エピローグ「陽光の薬草園と小さな家族」
峻険な竜峰の頂きにそびえる『ドラグナー天楼』にも、穏やかな春の光が降り注いでいた。
かつて一年を通じて凍てつく吹雪に閉ざされていた岩肌には、柔らかな緑の苔と高山植物の芽吹きが顔を覗かせている。
澄み渡る青空から注ぐ陽光が、城の白亜の尖塔を温かな金色に染め上げていた。
城の南側に位置する中庭には、いまや色鮮やかな薬草が咲き乱れる広大な薬草園が広がっている。
帝国から追放されたあの日、極寒の雪山で死を覚悟した薬師ノア・エルディアンは、いまその薬草園の中央にしゃがみ込み、柔らかな土に手を差し入れていた。
つばの広い麦わら帽子をかぶり、生成りのリネンエプロンを身にまとったノアは、丹精込めて育てた白百合草の根元に優しく土を寄せる。
指先から伝わる土の温もりに、ノアは自然と口元を緩めた。
(……温かいな)
ほんの数年前までの生活が、まるで遠い前世の出来事のように思える。
帝国の中央宮廷では、落ちこぼれのオメガとして地下の薄暗い工房に閉じ込められ、ただ薬を作り続けるだけの道具として扱われていた。
誰からも名前を呼ばれず、冷たい嘲笑と蔑みの視線に耐え忍ぶ日々だった。
それが今では、この竜王国の王妃として迎えられ、誰からも尊ばれ、何不自由のない愛に包まれている。
風が吹き抜けるたび、甘く清らかなハーブの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「キュイッ、キュルル!」
愛らしい鳴き声とともに、足元に小さなもふもふの塊が飛び込んできた。
白銀の幼竜ルカである。
大聖堂での戴冠式から一年が過ぎ、ルカの体は以前よりも一回りほど大きくなっていた。
それでもノアの膝の上にすっぽりと収まるほどの愛らしさは健在で、背中に生えた小さな翼をパタパタと忙しなく羽ばたかせている。
ルカは口にくわえていた摘みたての薬草を、得意げにノアの手のひらへと落とした。
「ルカ、それを摘んできてくれたの? ありがとう、上手に根元から取れたね」
「キュイ!」
ノアが柔らかく目を細めて頭をなでてやると、ルカは嬉しそうに喉をごろごろと鳴らし、すりすりと頭をすり寄せてきた。
羽毛のように柔らかな白銀の毛並みは、日差しを浴びてきらきらと輝いている。
かつて母竜を亡くし、城の片隅で怯えていた幼い命は、いまや城中の誰からも愛されるやんちゃ盛りの小さな天使へと成長していた。
「手伝ってくれて助かるよ。でも、あんまり泥だらけになると、あとでお風呂に入らないといけなくなるよ?」
「クルル……」
お風呂という言葉を聞いた瞬間、ルカは露骨に耳をぺたりと伏せ、困ったような情けない声を漏らした。
その仕草があまりにも愛らしく、ノアは思わずくすくすとおかしそうに笑う。
のどかな時間が流れ、小鳥のさえずりが中庭に響き渡っていた。
――その静けさを破るように、重厚な革靴の足音が石畳を踏みしめて近づいてくる。
迷いのない、力強くもどこか急いたような足音だった。
振り返るよりも早く、頭上から大きな影が落ち、逞しい両腕がノアの細い腰を後ろからすっぽりと抱きすくめた。
「ひゃっ……!?」
驚いて身をすくませたノアの背中に、驚くほど熱く、けれどどこか清涼な冷気を帯びた広い胸板が密着する。
深く息を吸い込む気配とともに、首筋のうなじのあたりに、柔らかな唇が落とされた。
「……見つけたぞ、余の番」
低くかすれた、耳朶を震わせる声。
竜王アグニヴ・ドラグニールであった。
漆黒の短髪に、黄金の双眸。
かつて大陸全土から『冷徹な氷の竜王』と恐れられた君主は、いまや伴侶の首筋に鼻先を埋め、まるで飢えた獣のように深く甘い匂いを吸い込んでいる。
ノアの身体から立ち上る白百合と蜂蜜の香りを胸いっぱいに満たし、アグニヴは深く満足の熱い息を漏らした。
「ア、アグニヴ様……!? 午前の執務はどうされたのですか? まだ閣議の途中なのでは……」
驚いて振り返ろうとするノアを、アグニヴは腕の力を緩めることなく、さらに強く自らの胸元へと引き寄せた。
「ヴェルナーの小言など知ったことか。執務室に届くお前の香りが薄れたゆえ、補充に来た」
「ほ、補充って……! 朝起きた時にも、たっぷり抱きしめてくださったばかりじゃないですか」
「朝の分など疾くに揮発した。余の伴侶が、陽光の下で無防備に香りを振りまいているのだぞ。城中の不届き者どもが、お前の香りに当てられて色めき立ったらどう責任を取るつもりだ」
不機嫌そうに黄金の瞳を眇める竜王に、ノアは困ったように眉を下げた。
相変わらずの重すぎる独占欲である。
本編の戦いが終わり、呪いが綺麗に解呪されてからというもの、アグニヴの過保護ぶりは悪化の一途をたどっていた。
少しでもノアが視界から消えれば城内を探し回り、他の騎士や侍従と親しげに話していれば冷眼で威圧し、こうして事あるごとに首筋を甘噛みして己の匂いを上書きしようとするのだ。
「誰にも振りまいてなんかいません。ほら、ルカも見ていますから、離してください……恥ずかしいです」
ノアが顔を真っ赤にして身をよじると、足元にいたルカが抗議するように声を上げた。
「キュイッ! キュルルル!」
ルカは短い前足をアグニヴの長靴にぽかぽかとぶつけ、ノアを独占しようとする叔父の竜王を睨みつける。
アグニヴは冷淡な視線を足元へと落とした。
「生意気な小竜め。ノアの隣は余の特等席だ。貴様にはまだ十年早い」
「ふぎゃーっ!」
威嚇し合う竜の王と幼竜の姿に、ノアは堪えきれずに吹き出してしまった。
威厳に満ちた竜王が、手のひらサイズの幼竜と本気で張り合っている姿は、傍から見れば滑稽でしかない。
けれど、その不器用な情愛が、ノアにはどうしようもなく愛おしかった。
「もう……二人とも喧嘩しないでください。アグニヴ様、お仕事がお忙しいのは分かっていますけれど、無理はなさらないでくださいね。昨夜も遅くまで書類を読んでいらしたでしょう?」
ノアがくるりと腕の中で身を反転させ、アグニヴの逞しい首筋にそっと手を添えた。
薬草の香りが染み付いた柔らかな手のひらが頬に触れると、アグニヴの険しかった表情が一瞬で解け、蕩けるような甘い眼差しへと変わる。
アグニヴはノアの手のひらに頬をすり寄せ、その細い手首に優しく口づけた。
「……お前がこうして触れてくれれば、いかなる疲労も吹き飛ぶ。ノア、お前は余の奇跡だ」
「奇跡だなんて、大げさです」
「大げさなものか。かつて余の魂は、冷たい呪いの業火に焼かれ、孤独のうちに死に絶えるはずだった。お前のその温かな手が、余を闇の底から引き揚げてくれたのだ」
黄金の瞳に宿る真摯な熱情に、ノアの胸がトクンと跳ねる。
偽りの番として契約を結んだあの日。
道具として使い潰される覚悟で足を踏み入れたこの城で、ノアが得たものは、偽りなどではない真実の愛だった。
アグニヴの冷え切っていた心を溶かしたのはノアの薬草と献身であり、ノアが抱えていた凍てつく孤独を救ったのはアグニヴの不器用で深い情愛に他ならない。
「主――! やはりここにおられましたか!」
薬草園の入り口から、息を切らしたヴェルナーが姿を現した。
手には分厚い書類の束と、湯気を立てる二つのティーカップが載った銀のトレイを持っている。
ヴェルナーは眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、深いため息をこぼした。
「閣議を途中で放り出して伴侶の元へ脱走するなど、一国の君主としてあるまじき所業でございます。どれほど私が胃を痛めているか、少しはご理解いただきたいものです」
「やかましいぞ、ヴェルナー。余は我が伴侶の健康管理という、国家最重要任務を遂行している最中だ」
平然と言い放つアグニヴに、ヴェルナーはあきれ果てたように肩をすくめた。
けれど、その小言を口にする侍従長の表情には、かつてのような悲壮感や焦燥感はどこにもない。
主君の呪いが解け、幸福に満ちたこの城の空気を、ヴェルナー自身も誰よりも慈しんでいるのだ。
「言い訳は結構でございます。……ノア様、お疲れではありませんか? 温かいハーブティーをお持ちいたしました。庭園の手入れの合間に、どうぞお召し上がりください」
「ヴェルナーさん、ありがとうございます。いつも気を遣っていただいてすみません」
「いえ、ノア様が微笑んでおられるだけで、この城の治安は保たれておりますので」
ヴェルナーがトレイを木製のガーデンテーブルに置くと、ルカがいそいそと椅子によじ登り、テーブルの上の焼き菓子を物色し始めた。
アグニヴはノアの腰を抱いたままベンチへと腰を下ろし、ノアを自らの膝の上へと引き据える。
「アグニヴ様、自分で座れますから……!」
「座らせん。余の温もりが必要なはずだ」
腕の中に閉じ込められたまま、ノアは諦めてアグニヴの広い肩に身を預けた。
鼻をくすぐるアグニヴの竜のフェロモンは、甘く香ばしい白檀と新雪の香りが混ざり合い、驚くほどノアの心を落ち着かせてくれる。
二人で分け合うハーブティーからは、ノアが育てたカモミールとミントの清々しい香りが立ち上っていた。
かつて雪山に捨てられ、世界から拒絶されたと思っていた自分が、いまこうして温かな家族に囲まれている。
頼もしくも愛おしい伴侶と、愛らしい幼竜と、口うるさくも忠実な臣下たち。
柔らかな春風が吹き抜け、満開の薬草の花弁が白銀の光をまとってふわりと宙を舞う。
ルカが楽しげに鳴き声を上げ、アグニヴの温かな腕がノアの身体を抱きしめる。
耳元に届く静かな寝息のような安らぎに包まれながら、ノアは穏やかに目を細め、胸いっぱいに春の空気を吸い込んだ。




