番外編 第二話「侍従長の観察日誌」
◇ヴェルナー視点
竜王国宰相兼侍従長、ヴェルナー・ラインハルトの頭痛の種は、ノア様がこの『ドラグナー天楼』に迎えられて以来、飛躍的に増加していた。
いや、誤解のないように申し上げておくと、我が主アグニヴ様の呪いが解呪へ向かい、城内に春の光が満ちたこと自体は、筆舌に尽くしがたい慶賀の極みである。
亡き前竜王を失い、呪いの激痛に苛まれながら生涯孤独に朽ち果てようとしていた主君の魂が救われたのだ。
臣下として、そして幼馴染として、これ以上の喜びはない。
……問題は、呪いの軛から解き放たれた我が主が、恐るべき速度で『過保護モンスター』へと変貌を遂げてしまった点にある。
かつて氷の冷徹王と恐れられた威厳は、伴侶の前で跡形もなく消え去っていた。
ここに、私の執務手帳に記された観察日誌の抜粋を記録しておこう。
◆ ◆ ◆
【某月某日:晴れ】
近衛騎士団長イグニスが、訓練場で負傷した手首に、ノア様手製の湿布薬を巻いてもらって大喜びしていた。
イグニスが無邪気に笑い、ノア様の頭にポンと手を置こうとしたり、若い兵士が木彫りの小鳥を貢いだりした瞬間である。
執務室の窓辺から、氷河期が到来したかのような冷気が吹き荒れた。
背後に控えていた私に対し、主は眉間に深い溝を刻んでこう言い放たれた。
「イグニスを、明日から北の氷壁警備へ三ヶ月派遣せよ。あの木彫りを渡した小僧は、城壁の外周清掃を百往復だ」
イグニス殿に対する理不尽な厳罰の理由を問うと、主は冷徹な面持ちで即答された。
「ノアの頭髪に気安く触れようとした不敬罪だ。余ですら、まだ三回しかなでておらぬのだぞ」
王の器が日に日に小さくなっている。
私は手帳を閉じ、冷淡に主へ告げた。
「主、イグニス殿を極寒地へ追いやれば、城の防衛網に重大な支障が出ます。それに回数を数えておられるのですか」
正論で小一時間説教し、どうにか勅命を撤回させた。
胃薬の調合をノア様に依頼せねばなるまい。
◆ ◆ ◆
【某月某日:曇り時々雪】
ノア様が、城の料理番たちへの日頃の感謝として、薬草工房の窯で手作りのハーブクッキーを焼き上げられた。
甘い焼き菓子の匂いに誘われ、厨房には若い近衛兵や侍女たちが集まり、賑やかな歓声が上がっていた。
ルカ様も嬉しそうにクッキーの欠片をついばみ、城中が温かな空気に包まれる。
――その平和を破ったのは、漆黒のマントを翻して厨房へ乗り込んできた我が主であった。
主は無言の威圧感をもって厨房の中心へ進み出ると、焼き上がったばかりのクッキーが載った大皿を、皿ごと腕の中に抱え込まれた。
「き、王……? それはノア様が我らにと焼いてくださったもので……」
震える料理長に対し、主は黄金の瞳を冷たく眇めて言い放たれた。
「これは余の伴侶が作ったものだ。貴様らに食わせる粉など一粒もない」
貴方は子供ですか。
城の最高権力者が、部下たちのおやつを強奪してどうされるおつもりか。
その日の午後、主は執務室に籠もり、書類仕事の合間に一枚ずつ大切そうにクッキーを食しておられた。
しかも、乾燥しないよう結界魔術で密閉保存しながらである。
魔術の無駄遣いにもほどがある。
一方のノア様はといえば、クッキーを奪われた料理番たちに申し訳なさそうにしつつも、柔らかな笑みを浮かべておられた。
「アグニヴ様、よっぽどお腹が空いていたのかな。喜んでもらえてよかった。次はアグニヴ様専用に、大きいのをたくさん焼いて差し上げよう」
無自覚人たらしとは、ノア様のような方を指す言葉に違いない。
主の重すぎる執着に微塵も気づかず、純粋な好意で包み込んでしまう。
この天然の愛らしさの前にあっては、歴戦の竜王が骨抜きにされるのも無理からぬことであった。
◆ ◆ ◆
【某月某日:曇り】
午前中の閣議を終え、図書室の巡察に向かった折のことである。
ノア様が、高い本棚の上段にある薬草図鑑へ背伸びして手を伸ばしておられた。
踏み台を取ってこようと私が歩み寄りかけた瞬間、背後から音もなく現れた巨大な漆黒の影が、ノア様を後ろからすっぽりと包み込んだ。
アグニヴ様である。
長身を活かして目的の図鑑を片手で棚から引き抜くと、そのままノア様の首筋に顔を埋めた。
「ひゃっ……!? あ、アグニヴ様!?」
「ノア。背伸びなどして足を滑らせたらどうする。本を読みたいなら余を呼べと申したはずだ」
「たかが本を一冊取るだけです! アグニヴ様はお忙しいのに、そんなことで呼べるわけありません!」
「余の仕事など、貴様の安全に比べれば道端の小石に等しい」
国政を小石と言い切る主君の襟首を掴みたくなる衝動を、私は必死にこらえる。
さらに主は、眉ひとつ動かさずに恐るべき命令を口にした。
「ヴェルナー。今すぐ城内のすべての本棚の高さを、ノアの手が届く位置まで低く切り詰めよ。ついでに床一面に最高級の白羊毛絨毯を二重に敷き詰めろ。ノアが万一転んでも、かすり傷ひとつ負わぬようにな」
「主、王城の図書室は三百年以上の歴史を持つ国の重要文化財です。棚をのこぎりで切断するなど正気の沙汰ではありません。絨毯の敷設予算も却下いたします」
即座に却下すると、主は酷く不満そうな顔でノア様の腰を抱き寄せ、そのまま自らの膝の上へと引き据えた。
ノア様が耳まで真っ赤にしてじたばたともがく姿を、図書室の司書たちが遠巻きに生温かい眼差しで見守っている。
執務室へ戻った私は、手帳に『主君の過剰防衛に関する予算防衛策』と大きな字で書き殴る。
◆ ◆ ◆
【某月某日:雨】
城内の巡察を行っていた際、ノア様が重い薬草の木箱を運ぼうとしておられる姿を目にする。
私が駆け寄って手伝おうとした瞬間、またしても漆黒の影が滑り込んできた。
公務中のはずの竜王が、音もなく背後に現れ、ノア様を木箱ごと軽々とお姫様抱っこで抱き上げたのだ。
「ひゃっ……!? ア、アグニヴ様!?」
「誰がそのような重労働を許した。腰を痛めたらどうする」
「たかが数株の乾燥根です! 重くなんてありません!」
「ならぬ。今後は城内のすべての荷運びを禁止する。貴様が触れてよいのは、薬匙と余の身体だけだ」
真顔でとんでもない台詞を口にする主に、ノア様は顔から火が出るほど赤くなっておられた。
抱き抱えられたまま工房まで運ばれていくノア様を見送りながら、私は深いため息を禁じ得ない。
護衛の近衛兵たちも、もはや主の過保護ぶりに慣れきっており、生温かい目で見守る始末である。
◆ ◆ ◆
【某月某日:快晴】
大聖堂での戴冠式を終えた翌朝。
城の中庭に新設された薬草園を巡察した際のことである。
麦わら帽子を被り、エプロン姿で楽しそうにハーブを摘むノア様の背後に、長身の主がぴったりと張り付いておられた。
抱きかかえるように後ろから腰に腕を回し、ノア様の首筋に鼻先を埋めて深呼吸を繰り返している。
公務の書類が執務机の上に山積みになっているというのに、王は一歩も薬草園から離れようとされない。
「主、そろそろ午前の閣議でございます」
私が声をかけると、主はノア様を抱きしめたまま、射殺さんばかりの冷眼で私を睨みつけてこられた。
「五分待て。今、余のフェロモンをノアに補充している最中だ」
「朝から三時間も補充しておいででしょう。これ以上補充すれば、ノア様が主の匂いで染まりきってしまいます」
「染まって何が悪い。余の伴侶なのだから、余の匂いだけで満たされるのが当然だ」
開き直る主に対し、ノア様は真っ赤になりながら声を上げられた。
「アグニヴ様、人が見ていますから……!」
身悶えするノア様だったが、その表情には嫌がる気配など微塵もなく、隠しきれない幸福の色が満開に咲き誇っている。
肩の上に乗ったルカ様が抗議の声を上げ、主の漆黒の短髪を前足で引っ張ると、主は不機嫌そうに甥を睨み返し、ノア様がふふっと笑い声をこぼす。
春風が吹き抜け、青空の下で色鮮やかな薬草の花々が揺れていた。
私は手帳を閉じ、胸の奥から湧き上がる温かな感慨とともに、安堵の吐息を漏らした。
まったく、手のかかる主君と、愛らしすぎる王妃様である。
だが、この騒がしくも甘い日常を守るためなら、幾らでも小言を言い、幾らでも残務を処理してやろう。
遠くで響く二人の笑い声を耳にしながら、私は静かに中庭の石畳を歩き出した。




