第七話「すれ違う心と道具の矜持」
冬至の祝祭当日、竜王城の大広間は、無数の魔導灯と焚き火の炎で昼間のように明るく照らし出されていた。
年に一度、太陽の再生を祈る竜王国の最も神聖で華やかな祭礼である。
広間には、正装をまとった竜人族の貴族や屈強な将軍たち、さらには近隣諸国からの使節団が集い、美酒に酔いしれていた。
石造りの壁面には氷雪を象った見事な旗が掲げられ、吟遊詩人たちが奏でる竪琴の旋律が響き渡っている。
その賑わいの中心、一段高い玉座の脇に、ノアは立っていた。
(……私なんかが、こんな格好をしていていいのかな)
ノアが身にまとっていたのは、アグニヴから直々に下賜された華やかな純白の礼装だった。
滑らかな白銀の絹織物に、霊峰の氷雪を模した銀糸の精緻な刺繍が施されている。
襟元には、ノアの瞳と同じ澄んだ翡翠のブローチが留められていた。
袖口や裾には柔らかな白銀の毛皮があしらわれ、歩くたびに微かに揺れる。
普段の質素な薬師服とは見違えるほど可憐で、清楚な気品を漂わせるノアの姿に、会場に入った当初から多くの竜人たちが感嘆の視線を注いでいた。
だが、その視線の多くは、ノアの腰に添えられた大きな手によって即座に遮断されていた。
アグニヴだ。
黒と銀の正装に身を包んだ冷徹な竜王は、終始ノアの腰を引き寄せるように抱き、周囲に向けて近寄りがたい威圧の気を放ち続けている。
他国の使節が祝辞を述べに来るたび、アグニヴは必要最低限の言葉しか返さず、ノアから一歩たりとも離れようとしない。
その過保護すぎる振る舞いに、ノアのうなじの契約印は微かな熱を帯び続けていた。
腰に回されたアグニヴの手のひらからは、布地越しに熱い体温が伝わってくる。
「アグニヴ様、あの……腰の手、少し強すぎませんか」
ノアが耳元で小声で尋ねると、アグニヴは冷たい横顔を崩さぬまま、低く囁き返した。
「他国の使節には油断のならぬ者が多い。余の側から離れるな」
命令口調の裏に、どこか焦燥のようなものが混ざっている。
だが、宴が中盤に差し掛かった頃、北方の自治領主たちがアグニヴの元へ挨拶に訪れ、どうしても外せない公務の会話が始まった。
領主たちの熱心な陳情にアグニヴが応じる間、広間の熱気と香煙に少し酔いを覚えたノアは、アグニヴに目礼し、涼をとるためにバルコニーへと抜け出した。
硝子戸を開けると、身を切るような夜風が頬を打ち、火照った肌を心地よく冷ましてくれる。
手すりに寄りかかり、星々が瞬く夜空を見上げ、ノアが小さく息を吐いたときだった。
「おや、一人でお出ましとは珍しい」
背後から掛けられたのは、粘つくような冷笑を含んだ声だった。
振り返ると、上質な毛皮をまとった三人の竜貴族たちが、バルコニーの出口を塞ぐように立っていた。
竜王国の保守派――純血の竜族アルファ至上主義を掲げる貴族たちに他ならない。
「……何か、私にご用でしょうか」
ノアが毅然と顔を上げて問いかけると、先頭の壮年貴族が鼻を鳴らし、侮蔑に満ちた視線をノアの全身に這わせた。
「用などないさ。ただ、帝国の片隅から拾われてきた人間風情が、我が国の王妃気取りで玉座の隣に侍っているのが滑稽で見物に来ただけだ」
「香りの薄い欠陥オメガなど、子を成すこともできぬただの役立たずではないか」
別の若い貴族が嘲笑を重ねる。
「王の呪いの発作を抑えるための、一時的な薬草係にすぎん。我が主も憐れなことだ。呪いのために、このような下賤な道具を側に置かねばならんとはな」
「いずれ呪いが解けるか、あるいは真に誇り高き竜族の運命の番が現れれば、貴様など用済みとなって路傍に捨てられるのだ」
次々と浴びせられる悪意に満ちた言葉。
それは、かつてオルディス帝国の宮廷でジェラルドや貴族たちから日常的に浴びせられていた罵倒と、寸分違わぬものだった。
胸の奥に、冷たい痛みが刺さる。
やはり、自分はどこへ行っても出来損ないなのだと、過去の傷口が開きそうになる。
だが、ノアはうつむかなかった。
膝の震えを隠すように両手を前で揃え、翡翠の瞳をすっと上げて、貴族たちを毅然と見据えた。
「ええ、存じております」
凛とした声だった。
取り乱すこともなく、怒ることもなく、ただ透き通るような静けさ。
「私は、アグニヴ様の苦痛を和らげるためにここにいる、ただの道具です。契約によって生かされているだけの、仮の番にすぎません。本物の番が現れたなら、いつでも身を引く覚悟はできております」
貴族たちが虚を突かれたように言葉を詰まらせた。
ノアは穏やかに微笑み、言葉を継いだ。
「ですが、私は薬師です。アグニヴ様が激痛に耐えておられる限り、私を必要としてくださる限り、全霊を尽くしてあの方をお支えいたします。道具であっても、私はあの方の役に立てることを誇りに思っております」
一切の私欲のない、澄み切った薬師としての矜持。
貴族たちが顔を真っ赤にして何かを言い返そうとした、その瞬間だった。
ガタガタと石造りのバルコニー全体が激しく震動した。
大気が凍りつくような、凄まじい殺気。
硝子戸が内側から吹き飛ばされ、そこに立っていたのは、黄金の瞳を怒りの炎で紅蓮に染めたアグニヴだった。
「――余の番を愚弄したな」
低く地を這うような咆哮。
アグニヴの全身から立ち上る漆黒の瘴気とアルファの覇気に、三人の貴族たちは悲鳴を上げてその場にひざまずいた。
「わ、我が主……! これは、その……!」
「失せろ」
アグニヴの短い一喝。
それだけで、貴族たちは腰を抜かしながら這うようにして広間へと逃げ去っていった。
静まり返った夜のバルコニー。
ノアは呆然と立ち尽くしていた。
怒りに肩を震わせるアグニヴが、大股で歩み寄ってくる。
その顔には、貴族たちへの怒りだけでなく、引き裂かれるような深い苦悶の色が浮かんでいた。
(……アグニヴ様……?)
アグニヴは何も言わずに、冷たい風に晒されていたノアの小さな身体を、両腕で力任せに引き寄せた。
骨がきしむほどの強さで抱きしめられる。
アグニヴの熱い胸板に顔が埋まり、ノアの耳元に彼の激しい心音が届く。
アグニヴの大きな手が、ノアの背中を包み込み、自らの体温を分け与えるように強くさすった。
胸元の布地を握りしめるノアの指先は、寒さと緊張のせいでかすかに震えている。
貴族たちの前で道具と言い切ったノアの言葉が、アグニヴの魂を鋭く切り裂いていたのだ。
道具などではない。
どれほど自分がノアの存在に救われ、ノアその人を渇望しているか、何一つ伝えられていなかった。
誰よりも誇り高く、誰よりも愛しいノアを、自らの言葉足らずが傷つけてしまったという悔恨。
偽りの契約という枠組みが、ノアの心を道具という殻の中に閉じ込めてしまっていたのだ。
アグニヴの腕に込められた切実な温もりが、ノアの胸を強く締めつける。
アグニヴがかすれた声で囁いた。
「……寒くはないか」
ノアは腕の中で小さく首を振った。
「……寒くありません。アグニヴ様は、とても温かいです」
道具として割り切っていたはずなのに。
感情を抱いてはならないと自分に言い聞かせていたはずなのに。
アグニヴの不器用な優しさに触れた瞬間、ノアの翡翠の瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
ノアの涙が、アグニヴの礼装の胸元を小さく濡らしていく。
アグニヴは何も言わず、ただ夜風を遮るようにその大きなマントでノアを包み込み、夜空の月が雲に隠れるまで、固く抱きしめ続けていた。
冷たい風の音が、二人の逢瀬を包み込むように遠くで鳴り響く。
アグニヴの胸の中で、ノアはそっと目を閉じ、伝わってくる確かな熱を全身で受け止めていた。




