、ノアは逃げ出さなかった。
澄み切った翡翠の瞳で、余の首筋の醜い呪痕を真っ直ぐに見つめ、哀しそうに眉根を寄せたのだ。
その瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく、余の苦痛に対する純粋な同情だった。
胸がえぐられるような衝撃を覚える。
生まれたときから最強のアルファとして崇められ、呪いを受けてからは化物として恐れられてきた余に対して、痛むのかと涙ぐむ者がこの世に存在するなど、夢にも思わなかった。
「……余の『偽りの番』となってもらうためだ」
冷淡な言葉で突き放したのは、他でもない、自らの脆さを隠すための虚勢に過ぎない。
呪いに侵された余の命は、長くてあと一年。
いずれ狂竜と化して死にゆく運命の男が、こんな清らかな者を本気で番にしてよいはずがない。
余に情を抱くな、余の心に踏み込むなと厳命したのも、すべてはノアを守るため、そして何より、ノアに拒絶されることを恐れた余の痩せ我慢にすぎなかった。
だが、城での生活が始まってからというもの、余の理性の防壁は日々粉々に打ち砕かれていった。
第一の誤算は、甥のルカだった。
前竜王の遺児であるあの幼竜は、余の瘴気に怯えて奥宮に閉じこもり、側近の誰の手にも懐かない。
それなのに、工房を覗きに行った余の目に飛び込んできたのは、ノアのエプロンのポケットにすっぽりと収まり、喉元を震わせて甘えるルカの姿だった。
(……許せん)
我が甥ながら、本気で殺意が湧く。
余ですらまだ触れることを許されていないノアの鎖骨のあたりに、あの白い毛玉は我が物顔で頬を擦り寄せていたのだ。
しかも、余が手を差し伸べれば威嚇し、ノアの首元へと逃げ込む始末。
余の番のうなじを独占するなど、たとえ幼竜だろうと万死に値する不敬である。
工房から戻った後、余は執務室で窓枠を握り潰しそうになりながら、激しい嫉妬を必死に押し殺していた。
第二の誤算は、訓練場での出来事だった。
執務室の窓から見下ろすと、ノアが騎士団長イグニスや若い兵士たちに囲まれ、手製の湿布を貼ってやっていた。
兵士どもが頬を赤らめ、ノアにお礼の木彫りを渡し、ノアが春の陽だまりのような満面の笑みを返している。
その瞬間、余の全身の血が沸騰した。
窓枠にヒビが入るほどの冷気を放ちながら、余は即座にイグニスを極寒の氷壁警備へ左遷しようと考えたほどだった。
自分以外の男に笑顔を向けるノアの姿など、一秒たりとも見たくなかったのだ。
そして、新月の夜の看病。
激痛に耐えかねて寝室で暴れていた余の元へ、ノアは逃げることもせず飛び込んできた。
冷たくて柔らかい小さな手のひらが、激しく熱を帯びた首筋に触れた瞬間、余の頭の中は真っ白になった。
痛みが引いたからではない。
ノアの身体から立ち上る甘い匂いと、慈しむような優しい声が、余の五感を激しく麻痺させたのだ。
抱き止めた細い腰。
腕の中にすっぽりと収まる華奢な体躯。
今すぐ首筋に牙を立て、この無防備な薬師を余だけのものにしてしまいたいという衝動が、邪竜の呪いよりも激しく全身を焼き焦がした。
「……阿呆が。余に触れるなと命じたはずだ」
そう口にしながら、余は朝が来るまでノアを自らの腕の中から解放することができなかった。
手放せば、この温もりが幻となって消えてしまうと怯えていたのだ。
そして、冬至の祝祭前夜の大温室。
あの夜の出来事は、今思い出しても奥歯が軋むほど悔恨と渇望が入り混じる。
月光睡蓮の咲く泉の畔で、足を踏み外したノアを抱き止めた瞬間。
過敏になったノアの肌から、これまでになく濃厚な蜂蜜の花蜜の香りが溢れ出した。
その甘美さに、余のアルファの本能は箍が外れかけた。
白い柔らかなうなじ。
そこに刻まれた、余の手による淡い仮初の刻印。
牙を突き立ててその印を塗り潰し、己の血を注ぎ込んで真の伴侶としてしまえば、どれほど満たされるだろうか。
鋭く伸びた犬歯がうなじに触れそうになった瞬間、見開かれたノアの翡翠の瞳が目に入った。
困惑と、微かな恐れ。
その純粋無垢な眼差しに、余は我に返った。
力で奪えば、余はあのオルディス帝国の下劣な輩と何ら変わらぬ獣に成り下がる。
ノアに恐れられ、嫌われることだけは、死ぬことよりも恐ろしかった。
身体を引き離し、冷淡な言葉を吐き捨てて温室を逃げ出した後、余は自室の浴室で冷水を頭から浴び続けた。
真冬の冷水をどれほど浴びても、ノアの甘い匂いは皮膚の奥から消え去らなかった。
自室の寝台で、ノアの腰を抱いた右手を自らの胸に押し当て、余は一晩中、激しい懊悩に身悶えしていたに過ぎぬ。
そして、冬至の祝祭当日。
バルコニーで他国の貴族どもに取り囲まれ、気丈に胸を張っていたノアの姿。
ノアが、自分はアグニヴの苦痛を和らげるためのただの道具にすぎないと口にした瞬間、余の心臓は氷の刃で貫かれたようだった。
道具などではない。
どれほど余がお前という存在そのものに救われ、渇望しているか、何一つ伝えていなかった己の愚かさに怒り狂った。
貴族どもを一喝して追い払った後、夜風に震えるノアを腕の中に抱きしめたとき、その頬を伝う涙を見て、余は己の不器用さを心の底から呪ったのだ。
さらに、帝国の刺客に襲われ、ノアが余を救うために己の手のひらを切り裂いたあの夜。
冷たくなっていくノアを抱きしめながら、余は神に祈り、呪いに抗い、ノアの命と引き換えなら己の命などいくらでも差し出すと狂乱していた。
三日三晩、眠ることも忘れてその手を握りしめ続けた。
あの時ほど、己の無力さを恨んだことはなかった。
(冷徹な竜王など、最初からどこにもいなかった……)
余はあの小さな薬師に出会ったその日から、ただの哀れで飢えた獣に他ならぬ。
あの無垢な笑顔を自分だけのものにしたい。
あの小さな手を永遠に握りしめていたい。
その願いこそが、邪竜の闇に呑まれかけていた余の魂を繋ぎ止める、唯一の光だったのだ。
執務机の上の書類から目を上げ、余は窓の外を見つめた。
春の薬草園で、ルカを連れて楽しそうに野草を摘むノアの姿が見える。
太陽の光を浴びて輝く亜麻色の髪。
余のすべてを賭けて手に入れた、世界で一番愛しい至宝。
余は立ち上がり、愛しい伴侶の待つ庭へと、足早に歩みを進めた。




