第六話「甘い痺れと隠された独占欲」
冬至の祝祭を翌日に控えた夕暮れ時、竜王城の最上層に位置する大温室は、蒸気と濃厚な花の香りに包まれていた。
外部の極寒から遮断されたこの空間には、竜脈の地熱を利用した温水が石畳の下を縦横に張り巡らされている。
南方の熱帯雨林から持ち込まれた常緑樹や、霊峰特有の夜咲き草が、青々と瑞々しい葉を広げて生い茂っていた。
ガラス張りのドーム状の天井の外には、茜色から宵闇へと移ろう雪山の雄大な峰々がどこまでも連なっている。
冷え切った外の世界とは対照的に、温室の内部は肌を濡らすほどの濃密な湿気と微温に満ちていた。
ノアは腰に編み籠を提げ、湿り気のある温室の小道を奥へと進んでいた。
その斜め後ろには、黒いマントを翻す長身の影――竜王アグニヴが、無言で追従している。
足元には、時折小さな温水の水路が横切っており、湯気が白く立ち上っていた。
(本当に……アグニヴ様自らついてこられるなんて)
他の兵士に護衛を任せることを禁じ、公務の合間を縫って自ら同行してきたのだ。
アグニヴの肩の上では、小さな白銀の子竜ルカがちょこんと座り、アグニヴの耳元に向かって小さく鋭い唸り声を上げている。
アグニヴは煩わしそうに眉根を寄せつつも、ルカを払い落とそうとはしなかった。
「……何をぼんやりとしている。足元が滑るぞ」
背後から掛けられた低い声に、ノアは小走りに足を前に進めた。
「は、はい! 明日の祝祭でアグニヴ様が召し上がる儀式茶に、どうしても必要な花なんです」
「儀式茶など、形骸化した風習にすぎん。無理をしてまで採取する必要はあるまい」
「そうかもしれませんが、この花には特別な鎮静の力があります。少しでもアグニヴ様の首元の痛みを和らげられるなら、採りたいんです」
ノアが振り返って真っ直ぐに微笑むと、アグニヴはわずかに視線を泳がせ、口元を引き結んだ。
ノアが目指すのは、温室の最奥、澄んだ泉の畔に咲く『月光睡蓮』である。
満月と冬至の夜にのみ開花するその花は、水面の上で淡い蒼色の燐光を放ち、水鏡を幻想的に照らしている。
昂ぶった神経を鎮め、魔力の循環を整える霊薬の原料として知られていた。
だが、同時に月光睡蓮の微細な花粉は、かすかな幻惑作用を帯びている。
第二の性を持つ者の感覚を過敏に研ぎ澄まし、体温をわずかに上昇させる作用があるのだ。
泉の縁には青い苔が生い茂り、水面からは冷たい靄が立ち上っていた。
ノアは泉の縁の濡れた岩肌に靴をかけ、つま先立ちになって手を伸ばした。
青白く光る大輪の花弁。
水滴を浴びて艶めく茎を折り取ろうと、指先に力を込める。
その瞬間、濡れた苔に足を取られ、靴底がつるりと滑った。
「あ――」
支えを失い、冷たい水面へと身体が倒れ込む。
その瞬間、突風のような速さで伸びてきた逞しい腕が、ノアの細い腰を力強く抱き止めた。
水飛沫が上がる間もなく、ノアの身体は宙へと引き上げられ、硬い胸板へと強く引き寄せられる。
「……間抜けめ。注意しろと言った傍からこれか」
頭上から降ってきたのは、呆れたような、しかし微かに上擦ったアグニヴの低音だった。
至近距離で重なる二つの吐息。
抱きすくめられたノアの身体は、アグニヴの逞しい腕の中に閉じ込められていた。
温室の濃密な湿気と熱気。
そして、月光睡蓮の放つ甘く気だるい芳香が、二人の感覚を急速に研ぎ澄ましていく。
密着した皮膚を通して、アグニヴの熱い体温が波のようにノアの体内へと流れ込んできた。
鍛え抜かれた胸筋の厚みと、規則正しく刻まれる力強い鼓動。
その熱気に刺激されたのか、ノアのうなじに刻まれた仮の封印印が、カッと激しい熱を放つ。
これまで誰も気づかないほど希薄だったノアのオメガフェロモンが、アグニヴの強大なアルファの気迫に引き出されるように、ふわりと開花した。
白百合の花蜜に、とろりとした濃厚な蜂蜜を溶かしたような、甘美極まりない香り。
温室の空気が一瞬にして甘く染まった。
「……っ……!」
アグニヴの喉仏が大きく上下した。
黄金の瞳が瞬時に獣のように細まり、息遣いが荒く乱れる。
ノアの腰を抱くアグニヴの手のひらに、箍が外れそうなほどの猛烈な力がこもった。
骨がきしむほどの強烈な抱擁。
「ア、グニヴ様……? 苦し、いです……」
ノアが戸惑いと息苦しさに声を漏らすが、アグニヴの耳には届いていなかった。
アグニヴの視線は、ノアの華奢な首筋――露わになった白い柔肌へと釘付けになっていた。
アグニヴの熱い唇が、ノアのうなじへとゆっくりと吸い寄せられていく。
鋭く伸びた竜の犬歯が、チリチリと疼いていた。
今すぐ、ここに牙を突き立てたい。
薄い仮初の印など食いちぎり、己の血と魔力をノアの全身に流し込んで、生涯逃げられない自らの伴侶として刻みつけたい。
他のどの男の視線も届かない場所へ閉じ込め、己だけのものにしてしまいたい。
猛り狂うアルファの本能と独占欲が、アグニヴの理性を内側から激しく食い破ろうとしていた。
熱い吐息がうなじに吹きかけられ、ノアの背筋を甘い痺れが駆け抜けた。
(あ……熱い……頭が、ぼうっとして……)
恐怖ではなかった。
触れ合っているアグニヴの熱さが、胸の奥を激しく疼かせ、身体の奥底が芯から溶けてしまいそうな快さを呼び起こす。
アグニヴの逞しい肩に、ノアの細い指先が無意識に絡みつく。
もっと触れていたい。
この熱い腕の中で、溶かされてしまいたい。
ノア自身もまた、これまで眠っていたオメガの本能が目覚め、アグニヴという存在を激しく求めていた。
ノアの翡翠の瞳が潤み、困惑と熱に浮かされた視線が、アグニヴの黄金の瞳と正面から絡み合う。
潤んだ瞳で自分を見つめ返すノアの無防備な表情。
その純粋無垢な眼差しを見た瞬間、アグニヴの脳裏に冷水が浴びせられた。
(……余は何をしようとしている……! 薬師として信頼してくれたこの者を、力ずくで奪う気か……!)
アグニヴは奥歯が砕けんばかりに噛み締め、猛烈な自制心で本能の衝動をねじ伏せた。
そして、荒々しい動作でノアの身体を引き離した。
よろめいたノアは、泉のほとりの石畳に足をつき、乱れた呼吸を整えながらアグニヴを見上げる。
アグニヴは肩を激しく上下させ、右手で自らの口元を覆う。
その黄金の瞳には、飢餓感と、自己嫌悪の混ざり合った苦悶の色が濃くにじんでいた。
「……すまぬ。睡蓮の毒に当てられたようだ」
かすれ切った冷淡な声音。
アグニヴは一度もノアを振り返ることなく、大股で出口へと歩き出した。
「花を摘んだら、すぐに戻れ。……余は執務室へ戻る」
バサリと翻る黒いマント。
逃げるように去っていく竜王の背中を、ノアは呆然と見送るしかなかった。
温室には再び静寂が戻り、水面を揺らす波紋の音だけが響いていた。
肩の上に乗っていたルカが、心配そうにノアの頬に顔をすり寄せてくる。
ノアは震える膝立ちのまま、泉に咲く一輪の月光睡蓮をそっと手折って籠に入れた。
そして、先ほどまでアグニヴの唇が触れそうになっていた自らのうなじに、戸惑うように指先を添えた。
皮膚の奥が、今もトク、トクと熱く脈打っている。
アグニヴの瞳に宿っていた、あの狂おしいほどの熱情。
冷徹な主君としてではなく、一人の男として向けられた剥き出しの飢え。
その意味を反芻するたびに、胸の奥で激しい動悸が鐘のように鳴り響いた。
冷たい風が温室の天窓の隙間からかすかに吹き込み、二人の熱気を心地よく冷ましていく。
泉の奥では、月光睡蓮の青白い燐光が、緩やかに波打つ水面をどこまでも清らかに照らし出していた。




