第八話「竜の咆哮と揺らぐ誓い」
祝祭の熱気が静まり返った深夜、ノアに割り当てられた寝室は、息苦しいほどの高熱と甘やかな芳香に満たされていた。
バルコニーから戻り、礼装を脱いで寝台に横たわった直後のことだった。
突如として下腹部の奥深くが灼熱の鉄を押し当てられたように疼き、全身の血管が沸騰するような激しい熱波が押し寄せてきたのだ。
(あ……っ、熱い……息が、できない……)
手足が激しく痙攣し、シーツを掻きむしる。
帝国時代、ノアは一度も本格的な発情期――ヒートを経験したことがなかった。
香りが薄い欠陥オメガと嘲笑われ、自らの身体がオメガとしての機能を持っていることすら忘れかけていた。
だが、アグニヴという強大極まりないアルファの側に身を置き、彼の濃密なフェロモンと体温に日常的に触れ続けたことで、奥底に眠っていた機能が一気に覚醒してしまったのだ。
毛穴という毛穴から、濃厚極まりない白百合と蜂蜜の香りがとめどなく溢れ出す。
部屋の扉の隙間をすり抜け、回廊へとその甘い香気が流れ出していった。
自分の意思とは無関係に身体が火照り、頭の中が白く霞んでいく。
助けを呼ぼうにも声が出ず、ただ寝台の上で身悶えするしかなかった。
ドカァン、と雷鳴のような轟音とともに寝室の扉が蹴破られた。
現れたのは、漆黒の寝衣をまとったアグニヴだった。
「ノア……!」
部屋に踏み込んだ瞬間、アグニヴの身体が目に見えて硬直する。
部屋を満たす芳醇なオメガフェロモンの奔流。
それは、アグニヴの奥深くに眠る竜の血を直接刺激し、飢えた野獣の本能を一瞬にして呼び覚ます劇薬だった。
アグニヴの黄金の瞳が爛々と輝き、縦瞳が針のように細くなる。
全身の筋肉が隆起し、背中から幻影のような漆黒の竜翼が展開されかけた。
寝台の上では、薄手の寝間着を汗で肌に張り付かせたノアが、シーツを抱きしめて涙に濡れた顔をもがいていた。
「あ、アグニヴ、様……身体が、燃えるみたいで……助けて……っ」
かすれ切った、哀願するような声。
無防備に晒されたノアの白い首筋。
そこからは、アグニヴの魂を狂わせる甘い匂いが湯気のように立ち上っている。
アグニヴの理性が、激しい渇望に呑まれ、千々に引き裂かれそうになる。
今すぐ寝台に飛び込み、あの細い身体を押し倒して、白い柔肌を貪り尽くしたい。
うなじに深く牙を突き立て、己のマーキングを骨まで刻み込み、己だけの伴侶にしてしまいたい。
そうすれば、この狂おしい飢えも、ノアの苦しみも一瞬で終わる。
アグニヴが一歩、寝台へと足を踏み出した。
その歩みは、獲物を前にした獣そのものだった。
だが、ベッドの端まで進み出たとき、涙を流しながら震えるノアの翡翠の瞳が、アグニヴを真っ直ぐに捉えた。
恐怖と、苦痛と、そして無条件の信頼が混ざり合った瞳。
『私は、アグニヴ様の苦痛を和らげるためにここにいる、ただの道具です』
先ほどバルコニーで聞いたノアの悲痛な声が、アグニヴの脳裏に蘇る。
今、手を出せばどうなるか。
理性を失ってこの華奢な薬師を力で奪えば、それは自らが忌み嫌う暴虐な怪物に成り下がるということだ。
ノアは自分を恐れ、二度と心を開かなくなるだろう。
契約という鎖で縛り、発情期に乗じて身体を奪うなど、竜の誇りが、そして何よりノアへの愛が決して許さなかった。
「……ぐ、ああああっ……!」
アグニヴは天を仰ぎ、獣のような苦悶の咆哮を上げた。
そして、自らの右手――鋭く尖った竜の爪を、自らの左の手のひらへと容赦なく深々と突き立てた。
肉を切り裂き、骨に届くほどの自傷。
生暖かい赤い鮮血がボタボタと絨毯に滴り落ちる。
激痛が閃光となって脳を貫き、沸騰しかけていたアルファの本能を力づくで冷却した。
血を流しながら、アグニヴは荒い呼吸で寝台の縁にひざまずいた。
「怖がるな、ノア……余は、貴様を力で奪ったりはせぬ」
血塗れの左手を背後に隠し、アグニヴは清潔な右腕で、毛布ごとノアの小さな身体を慈しむように抱き上げた。
引き寄せられたノアは、アグニヴの首元に顔を埋め、熱い吐息を漏らしながら震える。
アグニヴはまぶたを閉じ、自らの体内に眠る冷気魔力を解放した。
部屋の中に、真冬の雪原のような清冽な冷風が心地よく渦巻き始める。
熱風に満ちていた部屋の温度が徐々に下がり、ノアの肌を灼く熱狂を和らげていく。
「大丈夫だ。余がここにいる。誰にも貴様を奪わせん」
耳元で繰り返される、低く温かい囁き。
アグニヴは一晩中、ノアを抱きしめ続けた。
腕の中の熱い身体が身悶えするたびに、甘美な香りが鼻腔をくすぐり、自制の糸が切れそうになる。
そのたびにアグニヴは傷口をさらに強く握り締め、激痛によって理性を保ち続けた。
冷たい魔力の風と、アグニヴの確かな腕の温もり。
ノアは熱に浮かされながらも、自分を包み込む大きな腕が、決して自分を傷つけようとしていないことを肌で感じていた。
帝国では、弱っているときに誰も手を差し伸べてくれなかった。
病気になっても、薬草の世話を押し付けられ、冷たい床で震えるしかなかった。
それなのに、目の前のこの尊い王は、己の手を血に染めてまで、自分という取るに足らない薬師の尊厳を守り抜いてくれている。
(温かい……守られているんだ……)
ノアの心に、深い安心と、切ないほどの愛しさが込み上げてくる。
夜が白み始める頃、ノアの荒かった呼吸は次第に整い、高熱が引いていった。
苦痛に歪んでいたノアの眉間が解け、安らかな寝息が部屋に響き始める。
ノアはアグニヴの胸元のシャツを小さな手で握りしめたまま、深い眠りに落ちていた。
カーテンの隙間から、朝の青白い光が差し込んでくる。
アグニヴは、腕の中で眠るノアの柔らかな亜麻色の髪を、血のついていない指先でそっと梳いた。
透き通るような白い肌、長いまつげ、安心しきって微かに開いた唇。
冷徹な竜王の瞳には、かつてないほど深遠な愛おしさと、暗い執着の焔が密やかに灯っていた。
やがて、小鳥のさえずりが窓の外から聞こえ始めた頃、ノアのまぶたが微かに震え、ゆっくりと開かれた。
澄んだ翡翠の瞳が、至近距離にあるアグニヴの黄金の瞳を捉える。
「……アグニヴ、様……?」
「気がついたか」
「私……昨晩、熱が……」
記憶が蘇ったノアの頬が、一瞬にして林檎のように赤く染まった。
咄嗟に身を起こそうとしたノアの視界に、アグニヴの左手が飛び込んできた。
寝台のシーツに落ちた、赤黒く染まった血の跡。
そして、アグニヴの左の手のひらに深く刻まれた、痛々しい四本の鉤爪の痕跡。
「アグニヴ様! そのお怪我は……!」
ノアは自分の恥じらいも忘れ、アグニヴの手を両手で包み込んだ。
なぜこんな傷ができたのか、聡明なノアにはすぐに理解できた。
自分を襲わないために、この王は自らの肉体を傷つけて耐えたのだ。
「……何でもない。大した傷ではない」
アグニヴは手を引き戻そうとするが、ノアはその手を強く握りしめて離さない。
ぽろぽろと、大粒の涙がノアの目からこぼれ、アグニヴの傷口に落ちる。
「何でもないはずありません! 私のために……どうして、そこまで……」
「余の番だからだ」
短く、しかし揺るぎのない響きを帯びた言葉。
アグニヴは自由な右手で、ノアの涙を温かな指先で拭った。
「貴様を守るためなら、余の血などいくら流れても構わん」
かすれた声で告げられたその言葉に、ノアの胸は激しく締めつけられた。
もう、嘘はつけなかった。
ただの契約上の道具などではない。
朝の澄み切った光が、寝室の床に伸びる二人の影を優しく包み込んでいた。




